第一幕 四天王寺樒口寄②


 しずと私は、幼いころに知り合った仲だった。

 ひがしよこぼりがわ西にしよこぼりがわながほりがわぼりがわに東西南北を囲まれた百十町、商都・大阪の中でも財と歴史ある暖簾のれんのひしめくせんに私は生まれた。実家は北の土佐堀川近く、ひらまちで呉服屋を営んでおり、私の父で五代目を数えていた。

 私が小学生だったころ、店の「さん」であった父が軽い肺病を患い、通り一本北のしようまちから医者がよく往診に来ていた。医者を人力車で運ぶ車夫が表で「おみまぁい」と家の者を呼ぶのに合わせ、高く細い声が「おみまぁい」と舌足らずに真似をする。それが倭子だった。

 最初は車夫の娘だとばかり思って、見かけると軽い気持ちで声をかけた。

「わての家な、ゆうれんが出るんや」

 というのが、倭子をからかうじようとうだった。

「そないして、おどかそういうても聞きまへんで」

 そう言いながらも、怯えと好奇心の混じった目をしているものだから、こちらもついおもしろくなる。

「ほんまやて。わて、たんまにちらと見たことがあるんや。一度、あいあし模様の裾が廊下の角をすぅと曲がっていったんやけど、おかあはんも姉さんもそないな着物は着はらへんのや。おなは炊事場で忙しうしとったし、家のもんやないんやったら幽霊やとしか思われへんやろ。どないや。その廊下、こっそり連れて行ってもええで」

 本当は連れて行くつもりもないのに袖を引こうとすると、倭子は涙を浮かべながら必死で首を横に振る。

「なんや、がしんたれやなぁ」

 倭子の怯える様子がおかしく、意気地のなさを笑って会話を終える。そういうやり取りを、決まりきったあいさつのように行なっていた。

 車夫の娘相手だからと思って遠慮なく接していたのが、ある日母に呼びつけられて、

「あらお医者のいとさんやさかい、あんまり悪さしたらいきまへん」

 と叱られて、目をむいた。

 父の病気が治ってからは医者とも付き合いが薄くなったが、道修町の通りに絶えず行き交う荷車や大八車を器用にすり抜けて走りながら、人力車を追いかけまわす倭子を見ることがあった。そのときはただ、

(飽きもせぇでまぁ、ようやる)

 とだけ思っていた。

 想像もしない形で縁が再びつながったのは、私が東京に出たあとのことだった。

 独自の風習が根強い船場では「ぼんが働いたら間違う」という考えから、長男が店を継ぐより、見込みのある者を養子に迎えて商売を任せることが多かった。だからいずれ店は姉の婿が継ぎ、私は父が亡くなれば家を出ることが生まれたときから決まっていた。

 小さいころから内でも外でも「そうぼん」「ぼんぼん」とそれなりの扱いをされ、食事に尾頭付きが出るのは父と私だけ、という身分なのに、父が亡くなった途端「ろオに入って花でもけなはれ」と追い出されるであろうことにはどうも気が進まなかった。突っぱねられるのを承知で、かねてあこがれていた洋画をやりたいと父に申し出たところ、

がつ出るまでの費用くらいは面倒見たるさかい、まぁ好きにしぃ」

 という、半ば投げやりな答えが返ってきた。

 私の中学校在学中に、すでに姉は丁稚でつちからのたたき上げでだいとなっていた庄七しようひちという男を夫に迎えていた。商都として歴史を刻んできた船場の、それもやといにん男女合わせて三十人もの店を背負うことはおろか、手伝いをする才覚すら私にはないと父は見抜いていたのだろう。

 そういう理由で、私は良くいえば気楽、悪くいえば浮き草のような身分で、東京の美術学校を卒業した。

 私が東京にいる間に店と「古瀬右衛もん」の名は義兄の庄七が正式に継いでおり、母は流行性感冒で、身体を壊して隠居していた父は肺病の再発で世を去っていた。両親を亡くし、ますます大阪に身の置き所がなくなった私は、東京にとどまることに決めた。

 卒業後も洋画を描き続けてはいたが、同窓生の追いかけていた未来派やダダとは私は肌が合わなかった。在学中から静物画や風景画を描いててんなどに応募してはいたものの、そう簡単に入選するはずもない。洋画を描きためる傍ら、雑誌に載る小説の挿絵や店の宣伝を兼ねたマッチの図案、呉服屋、小間物屋の広告を描いてどうにか小銭を稼いでいた。

 いつまでこういう生活ができるだろうかと気をみながら絵筆を走らせていたある日のこと、義兄が下宿にまで訪ねてきた。ふだんは陽気なたちで、冗談を飛ばしては歯を見せて笑っていた義兄が、

「壮ぼん、あのなぁ」

 と真顔で切り出したところで、これはただの話ではないな、と思った。

「そろそろな、わしもあんさんの面倒を見んとな、行んでもた先代にも悪いこってすし」

 案の定、見合いの話だった。指についたチョークの粉をこすり落としながら、

「いうて義兄にいさん、わしには財産いうもんもあらしまへんし、挿絵かてもう、いつまで食いつなげるか分からしまへんで」

 それでも義兄が懸命に薦めるのを、聞くともなく聞いていると、六歳下の数えで二十一歳、道修町の出だという。おとなしいたちで悪い噂は探っても出てこないし、向こうの親もそちらのぼんちならと言ってくれているし、なによりお前の父を診た付き合いのある医者の娘でもあるし……。

「待っとくなはれ」指の汚れを落とす手が止まった。「あの、よう泣く子でっか」

「よう泣くかは知りまへんけども」義兄はわずかでも望みが出たのを頼りに、「なんや、知ってはるんでっか」

 彼女のあずかり知らぬところで倭子に驚かされたのはこれで二度目だが、実際に会ってみてまた驚かされた。

 いやおうなしに義兄に引っ張られて大阪にいったん帰り、すみよし公園の池の周りをぐるりと歩かされ、途中すれ違った、それだけが私たちの見合いといえるものだった。

 両親と仲人なこうどに付き添われて、倭子はゆっくりと、こころもちうつむきながら歩いてきた。しらあい色の振袖が遠くからでも涼しげで、黒々とした髪と鮮やかな対照をなしている。乗り気でない見合いのつもりが、一歩一歩近づくごとに鼓動が速まっていくのを感じた。

 うっすらと湿り気を帯びた首筋と、柔らかな紅色に染まった頰に初夏の日が光って、色が白い、と思ったときにはすでにすれ違っていた。振り返ろうとして義兄に制された。私のほうでは幼いころの、頰がかさかさして、はなをしょっちゅう垂らしている倭子ばかり覚えていたものだから、どうせ年頃になっても知れていると思っていたのだ。

 あとで義兄に印象をかれたとき、はやりがちな義兄をけんせいしておくつもりが、

「どうぞよろしゅう、お願いいたしますでございます」

 としか言えなかった。


 結婚後、倭子が東京の水に合ったかどうかは分からないが、故郷を離れたわりにふさぎ込むことはなかった。倭子の実家から、乳母代わりでもあったという五十歳ほどの女中がひとりついて来て、こまごまとしたことを教えながら世話を焼いていたことも、少なからず倭子を慰めたようだった。

 私の挿絵が載った雑誌を差し出すと、最初のひと月は針仕事の手を一瞬休ませてうなずき、三月めにはくちもとをほころばせるようになり、半年めには指をさしてあれこれ感想を言うようになった。

 あの静かで幸せな日々が、何十年も続いてくれていたら。いやせめて、あんな終わり方さえしなければ。私は、これほど倭子を追い求めることはなかったかもしれない。


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