其の二:追いかけて候
「九…八…七…六…五…」
数え始めると、男は脱兎の如く駆け出した。ワタシを押しのけ、一目散に出口の方へ駆け出した。ワタシはそれを見送りながら、ニヤついた顔を徐々に真顔へ戻してゆく。
「四…三…二…」
男は外へ飛び出したらしい。奴は真面目な男だ。奴の性格を鑑みれば、人様に迷惑はかけるまい…大きな通りに出て喚き立てる様な馬鹿はやらないだろう。逃げ道には使うだろうが…まぁ、そんなことをやった所で最早奴は幻想の存在…気取られる事も無いのだ。
「一…よぉ~し。数えてやったぞ、寡黙旦那ァ」
ワタシは背中に背負った大太刀をゆっくり引き抜き、脇に構えると、そっと足を踏み出した。廃屋の廊下を進み、蹴破った扉を踏みつけ外に出て立ち止まって目を瞑り、そっと耳を澄ませる。
「そうか、そうか。馬鹿正直な男だぁな。そら、謀られもするさ」
暗闇の中から聞こえてくる男の疾走する足音。風も吹かぬ中、どうやら男は馬鹿正直に小路を逃げているようだ。その小路は、ワタシがここまで歩いてきた路。
ワタシはゆっくりと目を開けると、周囲を見回し、屋根に登れそうな場所を探す。それはすぐに見つかり、ワタシは迷うことなく足を踏み出した。
「よっ…っと!」
壁を蹴飛ばし別の壁へ…それをもう一度蹴飛ばし、瓦を掴んで体を引き上げ屋根の上へ。更に月明かりが明るく感じる屋根の上。ワタシは物音のした方へ顔を向けると、その方角へ向かって駆け出した。
屋根を伝い、時には小路の間を飛び越えて、ワタシは男を追いかける。向かう方角から察するに、男は八丁堀の方まで戻る気だろう。暗く、分かりにくいと言えど…同心がこの辺の地理を知らぬ筈が無い。ここが何処か分かれば、向かうのは勝手知ったる場所と言う事か。
屋根を伝い、入り組んだ小路を無視して進んでいくと、やがて眼下に何者かの影が見える様になって来た。その影はワタシを察知しているのか、すぐに闇の中へと溶けていく。その影は間違いなく奴だ。ワタシは口元を僅かに綻ばせると、更に足を早めた。
瓦が大きな音を立て、闇に溶けた街へ響いていく。その音はきっと、男へ圧を掛ける事だろう。「ワタシはここに居るぞ」と告げながら近づいている様なものなのだから。
男が幾ら同心といえど、今の奴は丸腰なのだ。ワタシの剣の腕がナマクラなのであれば、あの場で逆襲を食らい組み伏せられたことだろうが…抜刀一つで腕は証明出来たはずだ。年端も行かないと言えば言い過ぎだろうが…一見すればその程度の女が、こんな闇夜の中自分を殺しにやって来たのだ。あぁ、今の男の気持ちを考えるだけでそそられるというもの…
「いる…いる…そこを曲がるんだろう?」
闇に溶ける影を追い、遂には小路だらけの町家街を抜け、昼には車が行き交う大路までやってきてしまった。路の左右には店が軒を連ねているが、こんな時間に空いている店は無い。戸を閉め掛行灯や辻行灯の火はとっくに消えている。
「追いついたぜ旦那ァ!」
男が大路に出た途端、ワタシは派手に瓦を踏み抜き宙へ舞った。
心臓が縮み上り、背筋に嫌な寒気を感じる。
満月の光を背にしたワタシが目にしたのは、目を丸くした男の姿。
着地時の距離にして、一間あるかどうか…両手を伸ばしても、切先が服に届くかどうか…
ワタシは構うことなく手に力を込めた。
「ゥうらァ!……」
脇構えから、薙ぎ払う様に振るった大太刀。
音を立てて暗闇を切り裂いた刀身に、肉を斬った感触は帰ってこない。
「ぐゥッ!」
着地…それと同時に右足の骨が砕け散る。その音は、刀を薙ぎ払った風の音より大きく男の耳に届いたのだろう。間一髪のところで刀から逃れた男は、二間程度の距離を取った後に思足を止め、こちらの様子を伺いだした。
「…グ…ギ…ギ…随分と、余裕じゃねぇかぁ。敵の心配をする余裕があるたぁなぁ…ハハッ!そんなお人好し、初めてだ」
周囲を見回しつつも、どう動くか迷っている様な男を見据えてワタシは笑う。大路のド真ん中で動けないでいるワタシは、男をジッと見据えたままニヤリと口元を歪めると、手にした大太刀の刀身を躊躇なく自らの首筋に突き立てた。
「んッ…」
「!!!」
ちょっと当てるだけで首筋の皮が裂け、肉を断ち、血が止めどなく流れていく。相変わらず言葉も発さず驚愕する男の顔を眺めたまま、ワタシはニヤついた顔を貼り付けたまま、刀を深々と首筋に押し込めた。
流れ出ていた血…やがて栓が外れたかの如く首筋から噴き出し、あっという間に刀を真っ赤に染めていく。ワタシは薄れゆく意識の中でも男の目をジッと見据えたまま、ゆっくりと地面へ崩れ落ちて行った。
「……」
「……」
「……」
暗闇の中、消え失せた筈の意識が戻ってくる。一度は完全に途絶えた外の感触が体中に戻ってくる。冷たくなった肌に、じんわりとした涼しさが感じられるようになり…耳には何者かが砂利を踏む音が届くようになってきた。
「こいつぁ…一体…」
耳に届いた男の声、その声を聞いたワタシは体中を震わせ、強引に体を引き上げる。
「!!」
崩れ落ちる寸前の格好に戻ったワタシ…目を見開き、ワタシから距離を取ろうとする男の影が瞳に映り込んだ。
「やっと声を出しやがったな。見た目に違わねぇで低い声してんじゃねぇか」
膝立ちの姿勢になったワタシは、驚きに固まる男の方をジッと見据えてそう言うと、地面に落ちた大太刀を拾い上げる。血を吸い、血に染まったはずの刀身は何事も無かったかの如く鈍い輝きを放っており、周囲にまき散らした血飛沫のシミは何処にも見当たらない。
「良いのかい?逃げなくてよぉ。さっき砕いた右足も、さっき切り裂いた首筋も、この通り。元に戻ったんだ」
体が元通りになった事を示すため、ワタシはゆっくりと立ち上がり、大太刀を脇に構えた。
「言ったろ?ワタシを殺して見せろと。得物も持たねぇお前さんに何ができるってんだ?ここで斬り捨てちまうぞ?」
そう告げながら、足を一歩、前に踏み出す。三間はありそうな男との距離が、3尺程縮まった。
「ワタシは常識の埒外にある存在。虚空記録帖の管理人…」
また一歩、男との距離を縮めながら、ワタシは男へ話しかける。
「記録を犯した者には、相応の報いを受けてもらわにゃならねぇんだ」
男との距離が二間以下に縮まった。後少しで、大太刀の切先が男に届く。ワタシはそこで足をピタリと止め、管理人になる見込みがある男を煽り立てた。
「報いの多くは死をもって清算される。抗いたくば、ワタシを一度でも殺して見せな」
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