其の十三:仇見逃して候
その同心は、ワタシ達の前を通り過ぎていくと、適当な小路に入って姿を消した。少々古い町家が並ぶこの辺り、ワタシと公彦は顔を見合わせると、ワタシは首を傾げて見せる。
「追いかけて、何してっか見てみっか?」
手出しできぬ相手。だが、奴が何をしているかを見る位は許されるだろう。ワタシは公彦に提案すると、奴は無言のままゆっくりと頷いた。
比良に帰る前の、ちょっとした寄り道だ。ワタシと公彦は、田中が消えた小路へ入り、奴の背中を探す。細く長い路地、遠くに黒い同心羽織がチラリと見えた。ワタシ達はその影の方へと足を進める。
田中は更に角を曲がって行った。その後を付けていくワタシ達。やがて田中はある町家の戸を叩き、中から出てきた男と言葉を二、三交わすと中へ消えていった。
「ほぅ…心当たりがある…ワケねぇか」
「当たり前だ。あの野郎、隠し事が多い様だな」
「あぁ。そうだな。お前さんとて、一から十まで褒められた同心か?」
「それはない」
「だろ。誰だって、知られたくねぇ面を持ってんのさ」
田中が消えた家の前で言葉を交わすワタシ達。暫くそこに立ち尽くしていたが、田中が出て来る気配が無いと感じるや否や、どちらからともなく元来た路の方へと足を踏み出した。
「ま、副業出来てるってことは…酒の失敗は上手く誤魔化した後なんだろうな。犯人は、何処ぞへ消えたお前さんに擦り付けられてんだろうが」
「捕まらねぇ犯人か…」
「家族は今頃針のむしろだろうぜ。ま、それもこれも最早関係ねぇ事だが」
歩きながら、何気ない口調でそう言うと、公彦の目は大きく見開かれる。事実を言ったまでだが、ここに来るまで奴の頭にそれは入っていなかったらしい。同心は世襲制だったか…今頃、この男の家の周りは穏やかでは無いはずだ。
「どう足掻いても、助けるこたぁ出来ねぇが同情はしてやるよ。似た様なもんだからな」
そう言って、足元にある大きな石を蹴飛ばすワタシ。その石は、道脇の町家の壁を叩いて傷を付けると、路の脇にポトリと落ちた。そこから、ワタシと公彦は口を閉ざし、小路を抜けて元の大路に戻る。
「…さて、帰るか。あの小屋だ」
大路に戻り、少々海よりの路へ抜け、見えた小屋が比良の国へ繋がる扉だ。ワタシが小屋を指してそう言うと、横を歩いていた公彦はコクリと頷いた。
「帰ったら、記録帖に名を書いてもらうぞ」
「…分かってる」
堪えた様な公彦の表情。ワタシはそれを一瞥すると、それ以上何も言わず小屋の扉に手をかける。戸を開き、公彦の腕を引いて、戸の中へ…入って来た時と同じように、視界は黒一色に埋め尽くされ、ワタシの感覚は一瞬、完全に消え去った。
「……」
「……」
比良の国の喧騒が耳に入り、やがて視界に輪郭が現れ、色付き始める。気が付けば、比良の国の中心部…それこそ、今朝も訪れた銭湯の近くに立っていた。
「ここは…」
「風呂屋の近くさ。入ってっか?」
「そんな気分じゃねぇや。酒飲める所あるか?」
「あるにはあるが…ワタシは飲まねぇんだよな」
「構うものか」
「…ま、家の近所でな。やることやってからだ」
中心街に似合わない、質素な小屋の前で言葉を交わした後、家の方へと歩きはじめる。出てきた当初こそ、公彦の機嫌は悪そうに見えたが、やがて中心街を歩くにつれて、周囲の明るさに気付いたのか、目を丸くして周囲を見回すようになっていた。
「明るいな。もう夜なのに」
空は闇に染まっている。江戸ならば、辻行灯の明かりで少し路が見えるだろうかという所。比良の国の中心街は、空の闇の下で煌びやかに輝いていた。その明かりは、路の最中や軒先にぶら下がっている硝子玉から放たれている。
「硝子細工さ。中で火が燃えてんだが、その光が硝子に反射してるお陰で明るいんだ」
適当な硝子玉を指して言うと、公彦はそれをジッと見やって溜息をついた。
「色も付くのか」
「あぁ、その辺りは作ったやつの趣味だな。だが、良いもんだろ」
「ああ」
行燈の中で揺らめく火の色だけではない、様々な色に彩られた通り。そこを過ぎていく。中心街の塀の外へと出てしまえば、江戸と変わらない辻行灯が通りを照らす光景が続き、その明かりを頼りに家までの道のりを歩いていった。
家に着くと、真っ暗な家の中を進み、公彦の記録帖を置きっぱなしにした部屋へ上がる。部屋に置かれていた行燈に火を付けて部屋の明かりを付けると、ハッキリと見えた公彦の記録帖を取って、それを奴に手渡した。
「さ、裏表紙に名前を書いてもらうぞ。齢は、どの齢を書いても良い」
記録帖を受け取った公彦は、裏表紙を見下ろして暫く固まり、やがて机の上に記録帖を置いて筆を取る。
「そう言えば、アンタは幾つにしてんだ?見た目の齢は。12か?13か?」
「15だ。そんなに幼く見えたかよ」
「大して変わらんだろう。で、その齢で固定すると、背格好も変わらんのか?」
「背は伸び縮みしねぇだろうな。体型は変わる。肥えるのもいりゃ、痩せるのもいるさ」
「ほぅ…その、剣の腕は、感覚はどうなる?齢を戻したら戻るのか?」
「それは無いな」
「分かった」
公彦は頷くと、迷いのない早さで裏表紙に名前と年齢を書き込んでいった。守月公彦、齢23…見た目の年齢を、僅かに実年齢から下げた様だ。
「む…」
裏表紙に書き込まれた文字は、墨が乾く前に飲み込まれ…薄っすらと虚空記録帖の文字で奴の名と齢が浮かび上がってくる。その瞬間、公彦が僅かに声を上げた。行燈の朧げな光に照らされた奴の横顔を見てみれば、さっきまでの公彦と違う、僅かに若々しい青二才染みた横顔が見えた。
「さぁて。これでその本は晴れてお前さんのモンだ。後は棲み処だが…」
ワタシは裏表紙に名が刻まれた事を確認すると、そう言って公彦の肩を叩く。公彦は何とも言えない表情で頷くと、本を机の上に放り投げた。
「そんなの後にしてくれ。腹が減った」
ワタシの言葉を遮るように言った公彦。ワタシは呆気に取られたが、すぐに口元を歪ませて頷いた。
「分かったよ。後のこたぁ、食ってからにすっか…」
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