第4話 弔いのペールブルー

 次の日、1限開始の時間から引き続き講評会が行われていた。開始すぐの時間帯は人がまばらな状態であったが、時間が経過するにつれてだんだんと増えていく。

「やべー遅刻すっかと思った。」

 2度目の休憩が終わる頃に蜂川はちかわも滑り込み、すぐに順番が来て作品の紹介を始めた。大胆に箔を使った派手な仏画風の絵をテンション高く説明する。

「箔の貼り方が雑だね!もっと計画的に描かないと!」

 と教授の一人に指摘され、その後天谷あまや先生から箔の貼り方のアドバイスを受けていた。その後も講評会は続く。昼休憩をはさみ、結局終わったのは16時半を回った頃だった。

「制作と講評会と、お疲れさまでした。来週からは座学の予定なのでいつもの教室にお願いします。今週の金曜日は休講になります。」

 最後に天谷先生が生徒にそう伝えると他の教授と共に展示室を出ていった。講評会が終わり緊張感も和らいだ展示室では残った生徒が自由に討論を始めたり反省会を始めたり、制作お疲れ様会という名の打ち上げ参加メンバーの募集を始めたりしていた。

樫尾かしお―、熊野くまの三津みつとあと多分何人かで飯行くけどお前も連れて来いって。行こーぜ。」

「17時半から天谷先生のところに行く予定がある。その後から合流で良ければ。」

 時計を見ると、予定の時間まではあと30分ほどだった。

「そういやそうじゃん、おっけー伝えとくわ。今から店探すみたいだし、決まったら場所送る。そっちも終わったら連絡ちょうだい。」

「わかった。」

 蜂川たちが展示室から出ていくのを見送って、時間を潰すために展示室内を歩く。20分ほど作品を眺めて回ったが、昨日からの講評会の疲れもあり、少し早いが天谷先生の部屋に向かうことにした。

 エレベーターで7階まで上り、一番端の先生の部屋に辿り着く。扉の真ん中のすりガラスから明かりが漏れている。時間には少し早いため躊躇したが、ドアをノックした。「はい」と中から返事があり、部屋の中から足音がドアに近づいてきて扉が開いた。

「ああ、樫尾くん。」

「少し早いですが、大丈夫ですか。」

 部屋の明るさを背にして、表情が見にくい。

「大丈夫ですよ。お疲れのところ来ていただいてすみません、どうぞ。」

 ドアを開けて室内へ樫尾を招くと「そちらの椅子にかけて、少しだけ待っていただいていいですか。」と言いながら机に広がる資料や書類を片付ける。樫尾は言われたとおりに椅子に座って先生の様子を眺めていた。片付けが終わったのか、数枚が束になり左上をホチキスで止められた詳細の冊子を持って樫尾の前に座った。「こちらです。」と手渡され、受け取ると一枚目から目を通す。

「急遽の変更点がいくつかありまして。場所は変わらないのですが大きい展示室を借りられることになったらしく、それに伴い搬入時期が2週間ほど後ろ倒しになります。」

 樫尾がちょうど目を通した場所に搬入日が書いてあった。7月の第4土日を使って搬入をするとのことだ。

「そして、規模が少し大きくなったので当初は3週間ほどの展覧会の予定でしたが、8月中はずっと開催されることになりました。ちょうど夏休みの期間と重なるからですかね。」

 用紙をめくった2、3枚目には搬入日のスケジュールや展示する際の注意書きが細かく書かれていた。

「わかりました。」

「都合等は大丈夫でしたか?まだキャンセルも可能なので予定の調整が難しいようであれば対応できます。」

「大丈夫です。予定はないです。」

 夏休み前ということはおそらく受講している講義の期末の課題が出るはずだが、展覧会の絵はそれよりも早く描き終わる予定のため搬入日だけを気にすれば良かった。

「わかりました。では引き続きよろしくお願いします。」

 一通り資料に目を通した樫尾は鞄の中からファイルを取り出して用紙をしまった。ふと、机の端に処方薬の袋があるのが目に入った。天谷先生の顔を見る、いままでの講義の時の顔と、先ほどまでの評価の時の顔と、特に変わらない。昨日からの講評会で主担当である先生は進行具合を調整したり、学生の作品を適切に評価したりと常に多方面に気を配っていたのだろうに、疲れたという様子は伝わってこなかった。じっと見つめる樫尾の視線に気付いた先生が顔を上げた。

「うん?」

 あまりにしっかりと視線が絡んだことに驚いたのか、目を開いて樫尾を見つめ返す。

「…どこか、体調悪いんですか。」

「え?」

 樫尾が一瞬目線を処方薬のほうに動かすと、先生もそちらを見た。

「あ…、すみません片付け忘れていました。」

 先生が手を伸ばして処方薬の袋を隠すように机の上から滑り下ろした。

「…頭痛薬です。もともと頭痛持ちなので、特に今のような梅雨の時期はちょっと。」

 困ったような笑顔で有耶無耶にしたかったのだろうか、一度口を噤んだが、樫尾と再び目が合うと袋の口を畳みながら答えた。たまに痛むときに薬を飲めば問題ない程度の軽いものだと続けた。

「…そういえば樫尾くん、」

 薬の袋を片付けて話題を切り替えるように樫尾に向き直る。

「君の制作の絵、中央より少し左側の池の中にはもともと何が描いてあったんですか?もしくは、何かを描く予定だったんですか?」

 今度は樫尾が目を開く番だった。おそらく先生は世間話の一環として何の気なしに話しかけてきたのだろう。いつもの柔らかい笑みが樫尾に向かう。いつもそうだった。先生はいつも同じ笑顔をしているせいで何を考えているのかがわからない。

 日本画に使用される岩絵具いわえのぐは岩や貝を細かく砕いて粒子にしたものであり、にかわを定着材として乗せていく。水彩や油絵のように絵の具を混ぜながら塗るというよりは重ねた時の色合いを想像しながら粒子の大きさと色とを変えて重ねていく。そのため既に塗った色を水で溶かし落とすことで修正が可能である。

「…修正が雑でしたか。」

 先生が指摘する場所は確かに一度乗せた色を落とし、別の色を重ねた場所だった。しかし樫尾の持つ技術力で他人には気付かれない程度の仕上がりに戻せていた。だからこそ、この二日間で評価のために何十もの作品を見た先生が数多の作品の一つである樫尾の絵の一部分に気付いていることに驚いた。そして、先生が今思い出せるほどに粗があったのかと思い聞き返す。

「…いいえ?色を乗せ換えたにしてはとても綺麗に仕上がっていますし、本当によく見なければわからないですよ。」

 何かを思い出すように、先生が左上を見ながらそういう。

「ただ、そこだけ色の雰囲気が違うというか、下に乗せている色が違いますよね。緑…?青にも近いような。」

 樫尾はすぐに言葉が出せずにいた。絵の色は直感で選ぶことが多い、頭に浮かんでいる全体像に辿り着くために近い色を置いていく。今回の絵では全体的に暗い色を使うこともあり、また昼間の明るさを表現するためにも少しずつ黄色や橙、あるいは箔を重ねていた。そして先生が言う箇所は、その場所だけ確かにごくわずかに群緑の粗い粒を乗せていた。先生が樫尾の絵を見たのは評価の時の15分から20分の間だけのはずである。その短時間でどのようにしてそれほどに細部まで分析したのだろうか。

「…あ、答えたくない内容でしたら「鯉の死骸です。」

「先生が言うその場所には元々、死んだ鯉が浮いている様子を描いていました。」

 誤魔化してもよかった。気まぐれで色を変えたのだと適当な返事をしてもよかった。どうせ本当のことは樫尾の中にしかない。

 ただ、先生の反応に興味があった。だからありのままに話すことにした。

「鯉が死んでいるのを見つけたのは、すでに下描きを終えていて水の観察をするために再度池に行った時です。あの絵は紫陽花の鏡面反射と水の表現することが目的だったので、そもそも死骸を描くことが想定外でした。」

「一度、描いたんですね。」

「結果的に消しましたが。元々の目的とずれるのと、鯉に目線が持っていかれてバランスが悪かったからです。」

 雨が降る日、池に足を運んだ。大きな金色の鯉が腹を上にして浮かんでいた。前回池に来た時にはきっと池の中を悠々と泳いでいたはずだ。紫陽花を伝って塊になった雨が金色を動かす。家に帰ってからも脳にこびりついたその色が離れず、一度描いてみることにした。しかし結局「描かなくて良いもの」ということが分かっただけだった。

「…絵を描く時、取捨選択を繰り返して行くでしょう。そうして、選ばれたものが繋ぎ合わさった結果が一枚の作品になる。」

 少しの沈黙の後、先生が静かな声で言う。樫尾は机の上に乗せた自分の手を見ていたが、ゆっくりと顔を上げた。先生が続ける。

「でも、その一枚に辿り着くために選ばなかった一方も作品の一部です。何かを採用し、何かを捨てた本人だけが知る大切な一部分だと思います。」

 鯉の金を描いた後、描いたそれを消すのと同時に、青銀の箔を使う予定だった箇所を変更して金の箔を使うことに決めた。そして、あの場所に微かに残る緑色と、散らばる金と、捨てることを選んだ樫尾が無意識に組み込んだ鯉への弔いなのかもしれない。

「…講義ではないし、あくまでわたしの考えなので、忘れていいですよ。」

 薄い色の瞳が柔らかく細められた。うまく返す言葉が見つからず、ただその瞳の色を記憶するだけだった。肯定に捉えられたか、否定に捉えられたか。どちらでもよかった。

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桜色心中 @yoshi_55

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