其の十一:江戸廻りて候

 比良の国から江戸へ行く方法は幾つもある。中心街にはへと通じる箇所が多い。ここからなら、全国どこへでも行けるんだ。ワタシは服屋から一町程度歩いたところにある、ポツリと建った一軒家の方まで公彦を連れて行った。


「ここだ」


 周囲の煌びやかな様子から比べれば、随分と質素で…それでいてちっぽけな家。表札に書かれた「江戸 八丁堀」という文字が、この家の戸が何処へ繋がっているかを表わしていた。


「…どういうことだ?」


 そんな建物を前にして、首を傾げた公彦。ワタシは奴の手を引いて家の戸に手をかける。ガラッと扉を開き、公彦共々中へ入っていくと、僅かに一瞬音が聞こえなくなり、ワタシの視界は黒一色に覆われた。


「……」

「……」


 視界が戻ってくる直前、音が先に聞こえるようになって喧騒が耳に入ってくる。それから僅かに遅れて、視界が戻ってきた。比良のそれとは大きく違う、狭く土を踏み固めただけの路。そこを行き交う人々の姿。そこが江戸、八丁堀であるという事は、ワタシ以上に公彦が感じている様だった。


「なんという…ことだ?これは…」


 目を丸くして、辺りを見回す公彦。前にある質素な一軒家以外、目に見える景色全てが懐かしく感じている事だろう。ワタシは公彦の顔を見てニヤリと笑みを浮かべると、奴の腕を突いて辺りを指し回した。


「お前さんの望みを叶えてやる為に来たんだぜ。暮れまで、まだまだ余裕があるんだ。好きに動けや。付いてってやっから。あぁ、間違っても建物には入んなよ」

「わ、分かった。それで十分だ」


 ワタシの忠告を聞き流した公彦は、ゆっくりと足を踏み出した。奴の足取りは迷いを感じさせず、確かな目的がある様だ。ワタシは奴の横を歩きつつ、昨日ぶりに来た江戸の様子を見回した。


「こういう活気も悪かねぇんだがな」


 無言で歩く公彦の横でそう呟いたが、公彦は眉一つ動かさずに反応を見せない。だが、僅かにこちらに動いた視線からは、若干邪険にしたそうな感情が読み取れる。


「八丁堀でこの様なんだ。天下人の僕ならもうちょっと良い暮ししてても良いよなぁ?」


 比良の国に比べれば、江戸の町はとても貧祖に見えた。行き交う人々の着る服は、よく見れば所々に継ぎ接ぎが見え、家々を構成している木々は完全に色を失い、蹴飛ばせば折れてしまいそうな物ですら、家を支える柱に使われているのだ。


 八丁堀、それこそ、隣を歩く公彦の様な者が住んでいた町ですらその様なんだ。平和といえど、豊かとは言えまい。そして、八丁堀を抜けて別の町に来てしまえば、その光景は更に質素具合を増した。


 ワタシがだった頃に比べれば、これでも遥かにマシというものなのだが…あの日夢に見た桃源郷の光景には、今の比良の様になるには、まだまだほど遠い…まだまだは針地獄だ。


「所詮あの本に連中よ」


 忙しなく行き交う人々、小汚い町の風景…独特な臭い。ワタシは僅かに顔を顰めながら周りを見回すと、不意に小綺麗な顔をした娘の姿が目に入る。


「みろよ。あそこの娘の笑顔も作りモンに見えるんだよなぁ…」

「あの桶屋の娘か。腹は黒いって評判だった」

「そうなのか?」

「虚空記録帖とやらを見てねぇで言ったのか」

「んな、その辺の人間一々見てられっかよ」


 ワタシはそう言いながら、懐に隠していた紙を二枚ほど取り出すと、折り畳まれたそれを広げて書かれていた文字に目を通した。公彦はそんなワタシの様子が不思議に思ったのか、歩きつつもこちらをチラチラと見ては前を向く。


「なんだ気になるか?」


 書かれた文字を読みながら公彦を煽ると、奴は素直に頷いた。


「いやぁ、あの娘の近くに見つけたもんでな。あの男を見てみろよ。お前さんの同僚だ」


 ワタシは桶屋の娘の近くを歩く、公彦と同じ格好をした男を指さした。奴は南町奉行所の定町廻り同心だ。


「仲野って言ったな。知ってるだろ?」

「あぁ。奴がどうかしたか?」

「この紙、見てみろ」


 そう言って、手にしていた紙を一枚、公彦に手渡す。それは、虚空記録帖の。出て来る前、適当な奴の記録を出し、そしてその部分を破って持って来ていたのだった。


「これは…」


 使うかどうかは公彦の気分次第だったが、運よく、奴の歩いた先に記録を出した奴がいてくれた。そのお陰で、奴にさっき見せられなかったとやらを見せられる。


「あの男、今ここにいるってことはぁ…丁度良かったな。良いもんが見られるぜ」


 ワタシは歩いて場を去ろうとした公彦の腕を掴みあげ、仲野の後を追いかけ始めた。


「おい、何を…」

「なーに。ちと眺めるだけさ。分かってんだろ?ここの人間に見向きもされねぇって」


 江戸に来てからは、周囲の人間から浮いた、空気の様な存在になっているワタシ達。かなり分かり易い尾行をした所で、誰に咎められる訳もないのだ。公彦も、同心羽織を着ていながら、誰からも声を掛けられなかった段階で、それを理解していた事だろうが…理解することと受け入れる事は別なのだろう。


 公彦が行こうとしていた路を逸れて、仲野を追いかけて少しの間。奴は豆腐屋へと入っていく。それを見た公彦は、思わず「あっ」と声を上げた。


「心当たりが?」

「いや。この紙、記録帖の一部か?」

「あぁ。今更気付いたか」


 公彦は虚空記録帖の一部、紙切れを食い入るように見つめてから、豆腐屋に入った仲野の背中をジッと睨む。仲野は、豆腐屋の旦那と何か世間話をした後で軒に座り込んだ。


「丁度、書かれんだろ。あの光景が、文章で」


 ワタシはそれをジッと眺めながら公彦に言うと、奴はゆっくりと頷いた。


「信じられん。あの豆腐屋、不味くてな。時期に潰れると思ってたんだが…」


 呆然と呟く公彦の前で繰り広げられる賄賂の瞬間。仲野の横にやってきた豆腐屋の旦那が、茶を入れた湯呑を盆に載せてやってきて、仲野の横に正座する。


「さりげねぇ手口だな」


 仲野は湯呑を掴んで一気に茶を流し込むと、湯呑を盆に戻し…そして、盆の上に載っていたであろう一両金貨を掴んで旦那に見せつけてから、懐に収めた。


「……」

「……」


 豆腐屋から、何事も無かったかのように出て行った仲野の姿を見送るワタシと公彦。公彦は僅かに驚いた表情を顔に貼り付けたまま仲野を見送ると、手にした記録帖の一部をクシャっと握りしめた。


 ワタシはそんな奴の様子を見て口角を上げると、足元の石を適当に蹴飛ばしてから奴の腕を突いてこう言った。


「さて、未来を当てられたなぁ。分かったろ?あの本の凄さが」

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