体育の見学者というのは幽霊みたいだと、僕はたまに思うことがある。

 体育に参加している生徒と見学者の間には大きな隔たりがあるけれど、両者は確かに同じ空間に存在している。見学者は基本的に他の生徒に干渉できない。親しい友達も声をかけてくれない。まるでないもののように扱われている彼らだが、たまに目を合わせてもらったり手を振ってもらったりする。万人に認知されないわけではないというのが、幽霊、という言葉のミソだ。

 僕がそう言うと、赤羽先輩は大きな声を上げながら、「ポエミーだね昌人くんは」とげらげら笑っていた。

「君のそういうとこ好きだな。いいシナリオ書けると思うんだけど、脚本、書かない?」

「僕はカメラマンですから」

 外はまだ夏の色が残っていて、控えめになった蝉の声が部室の中にまで響いていた。死に損ねてしまった蝉なのだろうか。こんなところに取り残されて、可哀想に。そんなことを思わせるくらいに、弱々しい声だった。

「えーいいじゃん。シナリオ楽しいよー?」

 にっとあげた唇から乱杭歯が覗く。

 僕は先輩にレンズを向けた。手にかかるどっしりとした重み。ファインダー越しに映るいつもと少し違う景色。その中で、先輩が「撮んないでよーもー」とノートで顔を隠してしまう。よくある大学ノートだ。先輩が手書きでシナリオを書きこんでいるこのノートは、手に馴染んだような妙な使用感が漂っている。

 てっぺんだけ黒くなった髪や、銀色のピアスや、挑戦的な目つきや。赤羽先輩のパーツはどれもちぐはぐなのに、カメラを通すと全部がぴったり重なる。

「てか、ほんとにシナリオ書かない?」

「僕には無理ですって。カメラから浮気はしたくないし」

 ノートの陰にちらりと顔を見せた先輩に、僕はそう言って少し絞りをひねる。先輩が僅かに画面の中で大きくなる。

 僕はカメラが好きだ。カメラを覗いている瞬間だけ、汚さを意識しなくていいような気がする。そう思うと、幼稚園の頃から見続けている汚い世界に辟易していた僕は、みるみるうちにカメラにのめり込んでいった。ファインダーを覗いているその時だけは、背中にのしかかる重い何かから解き放たれた。レンズの捉える全てのものが、普段には見えないものを僕に示してくれていた。

 写真ではだめだった。僕らのいるこの場所が映像として捉えられること。画面の中で、いつもあんなに汚く感じている世界が、あんなにきれいに見えたこと。僕はそれにとても感動したのだから。

 きれいなものを妄信し続ける僕に、苦言を呈してきた映画部員もいる。映画は現実世界の鏡なのだと、汚いものもきれいなものも全部魅せてこその「映画」なのだと、映画雑誌を片手に熱く語ってきた先輩もいる。

 それを庇ってくれた部員はふたり。赤羽先輩と、それから同じ学年の亮也だけだった。

「まあ、確かに、カメラ担いでる時の昌人くんはすごく楽しそうだもんねえ」

 僕が向けたカメラにもすっかり慣れた様子で、先輩がノートを胸に抱える。胡坐をかいた足には申し訳程度にスカートがかかっているばかりで、すらりとした太ももがすっかり露わになっている。

 部室の窓から差し込む陽は逆光だったが、オレンジがかったその光が赤羽先輩をまばらに照らしていた。先輩が首をもたげて笑う。さらりと下りた髪が艶やかに光を返して、僕は小恥ずかしくなってカメラを下ろした。先輩は相変わらず、大口をあけて豪快に笑っている。

「僕にはシナリオは書けませんよ」

「何で?」

 その時、「おーっす」という声と共に部室の引き戸が開く。亮也だ。

「あれ、今日まだふたりだけなんだ。珍しいっすね」

 亮也が僕らの間を通り、ソファにぼふ、と腰掛ける。手には発売されたばかりの映画雑誌を持っていて、亮也は邦画の欄を探してぱらぱらとめくり始める。

「で、何の話?」

 亮也は雑誌を片手に僕を一瞥した。それから、僕の手に抱えられたビデオカメラに気が付くと、「本当お前それ好きな」とでも言いたげに口を綻ばせた。

「昌人くんがシナリオ書けないっていうから、なんでかなーって話」

 椅子をくるくると遊ばせながら、赤羽先輩が口を開く。「私からしてみれば、カメラの方がよっぽど難しそうだけどなー」と、僅かに残念そうな顔をして、でもとても楽しそうに、先輩は言う。

「向き不向きがあるんすよ。俺なんて、何の才能もないのに映画が好きってだけでここにいるわけだし」

 亮也が平然と返す。

「亮也は監督志望でしょ?」

「そ。格好いいじゃん? 親玉だし」

 亮也が得意げに眉をあげる。その時、「はいはい、文化祭近いから素材撮るよー」と、外から帰って来たらしい部長が急に割り込んできた。

「あと一ヶ月で完成しなきゃなんだから。まだ半分近く残ってるんだからね」

 その声に急かされて、はい、と僕はカメラを抱える。それから、壁に立てかけてあった三脚を急いで手に取った。


 文化祭は、僕らの作った映画が生徒に見てもらえる、ほとんど唯一の機会だ。

 脚本は、赤羽先輩のではなく別のものだった。その代わり、先輩は役者のひとりとして僕のカメラに収まり、亮也は三年生に混じって編集作業をしていた。赤羽先輩は不服そうだったが、正直僕は役者の方が似合うと思う。先輩ははっきりとした派手な顔立ちをしているし、中学校で演劇部をやっていたとかで、かなり演技がうまい。

 今日撮る場所はグラウンドだった。夕暮れ時の今しか撮れないシーンをやるらしく、準備に手間取っている僕を三年生がどやしつけた。薄明るい空の下で、ピンクがかったやわらかな雲の動きがやたらと速かった。現場には数人の演劇部の生徒がいて、赤羽先輩もその中に混じって話をしていた。映画部の部員だけでは役者が足りないから、演劇部にはいつもお世話になっている。

 準備が終わって、それぞれが指定位置についた。亮也は僕の横で、丸めた雑誌を握って撮影風景に見入っていた。

 気温は高いけれど、風が秋めいている。「じゃ、始めまーす」という部長の声も、その風に押されて流されていく。

「いくよ、五、四、三、」

 に、いち、を口には出さず手で合図して、かん、とスタートの合図が切られる。グラウンドの端、活動する運動部を背景に、演劇部の先輩は熱のこもった演技を始めた。

 僕以外にカメラは二台あるが、僕は集中してカメラを切っていた。役者の言う台詞の向こう側では、ランニングをしている陸上部の「ふぁいっ、おー」という掛け声も薄く入っていた。もしかしたら、あの中に日向もいるかもしれない。

 かん、ともう一度木が打ち合わさる。カチンコを持った部長が、「今のとこなんだけど」と容赦なく演劇部員に詰め寄っていく。僕は慌ててカメラの録画を切った。

 腹減ったなー、と横で亮也がこぼした。いつもよりも早い空腹感に、「うん、僕も」と重ねる。昼に日向にあげたパンのつけが、今になってまわってきているのかもしれなかった。そんな僕らを嘲るかのように、弱々しい蝉の音が不意に勢いを増した。

 日差しは完全に秋色をしているのに、聞こえる音はほとんど夏みたいだった。


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