其の六:引き連れて候
雲一つない青空の下、ワタシは公彦を連れ立って比良の国の中心街へと足を運んだ。
「おはようございます。お千代さん。ツレの人は、アレかい?昨日の」
「おはようさん。あぁ、そうよ。昨日の同心だ」
江戸の雑多な街並みとは全然違う比良の国の光景。地平線の奥まで真っ直ぐ続く平野に作られた碁盤の街。路は程よい幅を持ち、高度に切り出された石が敷き詰められている。その両脇に並ぶ家々は江戸の質素なそれと違い、京の都以上に贅を尽くしつつも、何処かワビサビとやらを感じさせる佇まい。右を見ても左を見ても、煌びやかな通りが続くココは伊達に比良と呼ばれちゃいない。
連れ立った公彦の顔はあちらこちらに向けられ、何かを見る度に驚いている。ワタシはそれを横目に見ながら、朝の中心街を歩き、中心部に位置する巨大な銭湯を目指して足を進めた。
「お千代さん、オハヨ。そっちの旦那が噂の」
「おはようさん。噂のって何さ。昨日の八丁堀だよ」
「鶴松が触れ回ってんのヨ。寡黙な旦那だって」
「あぁ、ほら。見ての通り何も反応ねぇだろ?」
「本当だ。だが、中々良い顔してんじゃねぇか」
時折話しかけてくる住民たちと言葉を交わす間も、公彦は何も声を発さない。今だって、僅かに会釈はしたもののそれ以上の反応は見せなかった。ワタシはそんな公彦に呆れつつ、遠くに見える銭湯の煙突を見止め、公彦の腕を突く。
「アレだ。江戸のソレと一緒にしちゃいけねぇ。男女別だかんな」
「金を持って無いのだが」
「金なんざ管理人に必要ねぇの」
心ここにあらずといった風な公彦を連れ、銭湯の暖簾を潜って中へ入る。既に外まで漏れ出ていた妙薬の効いたお湯の香りに包まれ、ワタシの顔は僅かに綻んでいた。
「男女1枚。ワタシの名で札切ってくれ」
「はい」
生気を感じぬ番頭が、紙切れにワタシの名を書き入れ札を作りそれを寄越してくる。受け取った内の一枚を公彦に押し付けると、奥の男女別に別れた入り口を指さした。
「この札は持っとけ。手ぬぐいやら何やらは中にあっからよ。使う分だけ取って使いな。分かんなきゃ番頭と同じカッコした奴に聞け」
「あの生きた気がしねぇ男か」
「あぁ、奴ァ抜け殻さ。後で説明してやらぁ。で、風呂から上がったらこの上で待ってな。その札持っときゃ誰も逆らわねぇから」
公彦に一通り説明を済ますと、ワタシは女の暖簾を潜って女湯の方へ歩いていく。脱衣所で着物を脱いで籠に放り込み、浴場の手前にある棚に積まれた白い手ぬぐいを取って更に奥へ…
「失礼~」
浴場へ出向くと、朝も少し遅い時間帯だからか、見える範囲に他人の姿は見えない。10人入っても狭くない浴槽…独りで浸かるには贅沢過ぎる広さを持った銭湯…ワタシはその辺の桶で掬った湯を体にかけると、適当に身を洗ってから湯船に足を入れた。
「冷え者でござぁ~い…あぁ~」
江戸の熱すぎるそれとは違う、熱すぎず温過ぎない適温のお湯。カラクリを駆使して出来た、常に入れ替わる妙薬入りの湯が体に染みる。今頃公彦は目を丸くしているに違いない。ワタシは一人ほくそ笑むと、手ぬぐいを畳んで頭に載せ、体中の力を抜いた。
「あらあら。これはこれは千代じゃないか。良い所で出会ったものじゃな?」
半分目を瞑って気の抜けた顔を晒して湯舟に浸かる事少し、耳に聞き慣れた声が届く。その声に誘われ目を開くと、昨日、酔いつぶれて介抱し、家まで送っていった女が正に湯に浸かろうとしている所だった。
「栄か…あんだけ飲みやがって良く朝の内に起きれたもんだ」
ワタシなんかよりも遥かに女らしい、無駄に曲線の効いた体躯に一瞬目を奪われたワタシは、ハッと我に返ると僅かに身を捩らせて栄の突進を躱す。栄は僅かにムッとした顔を浮かべて腕に絡み付いてくる。
「ちったぁ離れてろよ暑苦しい」
「良いじゃないのさ、珍しくわっち達しかおらんのだぞ?」
「何が良いんだ何が。ワタシに同色の気はねぇ!それに今日は長風呂出来んのさ」
「むぅ…?何故だ?」
「何故も何も、あの頑固同心の面倒をみにゃならんだろう。お前さんの時みたいにな」
そう言うと、栄は「あぁ」と合点のいった様な顔を浮かべ、掴んでいた腕を放した。
「守月とかいう男。もう、虚空記録帖に名は書き終わったのか?」
「いやぁ、書きやしねぇんだな。まだ気分は定町廻り同心なんだろう」
「まぁ、そうであろうな。きっと御伽噺の主人公になっておるのだろ」
栄はそう言ってワタシの方に顔を向ける。
「御伽噺の主人公ねぇ。確かにその通りだ。まだ奴ァ江戸に戻れると思ってそうだものな」
「あぁ、そうじゃろうて。何があるかは知らんが、最後は元に戻れると信じておる」
「栄もそうだったのか?」
「そうだった…ってことはないな。わっちはすぐにこっちの方が気に入ったからの」
「その割には、お前さんも名を書くのに時間がかかったが」
ワタシがそう言って栄を弄ると、栄は僅かに顔を赤らめた。
「得体の知れないものを見せられて、それに名を書くのは別じゃな」
昔は聞き出せなかった理由を聞けたワタシは、ポカンと口を半開きにする。だがすぐにクスッと笑いだし、肩を震わせて小さく笑った。
「それもそうか。文字が飲み込まれるなんざ、普通ねぇもんなぁ…」
「あぁ。慣れるとどうってことも無いんじゃがな。毒されすぎだ」
「ったく…久々に管理人を作ると面倒が重なっていけねぇや」
「最初のうちだけじゃろう。まだ早いほうじゃし、すぐに独り立ちするさ」
「そうなってくれっと助かるんだが」
ワタシはそう言いながら、湯に浸けていた腕を上げて軽く伸ばすと、ゆっくりと立ち上がる。
「ま、仕事は仕事か…美味いモンでも食わせて、さっさと終わらせっかな」
立ち上がって、少しだけ体を動かし凝りを解すと、そう言って栄に手を振った。
「じゃ、ちっとばかし、頑固旦那の世話でもしてくらぁ…」
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