REC.

澄田ゆきこ

 プールの水面がきらきら光っている。

 九月とは思えないほど強い日差しに照らされて、中ではしゃぐ生徒があげる飛沫も、眩しいくらいに光を反射する。

 こっちに少し飛沫が飛んできて、僕は咄嗟に足を引っこめた。プールサイドのベンチの上で膝を抱えて、思わず顔をしかめた僕を、僕以外の見学者たちが疎ましそうに見ていた。僕以外の見学者は皆女子だ。体操服姿で楽しそうに喋っている彼女たちは、いつもと同じ顔ぶれもいればそうじゃない子もいる。僕はその中の、いつもと同じ、の中のひとり。

 水際をぼんやり眺める。本当なら素足でこんなところに来るのは嫌なのに、融通の効かない体育教師は、僕がサンダルを履くことを許してくれなかった。

「見学者、ちょっとタイム測定手伝って」

 先生が僕たちに呼びかける。はーい、と女子たちの答える声。僕は軽く爪先立ちになりながら、見学の女子数人と共に濡れたプールサイドを歩く。裸足でこんなところなんか歩きたくない。一度そう思うと、ぞわっとしたものが背筋に這いあがった。ぐっとこらえて、プールのすぐ近くに立つ先生の元に近寄る。男子生徒のバタ足で顔に冷たいものが飛んだ。塩素の匂いが鼻をつく。

 体操服の長そでで水を拭う。

 泣きそうな顔をした僕を、先生は惨めなものでも見るような眼差しで見ていた。痛いくらいの日差しが僕の目を焼いて、瞼を閉じるとちらちらと光が弾けた。

 先生はひとりひとりにレーンを割り当てて、僕たちにストップウォッチを配り始めた。服の袖を伸ばして、布越しに紐を掴んでどうにか受け取ると、彼はひとつ溜息をついてから説明を始めた。

 測定方法の説明を終えると、先生はプールに向かって笛を吹いた。

「じゃあこれから測定始めるから、出席番号順に一列に並べ」

 そんな声が、マイクを使っているわけでもないのによく通る。

 汗が首筋を伝う。水の中にいる生徒の涼しげな笑い声が、プールのあちこちできらびやかに舞っている。

 僕らはそれぞれレーンの上に立った。僕が担当するのは一コースと二コースで、どちらも男子が泳ぐ予定だ。列の後ろの方では、友達の日向が僕に手を振っていた。僕が手を軽く振り返すと同時に、ピーッ、と笛が鳴る。一番前に並んでいた生徒たちが、一斉に水しぶきをあげてスタートする。

「男なら小さいことは気にせず頑張れ」

 カウントを始めたストップウォッチを眺めていると、体育教師が僕の背を叩いた。反射的に鳥肌が立って、僕は返事すらできなかった。大きな手のひらが触った背中が、その形に汚れているように思えた。そんな僕を気にも留めず、先生は僕に背中を見せて、大股で元の場所へと戻っていった。

 病的なほどの神経質。物ごころついたときから、僕の世界はそれに侵食されている。

 先生が去ってからしばらく。ばしゃん、と派手な音を立てて、男子生徒がプールの壁に手をついた。幸い飛沫はかからなかった。期待の眼差しでこちらを見る彼に、「二十八秒四」と告げると、彼は白い歯を見せてにっと笑った。

 僕もプールの中でこんな風に屈託なく笑えたらいいのに。

 僕にはそれができない。小さい頃からそうだ。「何人もの人が浸かった水」という認識がプールをひどく汚いものに思わせて、足をつけることすら生理的に受け付けなかった。両親や先生に諭されて無理にプールに入っても、じんましんが出てきたり、翌日にひどい熱を出したりした。

 小学生の頃の修学旅行では、集団で使ったお風呂に入るのがあまりにも嫌で、皆の前で吐いてしまったこともある。その時、僕自身が汚物のように扱われたことは、今でもよく覚えている。ただでさえ神経質だと言われ続けていたのに、そのことがますます潔癖症に拍車をかけた。今では自分で洗ったお風呂じゃないと湯船にも浸かれない。

 濡れたプールサイド、脱衣所、共用のトイレ、何人もの人が蠢く教室。僕にとって地獄でしかない学校で、僕は半日も過ごさなくちゃならない。それは仕方のないことだけれど。

 溺れるように泳いでいた男子生徒が、壁に手をつく。飛沫がかからないように身を引いて、僕は彼にタイムを告げる。

 ――僕にとってこの世界はどうしようもなく汚い。

 プールの授業が終わると、僕は手洗い場へと直行した。石鹸で何度も手を洗って、着替えを終えた生徒たちがプール棟から出てくる頃になって、ようやく更衣室へと向かった。

 自分の制服を手にとって、匂いを嗅いでみる。ツンと澄ましたような透明な匂いがする。僕は自分の手に消毒液を塗りこんでから、体操服を脱いで、制服に袖を通した。外のものに触った手で制服に触れることが嫌だった。

 僕がこんな風になってしまったのはいつからだっただろう。

 昔は今ほどひどくなかったにしろ、遡るとキリがない。物ごころついた時から、僕は、日に何回も手を洗わなくちゃ気が済まない子どもだった。

 お前さ、人間に向いてないよな。いつだったか、僕は友人にそう言われたことがある。

「自然界ってさ、菌とか色んなのがウヨウヨしてんのが普通なわけじゃん? 現に人の体には何億も常在菌がいるっていうだろ。そういうのが存在しない世界なんてないんだから、俺には、お前がそこまで気にする意味がわからない」

 いつだっただろうか。確か、昼休みだ。ご飯を食べ始める前に除菌シートで机の上を拭いていた僕を見て、彼がそう言ったのだ。

「そういうことされるとさ。なんか、こっちが汚いって言われてる気分なんだよ。……お前には悪いけど」

 風呂敷を広げていた日向が、僕をちらっと見て、目を伏せる。こういうことを言われるのには慣れていた。もっと辛辣なことを言われたこともたくさんあった。

 自分だけがきれいだとでも思ってんの? 昌人といると息苦しいんだよね。人を汚物扱いして何さまのつもりだよ。潔癖症の人って自分勝手だよね。そんなことを言う人は大勢いた。だから僕は、他人に対しては何も強要しないことにしている。僕がどんなに汚いと思っても、僕と同じことをやれと言ったことはないし、よほど踏みこんで来られなければ多少のことは我慢している。僕は自分のテリトリーを守りたいだけだ。

 本当なら、人と向かい合って食事をすることも避けたかった。食事の中に唾が入るのを考えると、どうしても食欲が失せた。けど、僕に接してくれる友達の存在は有り難かったから、小中の給食と同じように、僕は昼食を無理に胃に押しこんだ。

 今日も僕は日向と一緒に昼食をとった。僕は最低限身の回りをきれいにするだけで、日向はもう慣れた様子で、弁当の風呂敷を広げている。

 僕が個包装のパンとおにぎりを取り出していると、「げっ」と日向が小さく声を上げた。見ると、二段弁当の中身がどっちもおかずだったとかで、彼は困惑している。

 彼の弁当は、ひとつ上のお兄さんとお揃いらしい。ということは、今頃彼の兄は、二つ重ねられていた白いご飯に驚いていることだろう。

「お兄さんのクラス、行ってきたら」

 僕が言うと、日向は「やだよ」と顔をしかめた。二年生なんだったらすぐ上じゃん、行ってくれば。僕がそんな風に催促しても、日向は頑として首を横に振っていた。

 日向は自分の兄が嫌いだ。陸上部に所属している理由が「兄が水泳をやっていたから」だと聞いた時には、思わず笑いそうになってしまった。

「俺が兄さんのところに出向くのは、お前が道頓堀に飛び込むくらいありえない」

 日向は忌々しげに言い、二つ並んだおかずの中から卵焼きをつまみあげる。

「なんで道頓堀?」

「なんとなく。……べつに多摩川とかでもいいけど」

 卵焼きを口に放りこんだ彼の傍ら、僕は鮭おにぎりの包装を解いていく。

 確かに、僕が川に飛び込むのと彼が自分から兄に会いに行くのは、同じくらい確率が低いかもしれない。排水と泥とプランクトンにまみれた、汚濁した水。そんなところに入るくらいなら、プールに入る方が何倍もいい。どっちも嫌だけど。

 僕は半笑いになりながらおにぎりを齧った。ぱりっ、と口の中で海苔が砕ける。

 僕にもひとつ上の兄がいる。女の子みたいな顔をしていて、僕よりも小柄で、気弱な兄。日向曰く、僕と兄はよく似ているらしい。

「炭水化物なくて大丈夫? 今日も部活あるでしょ」

 僕が尋ねると、日向はお茶のペットボトルを開けながら、少し首を捻った。「あんま大丈夫じゃないかも」と言って、「なんか頂戴、半分でいいから」と僕のビニール袋を覗く。

「じゃ、これ」

 マヨネーズとコーンのパンを渡すと、日向は「さんきゅ」と小さく笑う。半分にちぎってパンの残りを返そうとした彼を、「あ、いいよ、全部あげる」と慌てて押し返す僕は、やっぱり潔癖症から抜けだせないらしい。たとえ日向のでも、人の食べかけは食べたくない。

 教室の中は賑やかだった。文化祭が近いこともあって、女子が内装の準備のために段ボールを持ってきているのが見えた。女子張り切ってんなー、と日向が呟く。口の中のものを飲みこんで、そうだね、と僕も追従する。

「女子ってほんとイベントごと好きだよなー」

 かじりかけのパンを片手に、日向はそう言って頬杖をつく。何でもないことのように言っているけど、さっきからずっと女子を目で追っている。

 女の子たちは皆一様に、きゃーとかわーとか言いながら楽しそうに笑い合っていた。束ねられた髪が頷くたびにさらさら揺れたり、少し短いスカート丈が動きに合わせてひらひら舞ったり。僕ら男子と同じ種とは思えないほど、女子のいる世界はどこか眩しい。

 そして、どこかよそよそしい気がした。

 彼女たちの細やかな世界は、きっと、薄い膜のようなもので守られていて、僕ら男子には見えないものがある。根拠はないけれど、そんな感じがしたのだ。

 皆の泳いでいるプールを見ていた時も、僕は似たような感想を覚えていた。

 きらめき立つ細波と、反射する光の眩しさと、弾むようなはしゃぐ声と。それらすべてが、どこか遠くの、自分の関与できない世界のものに思えた。

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