其の百八:様子を見て候
自らの気持ち一つで虚空記録帖を変えられる事に気付き…そして実際に変えてしまった今。ワタシは何とも言えない爽快感の中にあった。
「何処かでは思ってたんだ。いや、それを禁忌と信じてた…」
最初から思っていた疑念。考えてみれば、当たり前に出来るだろう事。ワタシが虚空記録帖を手にして、どれだけの時間が経ったかは知らないが…最初の頃から胸の中でざわついていた疑念は、見事なまでに思った通りで…
「そうだよな…そうなんだよ。そうだと思ってたんだが…」
ワタシは、八丁堀近くの、何てことの無い往来の隅で呆けた顔を晒したまま、無意味な時間を過ごす。呆然としたまま、一線を越えてしまった罪悪感と未知なる力を手にした快感がせめぎ合う胸の内を鎮めていった。このままの勢いで動けば、何てことない…ワタシは虚空記録帖の手によって抜け殻にされちまう事だろう。
(ワタシを抜け殻に出来るもんならな…やってみな。影響はデカいぜ…?)
だが、ワタシ程の功労者が抜け殻になるには大それた大罪を犯さねばならない。虚空記録帖を手にする上で、禁忌等幾らでもある。それに気をつけ、自らを律して生きてきたワタシだ。そんな功労者が抜け殻になったとすれば…管理人達に如何ほどの影響があるか…記録帖は知っているのだ。
「……」
ワタシは江戸の片隅で呆然としたまま時を過ごす。虚空記録を犯さないという禁忌。だが、その禁忌は意図せぬ故意を装えば簡単に変えられてしまうと知ってしまった。いや、分かっていたことをやってしまった…あぁ畜生。何度堂々巡りをするのだ?ワタシのこの呆けた脳みそは…
虚空記録帖の管理人は、道端の砂粒以下の存在でなければならない
至極当然ともいえる掟。脆く、その気があれば簡単に破れてしまう掟。それを破ったとしてもすぐにどうこうなる訳では無い現状。この矛盾の中心地にいるワタシは、もう暫く呆けた顔を晒して道端に佇むと、懐に仕舞いこんだ虚空記録帖を取り出して、真っ新な箇所に鉛筆の先を走らせた。
尋ねたのは、昨日、結果的に助ける事になってしまったあの母娘の行き先。虚空記録帖はワタシの心のうちを知る由もなく、ワタシの問いを飲み込むと、すぐに答えを返してきた。どうやら母娘は火災から逃れて浅草方面に流れ着き、寺で世話になっているらしい。
(寺…か。まぁ、女2匹で生きてける程…楽な世じゃねぇものな)
寺は一時的な住まいだろう。それ以上虚空記録を追っていないから分からないが…やがて娘は何処かに売られて母と離れ離れになり、母は母でどこぞの屋敷に使われて…となるはずだ。運が良ければ、どこぞの馬の骨の婿入りがあるかもしれないが…あの母娘の家は、悲しい事に良家とは言い難いから、それは望み薄というものだろう。
「浅草…ねぇ。ちと、散歩するにゃ通い気がするぜ」
虚空記録を懐に仕舞ったワタシは、そう呟いて浅草への道を歩きはじめる。あの母娘とは大した言葉も交わしていないのだが…何故か気になって仕方が無いのだ。仕事が暇な今…その様を眺めに行くには、今くらいしか時が無い。
・
・
暫し歩いてやってきた浅草方面。八丁堀とはまた違う雰囲気を醸し出す街の光景を眺めながら、ワタシは母娘が一時的に住んでいる寺を尋ねる事にした。
(別に、参拝程度でどうこう言われる筋合いもねぇだろ)
母娘が住まう寺は思っていたよりも大きな寺で、夕方近くの今時になっても、そこそこの人数が参拝に押しかけていた。
(近頃は情勢不安だものなぁ…大衆の心は敏感なモンだ)
漏れ聞こえる雑談から、近々に江戸が消える事をまざまざと思い知らされるワタシ。公家でも無ければ…幕府の役人でも無ければただの与太話だと思って話しているのだろうが…まぁ、大衆というものはデカい言葉に惹かれるものだ。
「おい見たかよ?髪が金色になったあの女!」
「あぁ…南蛮から来た女だという話だぜ…?」
「男も同じ髪色してんのかな」
「どうだか…しっかし別嬪だし背も高かったなぁ…俺達見てぇなのは横に並べねぇや」
「おいおい女なのにデケェのかい。女ってなぁ小さくてナンボのもんだろうに」
「男はもっとデカいんじゃねぇの?」
「まさか!んな巨人、相撲取り以外に居てたまるかっての!」
ワタシの傍を通り過ぎて行った男達の会話…それにワタシは苦笑いを浮かべつつ、寺の中枢へと近づいて行った。
「遅い!何処へ行ってたのですか!?」
「も、申し訳ありません!!…道が分からず…」
「言い訳は結構!早く上がりなさい。支度しますよ!時間が無いのです!」
「はい…」
建物に近づいた時。ワタシの傍を女が駆け抜けていき…中に居た老婆に罵倒されながら建物の中へと消えていく。たったそれだけなのだが…横を通り抜け、罵倒された女があの母娘の片割れ…母の方だと直ぐに分かった。
(まぁ、そうなるよな)
様子を見に来ただけで、何かをするつもりも無かったのだが…ワタシはその姿を見て何処か心が荒んでくる。これから先の事は知らないが…あの母娘、過去は中々に凄惨で、これまでの人生は苦難の連続だったのだ。
(あの様子じゃ、長くねぇな)
昨日から居る客人。この寺も、火事から逃れて来たという以上、直ぐには追い出さないだろうが…それでも、あの母娘の価値の無さから考えれば、あの母娘がこの寺に住めるのは良くて数か月という所だろう。
「どれどれ…?」
ワタシは母側の姿を見れたことで目的を達したのだが…直ぐに踵を返すことはせずに寺の片隅へ移動して、懐に忍ばせた虚空記録帖を開いてみた。鉛筆を走らせて表示させるのは、あの母娘の行く末だ。
「……」
ワタシの問いかけに、記録帖は直ぐに反応して母娘の記録を出してくれる。ボゥっと出てきた文字に目を通せば、あの母娘の行く末は良いものでは無かった。八歳になる娘は半年後には売られ、丁稚として江戸の商家を渡り歩き…最後は女郎屋に売られて男の玩具となり、十九歳でこの世を去る事になる。
「そうなるか…」
それを見ただけでもワタシの目がドス黒く曇ったものだが、もっと熾烈なのは母の方で、今年二十六歳になる母は寺から追い出された後すぐに娘を売ってはした金を受け取ると、その金を手に江戸を出る事になるのだった。
「こっちもこっちだ。そういう下の連中なんだろうな。面は良いからなぁ…」
当ても無い中で向かった先は、役人に薦められた蝦夷の方だったが…その道中で何度も男達に玩具にされて望まぬ子を孕み、蝦夷へ行くまでに3人の子を死産する。その様な目に遭いながら、ようやく辿り着いた蝦夷でも彼女の役目は変わらず同様の扱いを受けて最期は餓死してしまうそうだ。その時の年齢は三十歳。二十まで生きられぬ娘より早く死ぬ事になるという訳か…
「どうしてこう…気になっちまうかなぁ…」
母娘の小修正された記録に一通り目を通したワタシは、虚空記録帖を閉じて懐に仕舞うと、ボーっと母が消えて行った寺の方へと目を向ける。
「一度踏み外しちまったからかなぁ…そうだろうなぁ…」
別に、この母娘1組を助けたところで何かがあるわけでもない。こんな母娘等比べ物にならない程に熾烈な人生を辿った者などゴマンと居る。そうと分かっていても、ワタシの心の中には、何故かあの母娘の顔が張り付いて離れなかったのだ。ワタシはその内面に呆れかえって深い溜息を付くと、懐の中にあったさっきの余りの一両を取り出して、ヒョイと寺の方へ投げつけた。
「踏み外したのなら…好きにするさぁ…あの母娘は練習台さ…」
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