最初に世界を汚いと感じたのは、たぶん、五歳くらいの時。何がきっかけだったのかは覚えていない。ただ、幼稚園の先生だったか母だったか、だれか大人の人に「ちゃんと手を洗わないとバイ菌が残っちゃうからね、怖いんだよ」と脅されるように言われたことがあった。

 バイ菌、という言葉の響きが、僕はとても怖かった。「バイ菌」のいる手のひらから悪い何かにどんどん侵食されていくような気がして、僕はそれを聞いた時から日に何度も手を洗うようになった。泡のハンドソープをつけて、普通の人がやるよりもずっと丁寧に、何度も。時には服がびしょ濡れになるまで手を洗っていたことがあって、「この子は本当にやることが極端なんだから」と祖母に怒られた。

 始まりはその程度だったけれど、僕のこれは日に日にひどくなった。土や砂に触ること、プールに入ること、人の食べかけを口に入れること。僕の中で、「抵抗のあること、できないこと」はまるで積み木を重ねるように増えていった。小学校の修学旅行の日、皆の前で吐いてしまってからは、特にそれがひどくなった。僕は何かに取りつかれたみたいに手指を消毒し、身の周りを清潔にした。一度、外から帰ったままの兄が僕の部屋のベッドに座り、我を忘れて激怒したこともあった。

 僕のこれはもう強迫観念に近かった。僕が作る「清潔」の壁は日に日に厚くなっていく。それに圧迫される日々は、やはり窮屈なのだ。だけどどうすることもできない。

 僕はたまに、「自分の存在は世界から切り離されてるんじゃないか」と思うことがある。周囲の人と同じように違和感なく日々を過ごせない僕は、周りに溶け込めない孤立した存在なんじゃないか。僕の周りにも見えない薄い膜が張り巡らされていて、決して他人と交わることはできないんじゃないか。価値観を分かち合うことを共感と言うのならば、僕に共感してくれる人間は誰ひとりとしていなかった。僕を「好きだ」と言って近寄ってくれた女子も、僕が「手もつながないしキスもしたくない」と言うと、ためらいなく僕から離れていった。

「お前さ、人間に向いてないよな」という言葉は、ある意味すごく正しい。残酷なほどに。


 部活から帰った後、僕は日課であるお風呂掃除を始めた。浴槽、壁、蓋、鏡など、それぞれ違うスポンジと洗剤を使って汚れを落としていく。日々の積み重ねのせいで堆積している汚れはほとんどなかったが、一通りの掃除を終えると一時間はゆうに経っていた。ぎこちなく固まった背中を伸ばし、両手にはめたゴム手袋をはずしていく。強い洗剤を使うこともあるので、手荒れを防ぐためにもいつもしているものだ。

 風呂場から出て、リビングに入ると、「あら、昌人くん、何してたの」と声をかけられた。妙に派手な上着を着て、白髪だらけの髪を乱雑にひとつにくくった祖母が、僕のことを咎めるみたいに見ていた。「お風呂掃除」と僕は答える。

「お風呂掃除って、邦子さん、あんた息子に家事やらせてるの? 主婦なのにまったく、だらしない」

 そう母をねめつける祖母に、ごめんなさい、と母が言われるがまま頭を下げる。「違うよ、ばあちゃん」と僕が呼びかけると、祖母は怒ったような目つきのまま、僕に「何」と返事をした。

「僕がやりたくてやってるだけだから。別に母さんにやらされてるわけじゃない」

 じゃあなんだい、お前、まだあれ直ってないの? 祖母はあからさまに大きく溜息をつき、「あのねえ」と眉をひそめて僕を見る。

「潔癖症がなんだって言ってるけどね。男の子がそんな小さいことばっかり気にしててどうするの。邦子さんが甘やかしてばかりなのもどうかと思うけど、あんたももう高校生なんだから自分でちゃんと考えなさい。どこもかしこもきれいにしなくちゃ気が済まなくて、人様に迷惑かけて、そんなんじゃ大人になってからひとりでやってけないよ。大人の世界はそんなに甘くないんだよ」

 祖母がずかずかと僕に近寄る。小柄な彼女の頭は僕の肩ほどまでしかなく、見あげられる姿勢にも関わらず僕は怯みそうになる。

「だいたいね、我慢してるのが自分だけだと思ってたら大間違いだよ。どんだけ嫌なことでも、汚いことでも、みんな我慢してやってることだってある。きれいならいいってもんじゃないんだからね。触れることで免疫が付くものもあるの。それをなんだい、他の人のことも汚いものみたいに言って、そんな風に振舞ってるから、周りの人が余計に気を遣うんじゃないの。お兄ちゃんはあんなに優しい子なのになんでお前は人様の気持ちがわからないかねえ」

 まくしたてる言葉は次から次へと雪崩れてきた。僕は顔をしかめながらも、鼻息荒く語る祖母に何も言わなかった。

 祖母は昔から、僕の潔癖症が大嫌いだった。最初は叱る程度だったそれが日に日にエスカレートしていったのは、指を舐めてからお札を数える祖母を見て、僕がお小遣いを「いらない」と跳ねのけたのがきっかけだったはずだ。祖母はやがて、僕の潔癖症を直すことに躍起になった。「甘ったれるな」「我慢しなさい」と無理に色々なことをやらされ、僕はそんな祖母が嫌いだった。今でも祖母のことは怖いし、苦手だ。ただ、祖母のこの行動は兄に対しても同様で、アレルギーで甲殻類が食べられない兄にも「好き嫌いをしちゃだめ」と強要することが多々あった。その結果、兄に一度ショック症状が出たことがあり、結婚以来同居していた祖母とはそれをきっかけに別居することとなったらしい。

 それでも、祖母は時々うちに来る。まるで僕らの生活を監視しているかのように。

「だいたいこの家ねえ、どこもかしこもきれいすぎて落ち着かないのよ。生活感がないっていうの? まったく、息苦しいったら」

 だったら早く帰ってくれよ、と。喉にまとわりついた言葉を、僕は無理やり飲み下す。湯気も立てずにぽつんと置かれている湯呑には、まだお茶が半分近く残っている。なくなるまで居座る気なのだろうか。

 その時、「ただいまー」という声と共にドアの開く音がした。兄だ。そう思った時にはもう、次に起こることは予測できていた。

「あ、おばあちゃん、来てたんだ」

 兄の柔らかい声音。「東真ちゃん」と甘ったるい口調で兄に近づいた祖母は、兄の華奢な身体を抱きしめ、「おっきくなったわねえ、元気だった?」と彼を見上げる。

 僕はもうその場にいたくなかった。「おばあちゃんも元気そうでよかったよ」と優しく応対する兄を尻目に、僕はリビングを後にする。できればお風呂を先に済ませてしまいたかったけれど、祖母がいるあの部屋にずっと留まるよりはましだ。

 祖母はもう、兄の登場に満足しきって、僕のことなどどうでもいい様子だった。ほっとしたのもつかの間、兄が祖母に汚されてしまうようで、僕は複雑だった。兄を身代わりにして逃げる罪悪感だってある。

 僕は自室に入ると、椅子に座ったまま膝を抱えた。僕だって好きでこうなったんじゃないのに、と、唇だけで呟いて、煮えたぎるような悔しさが胸を抉るのを感じた。

 そのまましばらくそうしていた。部屋に響く音はほぼなく、階下で祖母たちの話す声が時折耳に入ってきては、僕は耳を固くふさいでいた。けれど、聞くまいとすればするほどに、階下の物音は耳にはっきりと届くようで。僕はどうしたらいいかわからなかった。膝を抱え込んだまま目を閉じて、いっそこのまま眠ってしまおうかとも思った。

 兄が僕の部屋を訪ねてきたのはそれから少し後だ。軽いノックのあと「昌人、いい?」と呼びかける声はやっぱり柔らかく、同世代の男子よりも少し高めだ。

 僕の返事を待たず、ひとりでにドアが開く。そのまま部屋に入ってこようとする兄に、「入ってこないで」と僕は言った。

「ばあちゃんに触られたままの身体で、入ってこないで」

「……うん、ごめんね」

 申し訳なさそうにドアを閉めた兄に、僕は「待って」と声をかける。ドアを開けると、悲しげな表情をした兄がそこに立っていた。

「おばあちゃん、もう帰ったから大丈夫だよ」

 歳にそぐわない童顔と、下がり眉。いつもの彼だ。こうやってまじまじと兄を見ると、

 僕ら兄弟はちっとも似ていないなと思う。兄弟だと言ったとき、相手に兄と弟を逆に見られることも多い。

「大変だったね。また色々怒られたんでしょ?」

 いたわるような口調。僕は罪悪感から顔を伏せる。さっき僕はあんなに棘のある言い方をしたのに、兄はちっとも気にしていない様子だった。それがなおさら申し訳なかった。

「おばあちゃんは昌人のためだって言い張ってるけど、昌人からしたら辛いことだよね。大丈夫だよ、ぼくもお父さんもお母さんも、おばあちゃんみたいに昌人を『気持ち悪い』って言ったりしないから。昌人は気にしなくていいんだよ」

 祖母はそんなことまで言っていたのか。心がちくりと痛くなる。言われ慣れているとはいえ、やっぱり刺さるものがある。

 気にしなくていいんだよ、と言われても。僕がふてくされていると、「そんな顔しないでよ」と兄は泣きそうな顔で笑った。繊細で柔らかい羽毛のような彼は、ひどく脆いけれどその分とても温かい。同じ繊細さでも僕とはおそらく逆だ。

「……潔癖症の人はね、普通の人より汚い世界にいるんだって」

 兄が言った。責めるような口調ではなかった。不思議な言葉だったが、その通りだ、と僕は思った。

 自分を綺麗に保とうとすればするほど、世界が汚くなっていく。自分が完璧に近づこうとすればするほど世界は不完全になっていく。何も知らない子どもにとって世界は、親は、完璧な存在に映るように。

『他の人のことも汚いものみたいに言って、そんな風に振舞ってるから、周りの人が余計に気を遣うんじゃないの』

『なんか、こっちが汚いって言われてる気分なんだよ。……お前には悪いけど』

 ――彼らの世界を汚しているのは僕なのだろうか。

 ――世界が汚いのではなく、僕が世界を汚しているのだろうか。

 考えているとわからなくなってきて、僕の胸の中は棘のような感触で満たされていく。

 兄は相変わらず、心配そうに僕を覗いている。


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