其の九十九:別世界

「なんだ、江戸じゃねぇの」

「どうやら、今回の夢ん主は大分現実主義者みてぇですな。流石は現役同心の夢だ」

「ほぉ…弥七の元同僚の夢か。あぁ、でも、ちょっと違ぇな」


弥七に連れられてやってきたのは、誰かの夢の中。酒が入っているから仕事に出てきて良いのだろうかと思ったが、飲んでいたのは大分。虚空記録帖に聞いても問題ないと返って来たので、大手を振ってやって来たのだが…オレは早速夢の中らしいを発見した。


「こんな場所に川なんざ流れてねぇもんな」


やって来たのは、夢の中の江戸八丁堀。何だかんだ、仕事で最も通る地域。通りはすべて頭の中に叩き込まれているから、違いはすぐに分かる。これが夢の中の曖昧さというやつか。


「ですねぇ…匂いも違いやすぜ。どうやらに強い拘りがあるんでしょうなぁ」


弥七はオレの言葉に同意しながら、周囲を見回して言った。弥七に言われてみて気づくが、江戸の喧騒に紛れて、水の流れる音が良く聞こえる。オレ達は適当に歩き回ってみたが、どうやら碁盤の目に区切られた道の横に、清潔な水の水路が通っている様だ。


「水の都ってやつか。こう綺麗だと、粋なもんだな」

「実際なら汚ねぇだけでしょうがねぇ…」

「夢ん中だから出来る事だわなぁ」


通りの隅で、道行く人々を見ながら言葉を交わすオレ達。行き交う人々の格好や様子に、現実世界との差は感じなかった。


オレ達は観光に来たわけじゃない。弥七は夢の中の確認もそこそこに、早速仕事へ向かう。


「こっちです。的は奉行所内に…」

「あぁ。ところで弥七、オメェ、腰の大小はどうした?」

「剣って苦手でしてねぇ…守月さんみてぇに免許皆伝だらけって訳じゃねぇんで…」

「の割にゃ、この間のアレをちゃんと生き延びたじゃねぇか」

「たまたまです。火事場の何とやらってヤツで」

「じゃ、なんだ。夢ん中じゃ、記録違反の対処も違ぇのかい?」


奉行所まで歩く最中、オレは弥七にそう尋ねる。すると弥七は首を横に振り、懐から何かを取り出した。


「別のを使いやす。こういうのですね」


そう言って取り出したのは、何の変哲もない糸。琴辺りに使われる糸だろうか?強さは大丈夫なのだろうか…と思っているうちに、弥七は丸められた糸を取り出すと、口に咥えて一本、糸をギューッと引き伸ばす。その仕草だけで、何となくどう始末を付けるのかは想像できた。


「絞め殺すのか」

「えぇ。斬るよりは面倒ですが、俺にはコッチの方が楽なんで」

「それ、何の糸だ?」

「琴に使われる糸ですね」

「絹じゃねぇか…切れねぇのか?」

「色々して手が込んでるんでね」


弥七は糸を見せびらかしながらニヤリと笑う。その顔は、口元がニヤリとしながらも、歌舞伎役者の様に引き締まった目だけが笑っていない。愛想の良い男だと思っていたが、初めてを見た気がした。


オレはその顔に圧されて頷くと、弥七は糸を懐に仕舞い、再び温和な顔に戻った。そろそろ、目的地の奉行所が見えてくる頃合い。遠くには、見覚えのあるままの奉行所の建物が見えてきた。


「今回は、ちょっと変わりが少ねぇ世界です」

「ほぉ~…普段はもっと違うのか」

「えぇ、今回は奉行所も現実と変わりませんが、何時かは江戸城そのもんでしたから」


弥七と言葉を交わしつつ、何食わぬ顔で奉行所に入っていくオレ達。特に役人に扮したりはしていない。外からは、どう見ても町人としか思えぬ格好なのだが…周囲の人間は、オレ達がいないかの如く振舞っていた。


そう言えば、ここに来てから周囲の人間の。現実の江戸でも、オレ達は殆ど注目を受けないが、それでも行き交う時の会釈やら気の使い合い…避ける時にチラリと見られたりはするものだ。だが、この世界に来てからは、オレ達にそういう事をする者は一人もいなかった。


「にしても、ここの連中は以上に不気味だな。今更だが…」

「そうですねぇ。あぁ、忘れていやしたが、ぶつからない様にお気を付けを。連中、避けねぇんで…」

「えぇ…そこまでかよ」

「はい…ぶつかってもまぁ…無視されるだけで影響は無いんですが。怪我とかされると事ですからねぇ」

「肝に銘じておこう」


奉行所に入って、人の密度は増している。建物に入る前に聞けて良かったか…オレは周囲に向ける注意をいつもより張って歩いていく。


弥七について奉行所に入ったオレは、朧げに見覚えがある建物の中へ上がり込み、廊下を歩いた。それなりに入り組んだ奉行所内。時折聞こえてくる、役人どもの話す声や、誰かを叱る声…以上にを感じるそれらの喧騒を聞き流しつつ、奥へ奥へと進んでいく。


「この先です」


奥まで進むと、弥七はそう言って糸を取り出した。オレは頷き弥七の邪魔をしないよう、後ろに回る。さて、ここからは弥七の腕前を拝見することとしよう。


「では…」


弥七はそう言うと、懐から文鎮を取り出した。鉄製の重い文鎮…それを、予め取り出していた糸に括りつけると、弥七は周囲を見回しつつ位置を変える。


奉行所の廊下にいるオレ達。的はどうやら、障子の向こう側…影になって見える、座って何か仕事をしている男だろう。オレは来た道を振り返りながら人気が無いかを確認する。弥七もそれ位はだろうが念のため…


見回しても、人は現れなかった。オレは廊下の曲がり角の傍に身を置いて、弥七の仕事ぶりをじっと眺める。弥七は障子の前に佇むと、そっと障子に穴を開けた。


「……」


何かを呟くように口を動かす弥七。声には出していないが、念仏でも唱えているのだろうか。丁度格子一つ分、障子に穴を開けた弥七は、今一度周囲を見回すと、一気に


ヒュッと糸を括りつけた文鎮を投げつけた弥七。直後、糸はピン!と張られて弥七はクルリと振り返る。


「…!!」


どうやら、障子奥の男の首にでも絡まったのか。障子に背を向け、ピンと張られた糸を右手で引っ張り上げる弥七…


(大した力だな…)


その様を見て、どこか感心するオレ。暫くすると、弥七はピクリと体を震わせる。そして、糸に手を当て…張り詰められた糸をピン!と弾くと、糸から琴の様な音が鳴った。


「死んでもココは夢ん中。現実じゃ、襟を正して生きるんだな」


一言、ボソッと呟くと、弥七は勢いよく糸を引く。すると、どういう仕組みか糸が戻ってきて、最後には文鎮も弥七の手に収まった。


「行きましょうか」


糸と文鎮を懐に仕舞い、険しくも色気のある表情を元に戻した弥七が戻ってくる。オレはポカンとしたまま頷くと、一人の役人が死んだ部屋の方を見返してボソッと呟いた。


「流石は夢ん中だ。殺し技も、現実離れしてやがる…」

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