第一幕 四天王寺樒口寄②
私が小学生だったころ、店の「
最初は車夫の娘だとばかり思って、見かけると軽い気持ちで声をかけた。
「わての家な、
というのが、倭子をからかう
「そないして、おどかそういうても聞きまへんで」
そう言いながらも、怯えと好奇心の混じった目をしているものだから、こちらもついおもしろくなる。
「ほんまやて。わて、たんまにちらと見たことがあるんや。一度、
本当は連れて行くつもりもないのに袖を引こうとすると、倭子は涙を浮かべながら必死で首を横に振る。
「なんや、がしんたれやなぁ」
倭子の怯える様子がおかしく、意気地のなさを笑って会話を終える。そういうやり取りを、決まりきった
車夫の娘相手だからと思って遠慮なく接していたのが、ある日母に呼びつけられて、
「あらお医者の
と叱られて、目をむいた。
父の病気が治ってからは医者とも付き合いが薄くなったが、道修町の通りに絶えず行き交う荷車や大八車を器用にすり抜けて走りながら、人力車を追いかけまわす倭子を見ることがあった。そのときはただ、
(飽きもせぇでまぁ、ようやる)
とだけ思っていた。
想像もしない形で縁が再び
独自の風習が根強い船場では「ぼんが働いたら間違う」という考えから、長男が店を継ぐより、見込みのある者を養子に迎えて商売を任せることが多かった。だからいずれ店は姉の婿が継ぎ、私は父が亡くなれば家を出ることが生まれたときから決まっていた。
小さいころから内でも外でも「
「
という、半ば投げやりな答えが返ってきた。
私の中学校在学中に、すでに姉は
そういう理由で、私は良くいえば気楽、悪くいえば浮き草のような身分で、東京の美術学校を卒業した。
私が東京にいる間に店と「古瀬
卒業後も洋画を描き続けてはいたが、同窓生の追いかけていた未来派やダダとは私は肌が合わなかった。在学中から静物画や風景画を描いて
いつまでこういう生活ができるだろうかと気を
「壮ぼん、あのなぁ」
と真顔で切り出したところで、これはただの話ではないな、と思った。
「そろそろな、わしもあんさんの面倒を見んとな、行んでもた先代にも悪いこってすし」
案の定、見合いの話だった。指についたチョークの粉をこすり落としながら、
「いうて
それでも義兄が懸命に薦めるのを、聞くともなく聞いていると、六歳下の数えで二十一歳、道修町の出だという。おとなしいたちで悪い噂は探っても出てこないし、向こうの親もそちらのぼんちならと言ってくれているし、なによりお前の父を診た付き合いのある医者の娘でもあるし……。
「待っとくなはれ」指の汚れを落とす手が止まった。「あの、よう泣く子でっか」
「よう泣くかは知りまへんけども」義兄はわずかでも望みが出たのを頼りに、「なんや、知ってはるんでっか」
彼女のあずかり知らぬところで倭子に驚かされたのはこれで二度目だが、実際に会ってみてまた驚かされた。
両親と
うっすらと湿り気を帯びた首筋と、柔らかな紅色に染まった頰に初夏の日が光って、色が白い、と思ったときにはすでにすれ違っていた。振り返ろうとして義兄に制された。私のほうでは幼いころの、頰がかさかさして、
あとで義兄に印象を
「どうぞよろしゅう、お願いいたしますでございます」
としか言えなかった。
結婚後、倭子が東京の水に合ったかどうかは分からないが、故郷を離れたわりに
私の挿絵が載った雑誌を差し出すと、最初のひと月は針仕事の手を一瞬休ませてうなずき、三月めには
あの静かで幸せな日々が、何十年も続いてくれていたら。いやせめて、あんな終わり方さえしなければ。私は、これほど倭子を追い求めることはなかったかもしれない。
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