其の十二:挨拶回りて候

「よう…」

「おっす」


 すれ違いざま、若者の男に手を上げる公彦。若者はそれに手を上げて応えると、言葉を発することも無くすれ違う。その様はまるで他人。知り合いでも無いかの如く。公彦はすれ違って二、三歩歩いたのちに振り返り、若い男の背中をジッと眺めると、踵を返して歩き出した。


「そういや、声掛けてんのは知り合いなんだろうが…何なんだ?一体」


 さっきの男で十四人目。その間、公彦が馬鹿な真似をしない様に…変に刺激しない様に横に付いていたワタシだったが、黙っている状況に耐えられず、遂に公彦に声をかける。


「ん。あぁ、岡っ引きさ。俺が適当に目を付けて使ってた連中だよ」

「あぁ。随分威勢の無さそうな奴だったなぁ」

「そういう奴がイザって時に動けるのさ。アイツは中々に使えたんだぜ」


 町を歩きながら、公彦はそう言って先に足を進める。ワタシはそれ以上何も言わず、奴の少し後ろに付いて行った。


「よっ…」

「あぁ、ども」


 次に会ったのも、さっきの男と似た雰囲気を持つ男。公彦が使っていた岡っ引きは、公彦よりも若い男ばかりの様だ。ワタシは記憶の隅にも残ら無さそうな男を一瞥し、歩みを続ける公彦の横を歩いていく。


「何人位、下に付けてたのよ?」


 少し大きな路に出た頃、何となくワタシが話しかけると、公彦は目を左上に向けた。


「ざっと30人弱か。岡っ引きの更に下の連中含めて、俺が声掛けて集まんのは」

「30…それはそれは。多いのか少ないのかは知らねぇが」

「多い奴は50とか60とか従えてんだ。俺は各地域に数人ずつってとこだな」

「へぇ…挨拶回りはそいつ等だけか。飲み仲間とか居なかったのかよ」

「居なかったといえば嘘になるが、名も棲み処も知らねぇ奴ばっかだな」


 公彦はそう言って僅かに目を細めると、遠くに見えた男を指して男の方へと歩いていく。


 ・

 ・


「おう」

「よう」


 これで二十七人目…この男とも、公彦は挨拶を交わすだけ。相手は最早公彦のことなど思い出せないだろう。一瞬訝し気な顔を浮かべつつも、公彦に言葉を返した男は、すぐに日常へと溶けていった。


「こう歩くと、江戸も広いよなぁ…」


 ワタシにとって、記録帖を持つ者以外は人間じゃない。だから、一瞬確認できた顔もすぐに記憶の彼方へと消えていく。公彦と共に江戸を練り歩いてどれだけ時間が経っただろうか。日が傾いてくるのも、もうそろそろといった時間帯。公彦は一瞬空を見上げ、そして額に浮いた汗を拭うと、迷いなく江戸の路に足を踏み出した。


「日暮れまでには、間に合いそうだな」

「あぁ。すまないな、我儘言って」

「今更かよ」

「今更だな。江戸に来て、ようやく俺の立場が分かった」

「そりゃよかった。あっちじゃ夢見心地だったもんなぁ」


 時が進むごとに素直な面を出してくる男を軽く弄ると、奴は僅かに頬を蒸気させて目を逸らす。ワタシは遠い昔にもあったものだなと今更ながらに脳の片隅に思い出すと、手をヒラヒラ振ってから「気にすんなよ」と言ってムズ痒さを誤魔化した。


「よう」

「おう」


 八丁堀から歩いて、既に三田の方まで来ているだろうか。遠くから潮風が届き、波の音が聞こえている。公彦はそこで最後に残った3人の岡っ引きを見つけて短かい言葉を交わし終えると、少々安堵した様な顔になり、小さくため息をついて立ち止まった。


「遠くまで来ちまったな。あっちまで戻れるが、日が暮れるだろう」

「なぁに、この辺りにもはある。確か海沿いにある小屋だ」

「確かって、覚えて無いのかよ」

「昨日お前さんの所に行くまで、暫く江戸に出向いてなかったからな。景色が違うのさ」


 仕事をやり終えたといった感じを醸すワタシ達。他愛ない会話の中で、公彦は何かに勘付いたかの如く「ん?」と声を上げる。


「確か、ずっと前に大火があったとかで、作り直したんだっけかなぁ…?」


 そう言って、何か言いたげな目でワタシの方をチラリと見やった。ワタシはそれに何も答えず、着ていた着物の袖に仕込んである苦無を二、三取り出して奴の足元に投げてやる。


「御法度と言ったよな?」

「お約束というやつだろ。誘った癖に」

「今度抜かしたら叩き斬ってやるよ…」


 ワタシは口元を綻ばせながらそう言うと、公彦の足元に刺さった苦無を拾い上げた。


「しかし、そんなものを仕込んでたのか。アンタ、隠密か何かだったのか?」

「だから…」

「昔の職を聞くのは良いだろう。その腕、只の手練れではない様だ」

「……あのなぁ。してんだぜ。昔のこたぁ忘れたよ」


 この公彦という男。当代随一ではないにせよ、それなりの剣客だ。そう言って誤魔化せる気はしなかったが、ワタシは拾い上げた苦無を弄びながら公彦に睨みを効かせて黙らせる。


「只の町娘だって、その気になれば一騎当千の剣客になれる。どんな才能無しでも、やり続ければやがて名人になれる。時に限りが無く…姿で居られるってのはそういうことさ」


 そう言って苦無の土を掃って袖に仕込みなおすと、遠くに同心羽織を着た男の影が見えた。


「おっと、こんな時間にこっちに来る同心もいるんだな。そろそろ仕事終わりだろうに」


 日が傾いた頃合い、そろそろ鐘がなるだろうかという時に、八丁堀から離れた場所でこの羽織を見るとは思わなかった。ワタシと公彦は、路の脇に身を避けて、その男が通り過ぎるのを待ち構える。


「……」

「……」


 橙色に染まった空の下、淡々とした歩調で歩いてくるのは、公彦よりも3寸程背が高い男だった。公彦で五尺三寸程度…その辺の男より十分に背が高いが、それよりも更に大きな男は、段々とワタシ達の方へと近づいてくる。


 男がワタシ達…特に公彦に気付く事は無いだろう。同心羽織を着ていたとしても、それを見止めて喚く事は無いはずだ。だからワタシは、ただの野次馬に近い感覚で男が通り過ぎるのを待っていた。


「むぅ?」


 段々と大きく見えてくる男。逆光の光の中、見えなかった男の顔がハッキリ見えてくる。それと同時に、横に立っていた公彦が急に殺気立った。


「おっと、手出しはすんなよ」


 ワタシはすぐに公彦の腕を掴み、足を踏み出しかけた奴を留める。公彦はすぐそれに従ったが、今にも斬りかかりそうな目を男に向けたまま、徐々に殺気を増していった。


「聞かなくても分かる気がするが。公彦、あの同心が…」

「あぁ。田中だ。北町奉行所の、田中六兵衛…!」

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