其の五:待ち構えて候

 雲一つない青空を眺めながら、ワタシは半分眠っている様な頭を必死に動かし眠気を堪えていた。昨日…いや、数刻前まで連中の介抱やらなにやらをやらされていたのだ。久々のに向かって、現役の同心相手に斬り合いをした後にこれだ。疲れない訳が無いだろう。ワタシだってか弱い女なんだ。


「酒飲み共に遠慮って言葉はねぇもんかね。ワタシも酒が飲めるようになってからに来るんだった。畜生…」


 自宅の縁側に腰かけて毒づく。格好は昨日のまま…風呂にでも入ってサッパリしたいところだが、そろそろ昨日男が起きるであろう頃合いともなれば、好き勝手に家を空ける訳には行かなかった。


「ん…?雑草…ったく。この間抜いたばっかじゃねぇか。後で…あぁ、剣も手入れしにゃなんねぇのか。ちょっと仕事があるとこれだもんな」


 眺めた先、自分で好きに弄っている庭園に見かけた雑草を切欠にを幾つも思い出すと、ワタシの眉間に刻まれた皺は更に2つ程増えてしまった。


「まーた、あれこれ終わったら何か起きるんだ。まぁ、良いか。暇つぶしにゃよ…」


 ここは「比良の国」…とワタシ達が呼んでいる地域。江戸やその他の地域から地続きになっていない土地。店が並んで賑わう中心街から少々離れた所に、ワタシの棲み処があった。


 江戸じゃ望めない個人宅。庭付き離れ付き、二階建ての邸宅。1人には十分すぎる程の広さを持ったワタシの城。ワタシが築いたワタシの城…


「しっかし、起きねぇな…そろそろ叩き起こしてやろうか」


 その縁側で昨日の男が目を覚ますのを待っている。日の位置も明け六つの位置から随分上がって来た様に見えるのだが…男は中々起きてこない。


「野郎…そろそろ起きてくる頃合いなんだがなぁ…」


 気の長いワタシでも、そろそろ焦れてくる。そんな時、耳に何かが擦れるような音が聞こえた。


「曇りが一切無い上質な鏡。化粧道具に硝子細工で出来た食器類…良い身分なんだな」


 背後から男の声。ワタシは首だけ半分回して顔を見やると、僅かに顔を歪めて呆れた表情を作って見せた。


「起きて早々家探したぁな。そっちこそ良い身分なんじゃねぇかよ。まぁいい。。こっち来て座れや」


 昨日の様な小汚い格好ではない…白色系の着物に身を包んだ公彦を縁側に呼び寄せる。公彦はワタシの言葉に何の反応も見せず、素直に隣にやってきて、気だるげに腰を下ろした。


「お前さん、昨日、何があったか覚えてっか?」

「アンタを叩き斬った所で終わってる。気付いたらここにいた」


 公彦は昨日のまま、少々殺気立ったままの声色でそう答えると、縁側から望める庭園を見回して溜息を一つついた。


「首の骨へし折られてここへ来たのさ。ここは。江戸じゃないんだぜ」

「比良…?あぁ、俺は死んだのか。アンタはさしずめ…閻魔の僕って所かな」

「そうだったらなぁ、どれだけ説明しやすい事か。もっとややこしい存在よ」


 ワタシはそう言うと、隣に置いていた分厚い本を手にして公彦の方に投げ渡す。「虚空記録帖」と表紙に難解な文字で書かれた本。公彦はそれを取って中を開けるが、分厚い本にはこれっぽっちも記述が無い。


「馬鹿にしてんのか?」

「まさかぁ。それはな、虚空記録帖。この世の人間の行動全てが記録されてる本だよ」


 事も無さげにそう言い切ったワタシを、どこか可哀そうな人でも見るかのような表情になって見つめる公彦。あぁ懐かしい…最初は誰だってそんな反応を見せるのさ。ワタシは口元を僅かに歪めると、公彦の方に顔を見せてお道化て見せた。


「考えは筒抜けさ。そんなモンあるわきゃねぇって思ってやがんな?じゃ聞くが。あんな場末に囚われたお前さんの所に、どうして見ず知らずのワタシが現れたと思う?それも、ワタシはお前さんの前で二度も死んでんのに、この通りピンピンしてんだぜ?」


 捲し立てる様に言うと、公彦は能面を崩し、僅かにバツが悪そうな顔になる。


「中身は必要な時に出て来るんだ。昨日、お前さんが時みてぇにな」


 そう言いながら、ワタシは腰を上げて部屋の中へ戻った。目的は、部屋の隅の机に置かれた筆と墨。公彦を手招いて部屋に引き入れると、墨を少しつけた筆を押し付ける。


「その本の最後にお前さんの名前と、を書きな。それでめでたくだ」


 筆を受け取った公彦は、ワタシの説明を聞いてすぐに行動に出る事は無かった。怪訝な目をこちらに向けて固まるだけ。


「早くしろよ」

「出来るかよ。アンタまだ何か隠してるよな?」

「隠してなんかないさ。言ってないだけで。で生きるのに必要なこった。それに、その本はお前さんの本なんだぜ。あぁ…まだ自分が只の人間だなんて思っちゃねぇよなぁ?」


 公彦はワタシの言葉に対して即座に頷くと、筆を置いた。


「名前は書けねぇな」


 頑固な奴だ。記録帖によれば、もう少し賢い同心だと思っていたのだが…いや、頭の中じゃ、理解は出来てるんだろう。これまで通りの生き方は出来ないと。だが、それを受け入れるかどうかは別の話だ。


「ま、しゃぁねぇか。誰もが通る道だな…」


 ワタシは小さく呟き、深く溜息を付くと、頭を掻いて肩を竦めて見せ、両手を上げた。


「分かったよ。一旦負けてやらぁ。だがな、名前を書かねぇ以上、お前さんはワタシの監視下だ。ここを好きに歩けねぇ」

「構わないさ」

「それに、もう同心なんかじゃねぇ。立場勘違いしてっと、痛い目に遭うぜ」


 そう言いながら簡単に身支度を整えると、相変わらず寡黙な男の腕を引いた。


「朝風呂にでも入りに行こうや。して、朝飯でも食おう。お前さんが起きるの待ってたらこんな時間だ」

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