をんごく

北沢 陶/KADOKAWA文芸

第一幕 四天王寺樒口寄①


第一幕 てんのうしきみのくちよせ



 黒い格子の外から、誰かが見ている。

 軒下から。戸の節穴から。西陽の届かない、ほの暗い影の中から。

 のぞかれている。

 思い過ごしだ、と強いて自分に言い聞かせた。外はひとがかろうじてすれ違えるくらいの裏通りで、てんのうの参拝客どころか近所の者すら通る気配はない。ただ、冷たい隙間風がときおり、うなじを刺していくばかりだ。

 息をつき、羽織の襟を正す。こういうところに来ているから、ありもしない視線におびえているだけだ。

「今日はえらい……」

 祭壇を背にした四十がらみの女が、ふいに私の肩を見越して言った。

 女の視線をたどろうとして、すんでのところで抑える。

「ひい、ふう、みい」と指折り数え、じりしわを寄せて笑い出す。「まあ、数えきられへん。こないに集まって来よったんは、いつぶりか分からしまへんわ」

 近所の子どものことを言っているのだと、そう思い込もうとしても無駄なことだった。ただでさえ寒い背中が、さらに冷えていく。

 大の男が内心怯えているのをさすがに見て取って、女は軽く手を振った。

「まあ、気にすることやあらしまへん。入ってくるでもなし、これが終わってあんたはんが外に出はったとこで取って食うやなし。終わったらな、まあ、すうと消えていきますよって」

 それでも気になりますやろか、と問われて、はいと認めるのもけんに関わるが、虚勢を張っても仕方がない。

「外のもんは……なんでそないに集まっとるんでっか」

 目を細めたまま、巫女みこは格子の外をじっと見つめていた。

「うらやましいんやろうなぁ。呼んでもらえるもんがおって。わいもしやべりたい、わても喋りたい言うて、ざわざわうぞうぞ騒いでねたんでせがんでまあ……」

 巫女が脇に置いていた、しきみの葉を一枚ちぎった。

「やかましいこと」

 てのひらに載せた樒の葉に、巫女が息を吹きかける。隙間風に逆らって、葉はゆらゆらと私の頰をかすめ、格子に向けて飛んでいった。途端に、背中にまとわりつく視線、身体をこわばらせる緊張が緩んだ。心なしか寒さまで和らいでいる。

 怯えが収まるとともに、これが巫女の使う手なのではないか、来た人間をまずこうして脅してみせるのではないかと勘ぐったが、あの樒で空気が軽くなったのは確かだ。

 電球もつけない板間の部屋、巫女の背後にある祭壇は、なんとも奇妙なものだった。樒が一対、両端に飾られ、黒漆の塗られた小さなほこらじみたものが置いてあるかと思えば、木彫りの古びた仏像も並んでおり、神道とも仏教とも由来が分からない。

「知ってはると思いますけど、一年やよってな。ふるさん」

 巫女の顔が、格子の陰で暗がりに沈み込んでいた。

「一年経ってしもたらもう、呼べませんよってな。……いつごろ、行きはったんだす」

 巫女が追い払った視線とは別の重苦しさがのどを絞めた。行きはった。くまに参った。米買いにんだ。しんせきに、友人に、近所の者に言われた表現はそれぞれだったが、それが意味するところはひとつだ。

「妻が行んだのは、去年の十二月です」

 年明けの準備に近所がせわしく働いていたころ。北東からの風が冷たく、長火鉢を寄せてくれと頼んでいた次の日の夜明け前だった。

 ちょうどひと月。巫女がつぶやいた。

「何を尋ねようというんでもあらへんのです。ただ、心残りがあんまり大きいですよって」

「行んでもうたのが、よう受け入れられへん。そういうことだっか」

 言い当てられて顔を上げると、巫女はもう祭壇に向かって、すそを整えていた。同情がかすかに混じった声が耳に残る。

 あかのついた小箱を無造作に引き寄せると、巫女はかろうじて私が見える程度に振り向いた。

「わてがなにか唱えましたらな、意味はお分かりやないと思いますけどな、こう、手を出しますよって、軽く握っとくなはれ。そしたらな、喋りますさかい。奥さんがさかい」

 黒いそでぐちから覗く手を見ながら、私はうなずいた。薄暗がりの中でぼんやりと白く浮かぶ巫女の手は、どこか妻の手を思い出させた。

 ふいに、妻と出会ったときから、彼女が「行んでもうた」あの日のことまでが、鮮やかに──残酷なほど鮮やかに、脳裏によみがえった。

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