大江戸虚空記録帖
朝倉春彦
壱:虚空の掟
其の一:押しかけて候
江戸は近頃ずーっと平和なのよ。これが所謂天下泰平ってやつなのかねぇ?良いもんさぁ。街は活気に溢れて、適当にそこら中ほっつき歩けば美味ぇもんにありつけるんだもの。実に良い。やっぱ戦ってのはぁ、碌な事になんねぇもんだよなぁ。
ほら見てみろよ。そこかしこで生まれてくる命があるんだ。めでてぇんじゃねぇの。あぁ、でもそこら中で死んでる命もあるのか。あぁ南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…生と死、光と闇、こいつ等は切っても切れねぇ中だもんな。仕方があるめぇよ、光が当たる運の良い人間がいれば、闇の中に囚われて出てこれねぇ奴だっていらぁさ。
…なーんて。何が運が良いさ、馬鹿らしい。人様の一生ってなぁな、決まってんのよ。最初っから最後まで。知ると悲しいもんだね。そこで暗闇の中、一生懸命剣の素振りしてる旦那が報われっかもわかっちまうんだなぁこれが。あぁ、無駄な努力だってことがよ。悲しいもんだな、あの旦那。3日後、雨の昼過ぎによ、賊に襲われて斬り捨てられるんだ。
・
・
「でー…このまま行きゃ、随分と場末まで来たってもんだが」
ワタシはクシャクシャに折り畳んだ紙を月明かりに照らすと、紙に書かれた嫌に綺麗な文章に目を通した。書かれているのは、目的地までの簡単な経路。不思議とスッと理解できてしまう文章と、目の前に広がる不確かな光景を交互に見て、足を進める先が間違っていない事を確かめる。
「次の小路を入って真っ直ぐかぁ。随分と入り組んでやがる」
道の確認が出来たところで、紙をクシャ!っと潰して懐へ。そして小さく毒づくと、人っ子一人居ない道を駆け出した。今は夜八つ時、辺りに光は一切無い真っ暗闇。妙に低い位置に輝く満月の明かりだけを頼りに足を進めた。
江戸の街中、それこそ八丁堀のド真ん中に出て来て、大橋を通って川を渡って更にどれだけ歩いたことか。町家が並んでいる通りもとっくに過ぎてしまった。いや、町家が続いているが…中に人気をこれっぽっちも感じないと言った方が正しいか。
「!!」
狭い通りを駆けていく最中、目的地の方から何か大きな音が聞こえ、思わぬ轟音が体を震わせる。ワタシは遠くに見えた廃屋を薄目で睨みつけると、口元を僅かにニヤつかせた。
「元気が良いじゃぁないか。それなりに痛い目見てるハズなんだけどなぁ」
そう言いながら懐から提灯を取り出したワタシは、手際よく火を起こして明かりをつけ眼前にかざした。月明りに提灯の弱々しい明かりが混じり、眼前の廃屋の古めかしい輪郭がハッキリと目視出来るようになる。
目的地はここだ。ワタシは廃屋の扉を蹴破ると、履物を履いたまま中へと入っていく。埃がやかましい廃屋、ワタシは顔を顰めつつ、時折むせながらも、提灯の明かりを頼りにゆっくりと中を改めていった。
「物音がしたなぁ…こっちかぁ?あぁ~ん?」
間の抜けた声で廃屋の奥へ奥へと足を進めるワタシ。ここには、この近辺には、ワタシともう一人しか居ない事を知っている。目的の人物は、狭い廊下の角を2つ程曲がった先で見つける事が出来た。
「おぉーっとぉ。見ぃつけた。
ボンヤリとした明かりに照らされたのは、今年27になる男の姿。五尺三寸程度の背丈、整った顔…良い体躯…小汚い茶の着物を纏ったその男が放つ風格は、とても27とは思えない。そんな男は、驚いた表情を浮かべて突如現れたワタシをジッと睨みつけ…そして僅かに怪訝な風に口元を歪ませた。
「あぁ、驚かないでおくれよ?ワタシは
ワタシを見据え身構えた男に馴れ馴れしく話しを続ける。男の眼はあちらこちらへ泳いでおり、その視線の先には逃げ先になりそうな部屋が映し出されていた事だろう。ワタシはそれを察知しつつも、ニヤついて緊張感の無い、友好的な顔を男に向けたまま、男から視線を離さない。
「守月公彦。齢27。南町奉行所の定廻り同心…随分と大層な身分だこって。で、お前さん、そんな良い身分も今日限りだったな」
男の反応を見定めるかの様に男の立場を告げると、男の瞳が僅かに揺らいだ。だが、何の声も発さない。ただ、黙ってワタシを睨みつけるだけ。疑念は数多くあるだろうが、ここ迄で何も声を発さない奴は初めてだ。
「何か返事くれぇ返してくれよ。八丁堀の旦那ァ。ワタシに聞きてぇことだってあんだろ?答えないなんて無粋な真似しないよ」
そう言ってお道化て見せても、男の反応は鈍いまま。ワタシは「ハァ~」と演技染みた大袈裟な溜息を付くと、男に視線を合わせたまま、手にした提灯をゆっくりと床に置いた。
「なるほど、通りで独身なワケだ。話が盛り上がらねぇ事ほど悲しいもんはねぇもんな。鳴かねぇ奴ってなぁ、鳴かせたくなるもんだ。なぁ、八丁堀。どうしてワタシがここに来たのか、教えてやるよ」
声色に重しを載せて告げると、ワタシは背中に背負った大太刀の柄に右手を伸ばす。話の合間の静寂に、刀が擦れる音が聞こえると、ワタシと男の間に緊張が走った。
「お前さん。守月公彦はな、
大太刀を僅かに抜いては戻し…刀の擦れる音を聞かせながらそう告げる。男からすれば、何を言ってるのか分からないだろうが、これは事実だ。守月公彦は、明日迄の命…だった。
「だが、お前さんは、そこで逃げようとしてしまった。結果、囚われた部屋じゃなく、ワタシの前にいる。今、こうしてな」
ワタシは今にも飛び出しそうになっている自らの意思を抑え込む。これから始まる至福の時に想いを馳せながら、自らに課せられた使命を一つ一つこなしていく。
「だから、ワタシが来た。決められた通りに動けなかったから。ワタシが来た。今は意味が分からなくて良い。この意味を知る事が出来るのは、ワタシを斬り捨てた時…ワタシを殺せた時だ」
殺すという単語が、明らかに男の動揺を誘った。訝し気だった眼が思い切り見開かれ、瞳が揺れている。
さぁ、仕上げだ。そう思い右手に力を込めてヒュッと刀を抜くと、切先を男の首筋手前で留めた。
磨き上げられた刀身…提灯の明かりに照らされ妖しく光る刀身に、男の姿が映り込む。そこに、男の流した汗が一筋落ちてきた。
「女と舐めて掛かるなよ?ワタシは今から十数える」
ワタシの声が廃屋の廊下に響き渡る。ワタシと男を照らしている提灯の明かりが揺らいできて、そろそろ油が尽きる事を伝えてきた。
「十数えたら、お前を追いかけ、叩き斬ってやる。お前が先に死ねば、お前に明日は無い」
そう言うと、男の足先が僅かに動き…提灯の明かりはボゥっと消えた。
「明日を生きたくば、ワタシを殺して見せな!」
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