其の百四:一人動いて候
風呂場で会った栄に、自分のしでかした事と真逆の事を言い切ってしまった後。ワタシは飯処等に寄らず、中心街を後にして自宅の方へと歩いていた。
(いよいよヤキが回るなぁ…こりゃ)
どことなく清々しく、それでいて心地よい後悔を感じるという不思議な感覚。その感覚に身を寄せながら、軽い足取りで家に着いたワタシは、部屋に残っていたローソクに火を灯して明かりを点けて、部屋の隅に置いてあった虚空記録帖を机の上に引っ張ってきて中身を開く。
「やっぱ尋ねられるわな」
中身を覗き見れば、やはり記録帖の方からさっきの仕事に対する問いかけが出されていた。曰く、何故あの母娘を生かしたのか?という事だが…ワタシはその感情を感じない問を前にして苦笑いを浮かべると、机の横に置いてあった硯と筆を取り出して墨を磨り、記録帖に答えを記していく。
"逃げられた"
記した答えは、偽りの答え。何も、虚空記録帖はワタシの一挙手一投足を見ているわけでは無いのだ。管理人に対しては結果のみしか見てこない。そういう風に出来ている。だからワタシは、こうして嘘を記したのだ。単純な裏切りにも気付けない記録帖…この答えと、ワタシの日頃の行いを鑑みて出すであろう答えは、もう分かり切っていた。
"承知。記録の修正を行い、以後違反者として取り上げない事とした"
返って来た答えを見て、ワタシはフーっと溜息を吐く。多少はなぁなぁで済ませられる事を知ってしまったというか…知っていたのだが、遂にそれに頼ってしまった。ワタシは処女を失った女の如く心臓をバクバクと動かして記録帖を眺め…そして、記録帖の文字が掠れて消えて行った頃に、記録帖をパタリと閉じる。
「だから虚空人が出てくる訳だぜ」
ポツリと吐いた言葉。何かが外れてしまった今、ワタシの心の中にはポカリと大穴が開いてしまった様だ。この手の自制が効かぬ様であれば、管理人として先は長くない。管理人になってから見てきた数多の裏切り者達は皆、このあやふやさに負けて消えて行ったのだ。
(次はワタシの番…というわけだ)
絶対にやるものか…いや、ワタシはそう言う事からは無関係だ…そう思っていた時期が長かったのだが、遂にやってしまった。その事実に打ちひしがれたワタシは、記録帖を閉じた後もボーっと記録帖を眺めて考えを巡らせる。
多分、記録帖はまだまだワタシを信用してくれるだろう。今までの貢献から考えれば、ワタシはまだまだ記録帖にとっては重用される人物だろう。だが、今のワタシの心は最早、記録帖から離れた所に来てしまった。その矛盾というか…不思議な感覚が、ワタシを心ここにあらずと言った状態にさせている。
「昨日の今日で変わる事はネェだろうが…記録帖がダメだと言ったんなら、ダメなんだろうよ。分かり切った事じゃねぇか」
自分に言い聞かせる様に言った言葉は、誰にも聞かれず闇に溶けていった。客観的な事実として、今日起きた出来事は、ワタシがただ不運によって生まれた違反者を処置し忘れただけなのだ。そして、その事実を記録帖はおとがめなしと言ってきた。ただ、それだけ…それだけなのだが、ワタシは今までにこんな失敗をしたことが無いと言えば、急に心が重くなってしまう。
「あー、畜生め…」
暫く記録帖を眺めて悶々としていたワタシだったが、ようやく気が抜けて背中から畳の上に寝ころんだ。そしてぎろりと目を動かしてみれば、さっきつけたばかりだと思っていたローソクは既に消えかけの長さ…どうやら、結構長い間考え詰めていたらしい。
(割り切れねぇ性格だからイケねぇんだ。もっと楽天家じゃねぇとなぁ…)
・
・
「……」
そして、そのまま気付いたら寝てしまっていた様だ。呆然とした顔を晒してジッと目を凝らしてみれば、目の前には天井しか見えてこない。そして、畳の上で寝てしまったせいか、妙に全身が凝って凝って仕方が無かった。
「クソ…慣れねぇ事すっからだぜ」
ムクリと起き上がって、昨日と変わりない場所に置かれている記録帖を一瞥して…ゆっくりと立ち上がる。そして、んーっと腕を伸ばして適当に手足を動かしてみれば、体の凝りは次第に消えて行き、普段通りの体の軽さが戻ってきた。
「風呂、入りに行くかぁ…」
部屋のど真ん中に突っ立ったままボーっとすること少し。ワタシは昨日から着たままだった着物を適当なものに替えると、のそのそと気だるげな動きで外に出て、比良の国の中心地へと向かい始める。
(昨日の今日で何も変わらねぇか…)
歩いて、少しだけ眠気が晴れて…気になるのはやはり昨日の母娘の事。今の所、誰からも突っ込まれてはいないし、ワタシ自身の扱いに変化も無い様だから、本当に何事も無く処理されたのだろうが、ワタシには、何故かあの母娘の行く末が気になってしまうのだった。
(興味本位だが、チト、調べてみっかぁ…)
今、手持ちに記録帖は無いが、風呂から帰って来れば暇など幾らでもあるだろう。帰ってきてからあの母娘の事を調べる事にしたワタシは、また一つ、脳内を軽くして、軽い足取りになって中心街の方へと近づいていく。
(只の戯れさァ…)
昨日よりかはまだ薄い罪悪感。だが、へばりついたヘドロの様に残ったその気持ちは、完全に取り払われるまで、まだまだ時間が掛かりそうだ。
「平和過ぎて仕方がネェと、こうなるもんだな。何事も程々が良いって事よなぁ…」
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