第18話 虚ろ狼の出現(肆)


 暖かな黎明の光を浴びて、ナジュムは少年へ向き直った。周囲にはすっかり虚ろ狼の姿はない。ナジュムはようやく己の手指の傷口から染み入るような痛みを感じたが、堪えた。されどその三白の眼に浮かべられた動揺の様相だけは隠せなかった。

 

「先程も問うたが……何故、どうやって此処にいる」

 

「偶々だ。と思ってくれればいい」

 少年は短剣を腰元へ戻すと、大きく背伸びをした。とても先程まで剣を振り回していたとは思えぬ呑気さである。否、彼は常時そうだったというべきか。ナジュムは嘆息を零すと、湾刀を振るって付着した己の血を払い、腰元の鞘へ納めた。

 陣の方へ視線を向ければ、ラーミウはヤトの腕の中でぐったりと気を失っていた。流石に血を流しすぎたのである。村の者たち、而もカマとマウジの両村の男女をみな招き入れようと大きくそして太い線でもって陣を描いたのだ。手頸の傷も深く、なかなか傷も塞がらなかったであろうから、一層多く血が流されたことであろう。

 

 ナジュムはダイフのそばへ寄ると、静かに聲を鳴らした。

 

「申し訳ないが、ラーミウを頼めるか」

「は、はい。無論で御座いますよ」

 ダイフは何度も強く縦に頭を振ると、ヤトとラーミウの元へ駆け寄った。ヤトの髪と眼は何時の間にかジャウハラと同じものとなっている。ダイフはヤトを見上げて、その見知らぬ貌へ困惑顔をした。ダイフたちが寝静まった頃にヤトはマウジ村を訪れた故、仕方のないことだ。ダイフは怖々とヤトへ尋ねた。

「ええと……ナジュム殿の知人の方でしょうか」

「そう思ってくださって問題ありません」

 きっぱりと云い切ると、ヤトはラーミウを軽々と抱え上げ、冷たさのある聲で続ける。

「この男を運ぶのでしょう。手伝います」

「へ、へえ。有り難い」

 ダイフは焦りで額に伝わる汗を手で拭いながらも、急ぎヤトを己の家へと誘った。ヤトの腕の中で、ラーミウは矢張り意識を取り戻さず、力なく身體をヤトの腕へ預けている。それを遠目に見ていた少年はほう、と小さく聲を溢す。

「ヤトが珍しい」

「君が貌を出せるよりは珍しいことではなかろう」

 ナジュムが低い聲で返すと、少年は口許にきょとんとした様相を見せた。ナジュムの眉間には深い皺が刻まれている。少年は困ったように頬を掻くと、乾いた笑いを溢す。

「本当に偶々たまたまなんだ。そう責めてくれるな」

「だからといって、時機タイミングが悪い」

「そんなことないだろう。私が駆けつけなかったら、如何する算段つもりだったんだ?」

「……それは、耳が痛い」

 ナジュムが語を詰まらせていると、少年はやおら一歩前へ出た。気が付けば昊の白星はすっかり地平より貌を出している。穏やかな風で揺られる椰子の葉がきらきらと光の粒を弾いて、朝を謳歌している。少年はひとつの椰子の傍へ寄ると、それを見上げて不意に語を溢した。

「そういえば、ナジュムは四十五になるのだったか?」

「そうだが……」

 突然の話題の転換に、ナジュムは貌を引き攣らせた。少年はくるりと身體ごとナジュムへ向き直るとじっと砂除け布の隙間からナジュムを見る。ナジュムがその視線にたじろいでいると、少年はぼんやりとした口調で呟いた。

「ということは、君みたいな貌になっているのか。老けたのだろうな」

「それは私が老けていると云いたいのか」

「そんな算段つもりではなかったが……そうなってしまうな」

 その語には皮肉の様相は付されていない。少年は済まなそうに乾いた笑いを溢し、砂除けの街頭の上から頭を掻いている。ナジュムは真剣なまなざしを向けて徐々とした足取りで少年の眼前まで寄った。少年は笑うのを止めると、柔和さをその口許から取り去ってナジュムを見詰め返す。

 

「御前、?」

 

 ナジュムは応えない。少年は嘆息を落とすと背伸びをし、ナジュムの両頬へ手を添えた。手の中で、ナジュムは三白の眼を瞬かせた。少年は柔らかな聲を鳴らし、語り掛けるように云った。

「きっとうまく行く。今の私ではどうもしてあげられないが……だから、あんまり気負うな。のだから」

「善処する」

 ナジュムは貌を曇らせ、眼を伏せた。少年はふっと微笑むと、ナジュムから身を離した。数歩後退がると、白星の逆光で、彼の口元すら翳り見えなくなる。少年は定かでない表情を向けて、静かに語を落とす。

 

「必ず、私を――宜しく頼むぞ」

 

 砂避け布の下で一瞬明瞭はっきりと覗かれた、に、ナジュムは苦笑して云った。

 

「まったく、敵わぬな……」







 



 ダイフの家の一室でヤトは坐し、すうすうと寝息を立てるラーミウを見ていた。ラーミウの手頸には包帯が巻かれているが、他にも噛み千切ったのであろう手の平の傷が痛々しい。不意に、ヤトの後方より若者の聲が鳴らされた。

 

「何、珍しく神妙な貌で見てんだよ」

 

 其処に立っていたのは顔貌の整った若者。形の良い眼を据わらせてヤトを見下ろしている。シハーブである。ヤトは嘆息を溢すと、様相の聲でもって返す。

「何ですか、今更回復したんですね」

「だいぶ前にね。面倒だから手を出さなかっただけだよ」

 シハーブは冷ややかな聲で応じるとヤトの傍らに胡座を掻いて坐した。足を支えに頬杖を付くと、にやりと妖しく嗤って云う。

「で、何をそんなに厭気差した貌してんのさ?」

「……一寸ちょっとした、ですよ。この猿を見ていると、を思い出して気分が悪い」

 ヤトは冷ややかな視線を眠っているラーミウへ下ろした。

「ふうん?よくわかんないけど、御愁傷様ごしゅーしょーさま。あんたって夜の民ザラームのくせにジャウハラみたいな処あるんだな。と、染まるわけ?」

 シハーブが小馬鹿にするように鼻で嗤うと、ヤトは怒気を爛々と燃やしてシハーブを睨め付けた。否、殺気というべきか。手元に獲物があれば、今にも斬りつけそうな勢いである。だがシハーブは怯む素振りを見せること無く、けらけらと嗤った。

「おー怖い怖い」

 ヤトは小さく舌打ちすると、ついと貌を背けてシハーブから視線を逸らした。シハーブはにやにやとヤトを見詰め、ふと窓穴の外を見た。昊で徐々すこしずつ昇る白星を視界に捉え、シハーブは聲を低くして語を次ぐ。

 

「それより其処そっちに来てただろう?」

 

「――知っていたのですね」

 ヤトの聲も顰められ、その眼は僅かにシハーブへ戻される。されどその若者の横貌は逆光で墨染に塗り込められていた。

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