猫の回収便

「うわぁ〜ん、うわ〜ん、ひっく、ひっく、ひっく」

 キリコさんは、ずっと泣き続けています。

 楽しみにしていた、遊園地に行けなくなったのです。

「いい子にしてたら、連れてってあげるよ」

 お母さんにそう言われました。だから、ずっといい子にしていました。

 学校の給食も残さず食べています。計算ドリルも、ちゃんと毎日やっています。お風呂にも、一人で入れるようになりました。

 鼻をかむときだって、もう幼稚園の頃みたいに、お母さんのエプロンでかまずに、ちゃんとティッシュでかんでいたのです。

 待ちに待った今日はいいお天気。それなのに、外は怖い病気がはやっているからと、急に行ってはいけないことになったのでした。

 クリーム色のカーペットには、涙の染みがびっしょりとついています。

 キリコさんは、部屋の真ん中にペタンと座り込んで、朝からずっと泣いていました。

「うひぃーぅ、ひゅうっふ、ひっく」

 それでも、散々泣いて、泣き疲れて。

 ようやく収まってきたでしょうか?

「うわあ〜ん、わあああああ」

 だめですね。

 悔しくて悔しくてたまりません。

 いったい、キリコさんが何をしたというのでしょうか。

 あんなに楽しみにしていた気持ちは、風船みたいに膨れ上がって、キリコさんの小さな胸の内をパンパンにしてしまっていました。

 そのときです。突然、声がしました。

「にゃ、お待たせしましたにゃ?」

 部屋の中には、キリコさんの他には誰もいません。

「うひゅ、ひっく、だ、誰?」

「窓の外ですにゃ」

 窓の外といっても、ここはマンションの5階。ただ青い空が広がっているだけです。

「開けてほしいですにゃ」

 また声がしました。

 でも、小さなキリコさんでは、窓のハンドルまで手が届きません。

「わたしじゃ、開けられないよ」

「難儀ですにゃ。ちょっと待っててほしいですにゃ」

 すると、にゅーっと窓に二つの目が浮かび上がりました。

 太ったアーモンド型の真ん中に、黒い縦筋。猫の目です。

 続いて逆三角形の猫の鼻が現れ、猫のヒゲが現れました。

「にゃ、にゃ、にゃ。もうちょっとですにゃ」

 猫はぎゅーっと顔をガラスに押しつけました。

 すると、ポンっと、窓ガラスをすり抜けて、部屋に入ってきたのです。

「わっ、びっくり」

 キリコさんは驚きました。

 猫が窓ガラスをすり抜けて入ってきたこともそうですが、その猫は、見たこともないような毛並みをしていたからです。

 頭から尻尾まで、まるで今日の空のような、すみきった青色でした。

「はじめましてにゃ。吾輩は、空色の猫ですにゃ」

「空色の猫?」

「いつもお空にいる、空色の猫ですにゃ」

「お空に猫がいるの?」

「その通りにゃ」

「そんなの、見たことも聞いたこともないわよ」

 キリコさんは、この短い人生のあいだ、何度も空を見上げてきました。

 お空には、お日さまと雲と、ときどきカラスが飛んでいます。

「お空と同じ色をしているから、いつもは見えないにゃ。この部屋のカーペットが空色でなくてよかったにゃ。それだとキリコさんは吾輩が見えないにゃ」

「何しに来たの?」

「回収便ですにゃ」

「カイシュウビン?」

「宅急便の反対ですにゃ。荷物をお届けするのが宅急便。荷物を持っていくのが回収便ですにゃ。持っていくものがあるから、吾輩がやってきたにゃ。こちらで荷物を回収して、お空の上に持っていくにゃ」

「何を持っていくの?」

 それには答えず、猫はゴロゴロ喉を鳴らしながら、キリコさんに甘えてきました。

 ピンクの舌で、キリコさんのほっぺをペロペロ舐めます。

「うはっ、くすぐったい」

 猫はキリコさんの膝に乗ると、丸くなりました。

 キリコさんは猫の背中を撫でてやりました。

「あったかいのね。それに、柔らかい」

 プーンと、猫のにおいがします。

 なんだか懐かしいような、ほっとするような。

 ニュッと体を伸ばして、猫はキリコさんの肩に顎を乗せてきました。

 そっと抱きしめてやると、猫はキリコさんに体を預けました。

 ふうーっと柔らかくなって、猫の体重がみんなかかります。

 キリコさんは猫の頭から背中から、何度もさすってやりました。

 そのうちに、悔しさとやり切れなさでパンパンだった胸の内が、すーっと軽くなって、まるで澄み切った青空のようになりました。

 やがて猫は思い出したように身を起こすと、キリコさんから離れました。

 キリコさんの頭の上には、大きな風船のような、丸い玉がプカプカ浮かんでいました。

 色は、虹のいろんな色が混ざったようです。

 ときどき、ほとんど赤に見えることもあれば、そうかと思うと、次には青くなったりしています。

 決まった色はないようで、いつも色が混ざって、クルクル変わります。

「にゃ?こりゃまた大きなものがありましたにゃ」

「これ、な〜に?」

「キリコさんの満たされなかった思いですにゃ。キリコさんは遊園地に行くのを楽しみにしていたにゃけど、その思いが満たされなかったにゃ。だからにゃ」

「なんでこんなに色が変わるの」

「それはキリコさんがいろいろなことを楽しみにしていたからにゃ。遊園地に行ったら、あれをしよう、これをしよう、あれを食べたい、あんなものがほしい。いろんな楽しみを思って胸をいっぱいにしていたからにゃ。もう、いっぱいありすぎて、胸が張り裂けそうだったにゃ。でも、満たされなかったにゃ。そのままにしておくと、本当に張り裂けてしまうところだったにゃ」

 まあ、怖い、とキリコさんは思いました。

「ありがとう。おかげでスッキリよ。でも、きれいだわ。そんなに悪いものには見えないわ」

「そうですにゃ。いいものですにゃ。とっても楽しいものですにゃ。でも、満たされないときは苦しいにゃ。わくわくする気持ちが大きければ大きいほど、苦しいにゃ。だから、吾輩がその苦しみを取り出して、お空に持っていってあげるにゃ。お空に持っていけば、苦しみは消えるにゃ。溶けて消えて、なくなってしまうにゃ」

「どうやってお空に持っていくの?」

「こうするにゃ」

 猫は、虹色の玉の端に口をつけると、すううーっと、吸い込んでしまいました。

「わ、びっくり」

 猫のおなかはパンパンです。

「ゲップ、こいつは大物だったにゃ」

 おなかをさすりながら、猫はキリコさんに丁寧にお辞儀をしました。

「それでは、さようならですにゃ。長居は無用ですにゃ」

 猫は窓に向かって、ユラユラと飛んでいきました。

 そのまま入ってきたときと同じように、窓をすり抜けていくかと思いましたが。

 ガツッ!

 通り抜けられずに戻ってきてしまいました。

「どうしたの?」

「おなかいっぱいですにゃ。すり抜けができないにゃ。窓を開けてほしいにゃ」

「手が届かないわ。ちょっと休んでいったら?」

 猫は、すごく焦ったみたいになりました。

「それは困るにゃ。グズグズしてると夕方になるにゃ。お空が赤くなってしまったら、空色の猫は帰れないにゃ」

 猫はどうしようかと、せわしなく行ったり来たりしました。

 キリコさんは、黙って猫のそばによると、そっと自分の胸に抱き寄せました。

 そしてそのままじっとしていると、猫は体を全部キリコさんに預けてきました。

 プーンと猫のにおいがします。

 なんだか懐かしいような、ほっとするような。

 ほんわりと暖かくなって、なにかが溶けていくような気がしました。

 そのままずっと。

 そのままじっと。

 どれくらいの時間が経ったでしょう。

 しばらくして、猫がキリコさんから離れたとき、空はまだ青く澄んでいました。

「うにゃ?どこにいったにゃ?」

 猫のおなかは、スッキリしていました。

「もしかして元に戻ってしまったにゃ?だめにゃ。あれはお空に持っていかなきゃだめにゃ」

「大丈夫だよ。もう泣かないよ」

 猫はプカプカ浮かんで、来たときと同じように、窓をすり抜けて帰っていきました。

 やがて空の青さに溶けるように消えて、見えなくなってしまうまで、キリコさんはずっと見上げていました。

 猫が消えてしまってからも、まるで今日の胸の内のような澄み切った青空を、キリコさんはいつまでも眺めていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る