第3話 紺青は揺れる

 雨、雨、雨。

 6月に入ると週間天気予報は傘のマークに支配されていた。水分を含んだ空気が肌にまとわりつくようですっきりしない。課題の締め切りは過ぎ、今日は午前から出来上がった作品を教室に展示し、午後から明日にかけて学科の教授陣からの評価を聞く予定となっている。早々に課題を提出し終えた樫尾かしおは、締め切りがせまり間に合うか間に合わないかの瀬戸際の生徒のひぃだのふぅだの鳴きながら昼夜問わず課題に追われている様子を見てきたが、それも終わりだ。

「学籍番号の若い順から設置していってください。」

 今回の課題で作成した絵は校内の展示室に数週間飾られることになっている。午前中から生徒も教授も総出で絵の設置が行われていた。学籍番号は基本苗字の読み順になっているため、カ行のはじめの樫尾は午前中の早いうちに設置が終了した。その後は後から来た蜂川はちかわの設置を手伝って(手伝わされて)から、午後の講評会が始まるまでは大学敷地内の食堂で時間を潰すことにした。

「樫尾、作品説明考えた?」

 少し早めの昼食に、今日のランチメニューのカルボナーラを巻きながら蜂川が聞いてきた。

「ある程度はまとめてきた。」

 樫尾も鶏天定食を食べながら答える。食べたいものが決まらないときは入り口すぐのメニュー表右上のこの定食を選ぶのが定番化していた。

「ほーん、俺フィーリングで描きすぎてどうしよって感じ。」

「毎回そう言っているが。」

「するどい!ま、今回もそれっぽいことをいい感じに説明するんで大丈夫でーす。」

 そう言いながらフォークをくるくると回し、パスタを綺麗に巻き付けて口へ運ぶ。蜂川は器用な人間だった。

「にしてもずっと雨だなー。」

 蜂川の呟きに樫尾も目線を上げる。一年ほど前に新しく建てられた食堂は外でも飲食ができるテラスがついており、テラスに向かった面はすべてガラス張りになっていた。今日は雨のため外で食べる者はいない。時折風に吹かれた雨がガラスに当たり、大きな粒になりながら下へと滑り落ちていく。昼間にも関わらず鼠色をした冷たい外の暗さと、黄色く灯るモダンなデザインの照明がいくつも吊り下がった室内の明るさで、ガラスを隔てて世界を二つにしているようだった。

「あ、天谷あまや先生発見。」

 互いに昼食を食べ終わろうとしていたころ、ずっと樫尾に向けて話していた蜂川の声が、違う方向へ向かった。声の先を見ると学食の入り口に教授数名が立っているのが見えた。本学の教授と首からネームストラップをぶら下げた外部の教授か美術関係者とみられる人達だ。その中に天谷先生も居て、樫尾達と同じく早めの昼食をとろうとしている様子だった。

「確かこの講義っつか、課題の最終評価天谷先生だったよな。今日も麗しいですなー。」

「そうだな。」

「え、どっちへのそうだな???」

 からかうような蜂川の声に目を細める。蜂川は「ごめんて」と笑ったあとまだ教授陣の動向が気になるらしくそちらを目で追っていた。樫尾も何気なく蜂川に倣ってそちらを見る。ふと、天谷先生の顔がこちらに動いた。

「お?なんかこっち見てね?樫尾?」

 目が合った。今回は目が合っていることを認識していた。天谷先生は他の教授に一瞬話をして頭を少し下げた後こちらに向かって歩いてきた。

「こんにちは、樫尾くんと…きみは蜂川くんですね。お食事中すみません。」

「こんにちは!先生もお昼ですかー?」

 真っ直ぐこちらに歩いてきて落ち着いたトーンで話しかけてきた先生と騒がしい蜂川の対比。樫尾は持っていた箸を一旦置いて先生を見た。

「そうです、外部の方も来ているので新しい食堂の案内も兼ねて。」

「そうなんすねー!あ、樫尾っすか?どうぞどうぞ」

 蜂川が手の平を上にして樫尾に向ける。蜂川の手の平を経由して天谷先生の目線が樫尾へ移動した。樫尾も先生を見る。

「ああ、すみません。本当は学内のメールでお伝えしたかったのですがサーバーのメンテナンス中みたいで。展覧会の件で追加の詳細説明をするために、今週中どこかでお時間もらえますか?」

 先生が眉を下げて言う。蜂川は興味深そうに二人を見守っていた。

「今週…明日でもいいですか。講評会が終わった夕方以降ならいつでも問題ないです。」

 樫尾は一応スマートフォンのカレンダーを開き、予定を確認して答える。

「勿論大丈夫です。場所は7階の一番端の私の部屋で、夕方だと17時半くらいに来ていただきたいです。それほど長くはならないと思います。」

「わかりました。」

「それだけ伝えたくて。午後からの講評会、お二人の作品も楽しみにしていますね。お邪魔しました。」

 そう言うと軽く頭を下げてから戻っていった。二人して遠くなる背中を見ていたが、先生が通る近くの席の女子学生も同じように目で追っているのに気付きなんとなく視線を外した。

「展覧会も出すんだっけ、すげーなずっと描いてんじゃん。」

「時間があるからな。」

 信じられないという顔で樫尾を見る。

「絵描いてないと死んじゃう?」

「…。」

「黙るな黙るな。」

 左手を伸ばして樫尾をバシバシと叩く。「そんなわけあるか。」無表情のまま樫尾が呟くと「表情筋働かせて!!」とさらに叩いてきた。

 二人とも食べ終わり、食器を返却カウンターに置きに席を立つ。そのまま食堂で時間を潰そうかという話になったが、午前の講義等が終了した学生たちが多くなってきたため日本画の棟に移り講評会の準備をすることにした。


 講評会は1時から始まった。学籍番号順に展示されている作品をまわりながらそれぞれの作者が発表をし、作品に対して教授陣が講評をしていく。講評会中は出入り自由で、他の学生の作品紹介を聞くことができた。展示場所によっては全員が作品を見るには難しいことが考慮され、カメラを使って撮影し空き教室のスクリーンに中継されているため、そこで見ることも可能である。樫尾の順番がはやいこともあり、はやめに展示室についていた樫尾と蜂川は作品の近くで講評を聞いていた。

「うーん、色の使い方が少しぼんやりして見えるかな。この部分のワンちゃんのディティールは毛の一本一本まで繊細なんだけど、背景がそれに比べてのっぺり見えちゃうというか…。」

「水墨画にチャレンジしました。濃淡によって線に強弱を出し、迫力が出るようにしました。」

「後ろ姿ってところが、鑑賞者に想像の余地を与えていていいと思います。骨格をしっかり意識して影を乗せているため生き生きしていますね。」

「この作品は原色を最大限に表現するということをテーマに描きました。」

「ペットのぉ、金魚のぉ、源次郎を描きましたぁ。」

「彩度を全体的に上げても面白いかもね~!アイディアとか配置のセンスとかは抜群だからそれくらいかな~!」

 説明と評価と、それぞれの作品に向かって言葉が飛び交う。一人当たり15分ほど討論をしていくと5人終わった後に休憩が挟まれる。樫尾の順番も近づき、発表のために作った資料を読み返した。

「なんか…ギャラリー増えてね…?」

 横で発表を聞いていた蜂川がこそっと樫尾に耳打ちをする。樫尾もまわりを見渡すと展示室には確かに始まった時よりも人にあふれていた。スクリーンのある部屋からわざわざ出てきた人や講義の無い別の学科の生徒も見に来ているようだった。

「これお前の絵見に来た人もいそうじゃね?今回もエグいの描いてきたもんな。」

「…。」

 描きたい絵を描いて、それが評価されることは単純に喜ばしいことだった。しかしこういった作品の講評や受賞作品の授賞式など、多数の目や感情が作者である樫尾自身に向かう状況はあまり得意ではなかった。出来上がった作品は用紙に描かれた絵が全てではない、一枚として成り立つために作者が何を見て何を思いどのように組み立ててきたのか、作品が話題になるほどその背景を探られる。樫尾もその好奇心事態はよく理解していたが、自分の作品と自分がそういった立場にさられると、どこか居心地の悪さを感じることはあった。それでも絵を描かない選択肢はないため、いつかは慣れるだろうと淡々とこなす日々。今回もいつも通り自分の作品に向き合うだけだった。

 そして樫尾の順番が回ってきた。作品の横に立つと展示室の全体の様子が見える。前列にはこの講義の主担当である天谷先生が向かって右端に、その横に4人の教授が座っている。後ろにはそれぞれ自分の椅子を用意してきている学生や立ったまま見ている学生が大勢いた。

「作品名は万華鏡、祖父母の家の近くで見つけた池から着想を得ました。」

 発表のために作成した資料を見ながら説明をする。

 大きな池、池には複数匹の鯉が泳ぎ周囲には紫陽花が咲いている。紫陽花は降り続ける雨に打たれ、池に向かって項垂れている。

「雨が水面に落ちる様子、波紋の広がりを意識して描きました。鏡面反射を描いた作品を参考にしつつ、水滴によって波が立つことで歪む景色の表現は実際に見た様子を元にしています。」

 色づいた紫陽花が池に映りこむ。落ちてくる雨が水面を揺らす。

「全体が薄暗い色合いのため、波の反射には箔を使用し、主としている色の補色を活用することで色合いが単調にならないようにしました。」

 一滴、鯉の尾鰭を揺らす。一滴、映る紺を揺らす。一滴、佇む岩陰を揺らす。

 資料通りに作品のポイントを示しつつ説明を続けた。7分ほどで説明は終了し、樫尾は「以上です。」と締めて顔を上げた。

 静かだった部屋に音が戻る。衣服の摩擦の音や、椅子を引く音、息を吐く音が聞こえてくる。

「ありがとうございました。では先生方お願いします。」

 天谷先生が自分の席の横に座っている教授陣を見てそう声をかける。

「流石だね!全体的に確かに暗い感じだけど、おそらく午後の時間を想定しているのかな?雲が多いときの外の明るさをうまく表現しているね~!」

 教授の一人がそう講評を始めた。横の教授も頷く。

「この反射の表現は岩絵具を使用する日本画ならではという感じで感心します。箔の使い方も繊細で、使いすぎていないところも良いと思います。ただ、これは僕の好みですが画面左側の紫陽花がもう少し濃い紫だと下に映る反射に深みが出るのではないでしょうか。」

 一番端に座っていた教授がそう言う。樫尾は持っていたペンで資料の空白に言われた内容を簡単にメモした。樫尾にとって完成した作品はその時点で妥協無く最善を選び抜いたものである。しかし、他人の価値観を通してみると自分の世界が未だ狭いものであると気付かされた。

「天谷先生どうぞ。」

 それぞれの教授の講評が終わり、最後に天谷先生に順番が回ってきた。

「はい。…水面に映る景色が波で歪む様子を緻密に描いていると思います。何度も何度も水の様子を観察したのではないかと。」

 先生は絵を見ていた。明るい色の光彩が上から下へ動く。

「そして、下塗りの後、細かな色を着色する前に画面全体に異なる色を置いている。この色合いが個性的で、風景画でありながら少し現実離れした雰囲気になり、目を惹く要因になっていますね。」

 言い終わると絵から目を離し、樫尾の方を見た。顔を動かした拍子に少しずれた眼鏡を軽く押し上げる。

「景色を参考にする時、あえて描きたい時刻と異なる時間帯に行ってみると面白いですよ。描かないとしても。」

 笑顔はいつものものと変わりないが、先生の纏う空気がいつもより少し鮮やかな気がした。

「……はい。ありがとうございます。」

 思わず気を取られた樫尾だったが周囲の目が集中していることを思い出し、資料に目線を落とす。空白に「時間を変えて観察」とメモをした。

「以上ですかね、ありがとうございました。では、次の方の準備をお願いします。」

 ぱらぱらと視線が剥がれていく。樫尾は深く息を吸った。

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