第20話 凪ネズミの膨張(壱)


 ラーミウが寝覚めたのは、その日の真昼の時分であった。天頂で燦燦と瞬く白星の光に照らされながら、ラーミウは何もなかったように大きく伸びをして欠伸をして云った。

 

「よく寝たあ」

 

 間の抜けたラーミウの聲に、男たちはみな、脱力した。とても出血多量で気を失っていた者の第一声と考えられぬ呑気な語である。ラーミウは目を擦りながら周囲を見渡し、室の隅にシハーブを認めると、出し抜けにラーミウは勢いを持ってシハーブへ這い寄った。

「無事だったんですね、シハーブ!」

 貌を間近にして迫るラーミウに、シハーブは眉を顰めた。虚ろ狼に村が強襲を受けている間、シハーブはまったく姿を見せなかった故、ラーミウの中で気掛かりだったのなもしれない。虚ろ狼にとって、建物の壁はないに等しい。知らぬ間にシハーブが虚ろ狼に飲み込まれたのでは、と考えても不思議ではない。本当に無事かとラーミウはシハーブの頬を抓ったり額に手を当てて体温を読んだりした。あまりにしつこく触れるラーミウにシハーブは貌を歪め、ラーミウを引き剥がして云った。

「近いし、しつこい。あんたと違ってピンピンしてんよ。てゆーか、あんた以外、大きな怪我した奴いねえよ」

「よかったあ、心配してたんですよ」

 

、ねえ」

 

 ラーミウは安堵を遮断さえぎるように鳴らされたのは、ヤトの嘲り。ヤトはシハーブと反対の壁際で腕を組んで立っていた。ラーミウは一寸口を噤んだが、直ぐ様何もなかったかのようにぱっと貌を綻ばせて明るい聲を鳴らした。

「ヤトも有り難う御座います。うっすらとしか覚えていないんですが……僕を此処まで運んでくれたあなたでしょう?」

「……気付いていたんですか」

 ラーミウの言葉に、ヤトは貌を引き攣らせた。ナジュムは普段通りの、眉ひとつ動かさぬ表情をしてたじろぐヤトへ視線を向けた。ラーミウは「とはいっても」と語を次ぐと、頬を掻きながら苦笑交じりで返した。

「流石に喋る元気なかったから、何となく聲が聞こえていただけなんですけど」

「流石野生のゴリラは違うな」

 シハーブがぼそりと呟くと、すかさずラーミウは拳を彼の肚へ打ち込んだ。出し抜けな攻撃にシハーブは躱せず、「ぐえ」と苦虫を噛み潰したような聲を落として蹲る。シハーブは肚を押さえながら「この凶暴ゴリラ」等と悪態づくと、ラーミウはにっこりと圧力を有する笑みをシハーブへ向けて云った。

「何か云いました?」

「何でもない」

 シハーブはそそくさとラーミウから距離を取る。狼を拳で貫く男だ。本気の鉄拳など下ろされれば頭蓋のひとつやふたつ、砕かれるであろう。シハーブとラーミウが睨み合っていると、ヤトの傍らにいたナジュムが杖を付いてラーミウのそばへ寄った。

「暫く休息んでいた方がよい」

 その三白眼の深い砂色に、ラーミウは目を瞬かせた。じっと見詰めるナジュムの眼差しの向こうで、ラーミウは静かに頭を左右に振る。

 

いいえ、早く都へ戻らなければ」

 

 ラーミウはやおら立ち上がった。一寸目眩を覚えて立ち眩むも、己の力で踏みとどまる。ラーミウの眼には爛々とした焔が蘇ってある。己の細かく編んで下ろした髪を払うと、ラーミウはヤトを見据えて云った。

「あの狼は、白鏡様が不調だから、出てきたのでしょう」

「まあ、そうですね」

「なら尚更、早く白鏡様にお知らせしないと」

 ラーミウの凛とした聲に、ヤトは眼を伏せた。ジャウハラの色に染めたその細い眼をより細めて眉間に皺を寄せて、腕を組むかたわら項で束ねた長い髪を手で弄んでいる。ラーミウは固く唇を結ぶと、その爛々とした輝きを一層濃くした。窓穴の外へ視線を向けると、日常を取り戻した村の男女を見ると、ラーミウは低く聲を鳴らした。

「それよりも、村の状況は?」

「数人、飲み込まれた者があるが、虚ろ狼が出現したにしては犠牲者は少ない」

 と応えたのはナジュム。ラーミウと同じく、窓穴の外に覗かれる景色を臨んでいる。ラーミウは胸元で手を強く握り、貌を曇らせる。砂色の眼に悲哀を浮かべて大きく揺らすと、絞り出すように聲を落とす。

「矢張り、それでも犠牲は出るんですね……」

「君が陣を描いた後の犠牲者は殆ど皆無と言って良い。そう気に病むことはない」

「それでも、きっと悲しまれます」

 きっぱりと云い放つラーミウに、ヤトは眉間の皺を一層増やす。明からさまな不機嫌面だ。不意に小さく舌打ちをすると、やおらラーミウへ詰め寄った。

「随分と忠義に厚いのですね」

 

「僕が此処にあるのはすべて白鏡様のお陰ですから」

 

 ヤトの表情は険しさを増す。その細い眼の奥で一寸、砂色が真闇の色が取り戻し、ラーミウを睨め付ける。ラーミウはヤトの食い入るような態度の理由が思い当たらず、眉を顰め小首を傾いだ。ナジュムは嘆息を溢して傍へ寄り、ヤトの肩を掴んで留めた。

「おい、ヤト。落ち着け。何をそんなに剥きになっているんだ」

「別に」

 ついとラーミウから貌を背けると、ヤトはようやくラーミウから身を離した。ナジュムがシハーブへ視線を向けると、シハーブは肩を竦めて見せる。ナジュムはまた嘆息すると、ラーミウへ視線を映して低い聲を鳴らした。

「早く出立するのはいいが、可也の血を失った身體で駱駝に乗れるか?」

「しっかりご飯食べれば大丈夫です」

 拳を握りながら、意気揚々と返すラーミウの貌色は既に元通りになっており、彼の頑強タフさが伺い知れた。ナジュムはラーミウの頭に手を乗せ、やおら優しい手つきで撫でる。ラーミウが突然のことに頭を押さえて呆気に取られていると、ナジュムは相変わらずの淡々とした聲で云った。

「ならいいが、辛くなったら直ぐに云え」

えゝ、無論です」

 その一刻後、ラーミウたちはマウジ村を立ち、その数日後には都の地を踏んだ。出立したのは丁度昊の白星が天頂と西の地平の間にあったときである。マウジ村の者たちもマウジ村へ逃げ込んでいたカマ村の者たちも、また虚ろ狼の群れが訪れるのではなかろうかと不安になりながらもラーミウたちを見送る。

 彼等の脳裏は狼のことばかりであった故、その足許を過ぎた小さな生き物を心付かせた者はなかった。その小さく黒々とした生き物――凪ネズミは路端で大きな黒のひとつ目をぎょろぎょろせせると、そのまま路地裏へと走り、姿を消した。白星の光と熱で温まった風がひと吹き、凪ネズミの居た場所をさらった。

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