其の百七:準備整えて候

 良からぬ考えをする為に用意したのは、適当な銭だった。それを手にしたワタシは、八丁堀付近の大きな通りまで出向いて道の隅に居座り、懐に仕舞っていた虚空記録帖を取り出す。


「こういうものも、そのうち当たり前になるんだろうよ」


 墨と筆が無ければ書けぬ筈なのだが、今のワタシはそれらを持っていない。だが、そのになるものは持っている。鉛筆なる物を取り出したワタシは、筆の様に筆先を虚空記録帖に滑らせて、今知りたい内容を虚空記録帖に書き込んで行った。


「お上の連中が使ってたモンのお流れらしいが…良いもんだな」


 初めて使った鉛筆の感触。昔から在るらしいが、一般的では無いものだった。硬い筆先による不思議な書き心地に感嘆の独り言を漏らしながら、虚空記録帖に飲み込まれていったワタシの文字を見送っていく。記録帖はワタシの書き込んだ文字に直ぐに反応して、答えを黒文字で返してきた。


(そうだよな。その程度だ…書いてネェ)


 虚空記録帖に問い合わせたのは、ワタシが今いる通りを者の虚空記録だ。この通りを通った時の記録を一覧で出せ…と。そう問いかけてみれば、虚空記録帖の答えは大分簡潔なもので、皆の虚空記録は「○○頃、通りを通過」としか出てこなかった。


「思った通りだぜ」


 思った通りの答えにニヤリと口元を歪めるワタシ。そう、虚空記録は記録を作っている様に思われがちなのだが、そうではないのだ。が用意されていて…今の様なだけならば、その通過方法に何の指定もされない。走って通り抜けようが、躓こうが…それはのだ。


 このを使って記録帖を弄る。思いついた方法は、余りにも呆気なくと言われそうな方法だった。いや…正確に白状しよう。これは考えだ。これまで何度も、数多の管理人が記録帖の穴なのだ。そこに手を入れるのは言語道断…と勝手に決めつけてきたのだが、今の私は、そのを犯す事に何の抵抗も感じていない…


「…っと」


 通りに誰も居なくなった時。ワタシは懐から取り出した一両の金貨を道の真ん中に放り投げる。どんな時でも、一両というのは大した金額だろう…ワタシは道の真ん中に放り投げた一両をジッと眺めて、誰かが通りがかるのを待ち構えた。


「なんだぁ?…」


 少し経つと、1人の男が通り掛ってくる。その男は、道の真ん中にある金貨に気付いて近づいてきた。


「一両…馬鹿言っちゃイケねぇよ、ワザとらしいぜ。何かの罠にちげぇねぇや」


 男は一両を見下ろして少しだけ様子を見せたが、やがてそう捨て台詞を吐いて去っていった。男が過ぎ去った後で虚空記録帖を見てみれば、内容に変化は見られない。違反もしておらず動いたと、虚空記録帖がのだ。


「一両じゃ、確かにワザとらしいか」


 男が去った後。ワタシは道に放った一両を回収すると、数分の一分銀を道のあちこちに適当に散りばめていった。


「よーし、これなら拾う奴も出るだろ」


 再び道脇に下がって様子見…ワタシは一体何をしているのだろうか?と思ってしまったが、そんなを振り払ってジッと人の通りを待つ。ワタシの考えが正しければ…あわよくば、の行く末を変えられるかもしれないのだ。


(あんな貧乏人助けても何にもならねぇがなぁ…でも、貧乏人だからってもんだろ?)


 脳裏に蠢く矛盾した思考共を強引にねじ伏せて待ち続けると、道の向こう側から複数人の集団が現れた。どうやら次に通りがかるのは劇団に属する連中の様だ。


「お?これは…?……」「一分銀ですぜ!!!」

「あちこちにありますよ!!」「ほぉ…全部拾ってみろよ!!」

「スゲェ!!どこのアホか分からねぇが大量に落していきやがった!!」

「大量だ!!今夜は良い飯に有りつけそうだ!!江戸は初日からツイてやがるぜ!!」


 20人ほどの集団は、道に散らばった一分銀を見やるなり、ガッツくように一分銀を拾い始めた。空腹の犬に飯をやった時の様に、あっという間に一分銀は回収しつくされて…連中はどんちゃん騒ぎをしながら通りを過ぎていく。ワタシは苦笑いを浮かべながら連中の背中を見送ると、手にしていた虚空記録帖を開いて中身を確認した。


「……」


 結果は。あれだけ様に見えるのに、連中の虚空記録はピクリとも変わっていない。文字が赤くなっていないという事は、違反をしていないという事なのだ。唯一ワタシに落ち度があったとすれば…を予め確認しなかったこと位か。まぁ、まずはなのだから、連中の事はもう忘れるとしよう。


「次に通りかかるのは…コイツか」


 頭の中を切り替えて、次に通りかかる事になっている男の記録に目を向ける。その男はで、この通りを過ぎたあと、近所の商家に白昼堂々押し入りを仕掛ける様な記録になっていた。


「コイツぁ、丁度良いや」


 その記録を見るなり私はニィっと笑みを浮かべて、先程も投げた一両の金貨を道の真ん中に放り込む。そしてササっと道脇に身を潜めて少し待つと、一人の男が姿を表した。


「……」


 身なりの汚い、雰囲気の男。奴はトボトボと道を歩いてきて…道の真ん中にこれ見よがしに置かれた金貨を目にとめると、何気ない動きでそれを拾い上げて私の前を通り過ぎていく。


(つまらねぇ奴)


 大した反応も無く、取るものだけ取っていった男を見て脳裏で毒づいたワタシは、虚空記録帖を見てを確認し始めた。


「っと…も少し先か」


 薄い紙を捲って男の記録が書かれた箇所を開き、男の行く末がどうなったかを確かめる。


「!?」


 結果はどうだろうかと、男の記録をみた刹那。ワタシは目を剥いてポカンと口を開け…男が消えた方に目を向けて呆然と立ち尽くすことになった。思った通り…いや、それ以上の結果に、ワタシの体が僅かに震えている。


 ワタシは、ワタシの中の秩序が崩壊していく様な感覚に打ちひしがれながら、道の真ん中に仁王立ちしたまま、ポツリと、力なくこう呟いた。


「どうして、こんなを放置してやがったんだ…?」

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