其の百六:行きて眺め候

 風呂屋の二階で朝飯を食い終わると、ワタシは1度家に戻って記録帖を懐に忍ばせて、江戸の街へと出向いた。


「どう変わってるか…見物だな」


 普段であれば絶対にしない事だ。だが、最近のを鑑みれば、こういう時の記録帖の動きを知る為にも見ておいて損はない。そう自分に言い聞かせて、昨日、大火事に見舞われた現場の辺りまで歩いていく。


「こんなに近かったか」


 出向いてみれば、火事の現場は、八丁堀から程近い川の畔だった。ワタシは未だ焦げ臭さが残る現場周辺を歩いて回り、数多の男達が後始末に追われている様を横目に見ながら、野次馬根性満点の目でその光景を脳裏に焼き付ける。


 多数の男達が何だかんだと言って動いているのは、火事の火元になった屋敷だ。記録違反を犯して心を惑わせ、結果として火を起こしてしまった小さな商家…昨日現場に出向いた時は、立派な建物の面影が僅かに残っていたのだが、すっかり燃えカスになっちまっていて、既にその大部分は片付けられてしまっている。ワタシはその様をジーっと見つめて「ほー」等と気の抜けた言葉を発し、それから、この商家の火事に巻き込まれた人々の家の方へと足を向けた。


(この家の主人が違反して…奴ァ火事でおっ死んだんだが、よそ様に迷惑かけ過ぎだぜ)


 記録違反のとなった男は、家と共に炭になった。可哀想だと思うのは、素の家事によってなし崩し的に者達だ。昨日、ワタシ自らが手にかけた、連中。ソイツ等が方へ出向く。


(まァ、あのまま違反者共を放っておいても煙に巻かれてたか)


 火災によって出てしまった違反者達。彼らは皆、火元の商家から程近い所で。火を見てあたふたするだけの者。逃げようとして腰を抜かした者。逃げたは良いが。そして、逃げもせず何かを取り立てに来ていたならず者と、被害にあっていた母娘…


(母娘以外に少し取り逃がしてる筈だが…まァ、文句が出ねェ範囲でやれたってことだろ)


 火元の近くでも、多くの人間がのだ。ワタシが虚空記録帖から求められていた事は、者達の掃除だ。つまりは、死ぬ必要が無い人間を殺せという事だ。そして、ワタシはそれをでやってのけた。


 ワタシの目に付いた男は、大抵その場で殺してしまった。男の癖してはその場で殺して細工した。違反者として連中の9割は、そんな感じでワタシの手によりを迎えた。


(…少し取り逃がしたっつっても、この近辺には近づけねぇ様に記録修正が入ってるな)


 ワタシの仕事によって、違反者の殆どはを迎えたワケだが…そうじゃない、逃げた者も少しは居る。助ける事になっちまった母娘を始めとして、少しは者もいるが…こうして現場に来てみると、様に記録を修正されたようだ。ジッと道行く者の顔や働いている者の顔を眺めてみても、昨日見た町人の面は見えてこない。


(ってことは、少し経てばこの辺はされる訳だなぁ…?)


 煮え切らない仕事。のではなく事になってしまった昨日。この現象は、虚空記録帖が時に起きる現象だ。


 これまで何度もあったんだ。普段であれば筈の…筈の記録違反をのは。そういう時は大抵、違反者達が住んでいた場所が予兆の様なもの。記録帖がどういう腹積もりかは分からない。


(更地になって何に変わるかは、幕府の仕事じゃねぇな…間違いネェ)


 何かの違反を切欠にが破れてしまい、その土地のを維持できないと判断するのか…そんなは知らねぇが、記録帖がこうするってことは、この土地は事になるのだ。


「変わらねぇ変わらねぇと言ってたら、変わる時は一瞬だぁ…」


 狭い通路脇…誰かの家の塀に背中を預けて、気の抜けた独り言をポツリ。今回の出来事は、とでも言おうか、出来事に、ワタシの心は大きく揺さぶられていた。


「振り切ったと思ったんだが、こうして見に来ちまうってなァ…拭えてない証拠だぜ」


 昨日の今日で、良いだけして、振り切ったと思った思いがぶり返してくる。あの母娘だけではない、ワタシが殺してきた違反者たちの断末魔すら脳裏に蘇ってきて…ワタシの心を少しずつ蝕んでくるのだ。


「所詮、コッチの人間はってのによぉ…どうしてこう…」


 晴天の下、一人でボソボソ呟くワタシ。興味本位で見に来ただけなのに、どうしてこうも心が疲れてしまうのか。


 何もかもが虚空記録帖の通りに行く訳ではない。それは良く分かっているのだ。虚空記録帖が定めた事だったとしても、人々は時としてそれを打ち破ってくる。ワタシが過去にそうしてしまった様に、栄が、螢が、鶴松が…公彦がそうしてしまった様に、何かの切欠で記録は意図も容易く破られてしまう。


(あー、畜生。堂々巡りしてらぁ…)


 虚空記録が破られ、それに後始末を付け、新たな虚空記録が用意されて、人々が…長々とそうしてきたではないか。そうして、記録を塗り替えねば…大きな記録違反が出てこない限り、時代は大きく変わらない。


(そう考えりゃ、管理人が居たから…徳川はやたらと長い天下を迎えたともいえるなぁ…)


 当たり前の事。知ってる事を堂々巡りの様に脳裏に巡らせて…今の、徳川の時代が原因がワタシ達管理人にあるのだろうと思ってしまったその瞬間。


「……やっぱワタシは壊れてんだなぁ」


 ワタシの脳裏に何かが走り、ワタシの脳裏をが支配した。


「でも、これに逆らいはしねぇ。受け入れるぜ…受け入れるとしようじゃねぇか…」

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