第2話 食む紫

「展示会かー、俺課題も終わるかわかんねーしなー。」

 週が明けると制作に向けた講義が一通り終了し本格的に制作期間に入り各々自由に課題に取り組んでいた。天谷あまや先生に言われた展覧会の件を律儀に蜂川はちかわに話すと、のんきなそいつは鼻の下に器用に鉛筆を挟みながらそう言った。

樫尾かしおは?やんの?」

「俺は出すつもりだ。」

 絵を描くことに意味があった、どうせ時間があるのなら絵を描いているというのが通常だった。展覧会ともなると自分以外の作品が同時に同じ空間に並ぶ。他の数多ある作品の一つとなった時に自分の絵を俯瞰して見るという経験は新鮮だった。

「さすがこの期のエースは違いますなあ。卒業するまでに何作品描いて何作品賞とるかねえ。」

 入学してからというもの樫尾は展覧会等には時間に余裕があるときは参加するようにしていた。展覧会では作品が生徒や教授の間で話題になることも多く、一年ながら入賞することもあった。老舗の旅館が100周年記念で募集した作品展では、樫尾の描いた大樹の絵が最優秀賞となり館内に飾られている。

「まー今回はパスかな。バイト先のアトリエでアーティスト呼ぶっぽいし、そっち優先してえな。まずは課題だけど。」

「そうか。」

 樫尾は興味なさげにそう言うと絵皿に出した岩絵具ににかわを混ぜる。描くものがすでに決まり骨描きも済んでいたため、塗り作業に移っていた。樫尾は絵についてほとんど悩むことのない人間だった。課題で出されたテーマがなんであれ、描きたい構図がどうであれ、一度脳に完成図が思い浮かぶとそれに向かってただ筆を動かせばよかった。

「てかさ、樫尾が教授と話するなんて評価の時以外なくね?しかもあの天谷せんせ。質問でもしに行った?」

 耳についているピアスをいじりながらキャンバスの端から樫尾をのぞき込んで聞いてきた。

「別に、何もない。」

「天谷先生チョーいい人よ、樫尾も教授とのつながり持っておいたほうがいいって。まあそれでなくてもエリート君は引く手数多だろうけど。」

 茶化すようにニヤニヤと笑ってキャンバスの端から引っ込んだ。

「絵が描ければなんでもいいが。描き続けるには確かにそういった関係も重要なんだろうな。」

「だろだろ~」

「…お前はうるさい。」

「えー。」

 真っ白なキャンバスの前でうだうだとする蜂川を視界に入れず、樫尾は黙々と自分の絵を描き進めた。制作の仕方は人それぞれだが、樫尾は大抵締め切りに余裕を持って描き終えることが多かった。生徒の中には締め切りギリギリになって校舎に入り浸って昼夜問わず描き続ける者もいたし、毎日3時間しか絵を描かないと豪語してきっちり締切日前日に描き終える者もいたし、それなりにそれなりの絵を描いて序盤で提出してその後学校に来ない者もいた。

「んじゃ、俺今日おデートだから帰るわ。」

 途中で休憩を交えながら数時間制作を進めていた。少し開いた窓から日が落ちた後の薄っすらと冷たい風が吹き込んできた頃、そういいながら蜂川は進捗の見られない綺麗なキャンバスを片付けはじめた。最近できたという音楽科の交際相手と予定があるらしい。

「ああ。」

「あ、先週行ったお好み焼き、味は良かったけどオープンしたてでやばいほど混んでたわ。」

「そうか。」

「落ち着いたら行こうぜー、ってことでバイバーイ」

 ガタガタと椅子を足でよけながら騒がしく去っていった。樫尾も顔を上げ、長く集中していたせいで固まった背中を伸ばした。この調子で描き続ければ予定より早く仕上がるため、天谷先生が言っていた展覧会の作品もある程度力を入れて制作できそうだと考えていた。その前に展覧会に出展希望であることを天谷先生に伝えなければいけない。今日の作業を切り上げることにして画材を片付け始めた。

 明かりのついた教室をでると廊下は薄暗く思えた。掲示板とその横に掲載された研究室と教授の部屋の案内図を確認してからエレベーターのボタンを押す。上の階で停滞したまま動かないエレベーターを3分ほど待ったが、なお動きの鈍いエレベーターのボタンの光を見て待つのが面倒になった樫尾は近くの階段を使うことにした。

 目指すは7階、2階からのスタート。2階分ほど上がったところで次の踊り場に人がいることに気付く。立ち止まっている様子のため、抜いて上に行こうと思っていた。

「…あれ、君は」

 階段を上ってくる足音に気付いた人物が振り向いて少し下の段にいる樫尾を見下ろしてきた。

「…天谷先生。」

「こんばんは、樫尾くん。…であっていますか?」

「はい。…こんばんは。」

 7階までたどり着く前に目的の人物が現れたので、とりあえず先生のいる踊り場まで上がった。

「エレベーターがなかなか降りてこなくて。でもやはり無謀でした、いつもなら割と階段でも大丈夫なんですけれど。」

 踊り場には厚い本が数冊入った紙袋二つと小さめの段ボールが置かれていた。やや疲れた顔の天谷先生を見て、勝手に納得する。

「持ちます。」

「え、重いし遠いですよ。」

「展覧会の参加希望を先生に伝えに行こうと思っていました。もともと7階まで登るつもりです。」

 先生から紙袋二つを受け取ると、先生も段ボールを抱えて階段を上り始めた。紙袋は見た目通りに重く、持ち手の紙紐が指に食い込んでくる。紙袋を受け取るときに見えたカフスの下の先生の手首には紙袋をかけていたと思われる赤い線がくっきりと残っていた。

「助かります。重いほうを持ってもらって、すみません。」

 先生の休憩に付き合いながら7階までたどり着くと、部屋までは先生が先に立って歩いた。

 廊下の端の方まで歩いて立ち止まった扉の前で先生は一度荷物を置いてから鍵を開ける。

「ありがとうございました。残りの階数を考えて階段を選んだことを後悔していたところだったので。とりあえず、中へどうぞ。」

 先に中へ入った先生が扉を押さえながらそう言った。樫尾が中へ入ると受け取った紙袋を本棚の横におく。そして窓際の先生の机の方へ向かうと綺麗に整頓されたファイルの一つを引き抜き、入っていた用紙を取り出した。

「展覧会のほうもありがとうございます。参加の申込用紙を書いていただいていいですか。」

 ボールペンと一緒に部屋の中央にある机の上にその紙を置き、樫尾に椅子に座るように促す。樫尾もそれに従って荷物を降ろして椅子に座ると、申込用紙に記入をし始めた。

「かしお…」

 机を挟んで正面に座った先生が、申込用紙に書いたばかりの樫尾の字を見て呟くような小さな声で読む。

「かや、です。」

「かやくん、樫尾可哉くん。覚えました。」

「…階段で名前を呼ばれた時驚きました。」

 樫尾は用紙に文字を書き続けながらそう言った。部屋の中は静かで、コツコツと用紙の下の机にペンの先が当たる音が響く。

「講義を取ってもらっている学生の名前は一応記憶するようにはしているんです。といっても字面だけであって読みが曖昧だったり、顔と一致しなかったりが多いですが。」

「相当な人数ですね。」

「そうですねえ。でも覚えることは特に苦ではないですよ。」

 書き終わった申込用紙を先生に渡す。記入内容に不備のないことを確認して用意されていた封筒に用紙をしまい、別のファイルから取り出した紙を一枚樫尾の机の前に置く。

「これが展覧会の詳細です。締め切りは約一か月半後、一応テーマや技法等は自由なので日本画以外でも問題ないです。」

 樫尾は机に置かれた紙を手に取って詳細を読んだ。会場は大学から3駅ほど離れた美術館の一角借りて行うらしい。何度かこういった展覧会に作品を出したことのある樫尾は大体の要領がわかっていた。

「搬入は7月の頭くらいですかね、また詳しく決まったら伝えます。」

「先生は描きますか。」

「展覧会ですか?他大学の講義もあるので厳しいですね。」

 先生は変わらず笑顔だった。

「……そうですか。」

 ただ、一瞬、ほんの一瞬だけ笑顔の色が変わった気がした。樫尾が質問を投げかけた瞬間に笑顔が張り付いたような。なんとなくそれ以上踏み込むことをやめて会話を終わらせた。

「では、俺は帰ります。」

「暗いですから気を付けて。そして、荷物ありがとうございました。」

 樫尾が立ち上がると先生も椅子を引いて立つ。背の高い樫尾が先生を見下ろす形になった。眼鏡の奥の褪せた落ち葉のような不思議な色の瞳と目が合う。いつもどおりの柔らかい雰囲気の先生が少し首を傾けた。

「どうかしました?」

「…いえ、ご対応ありがとうございました。」

「はは、これはご丁寧に。こちらこそ、いろいろと。何かありましたら、大抵はこの部屋にいるのでお気軽にどうぞ。」

 袖口から覗く白い手首の荷物の跡が紫色に内出血し始めているのが気になった。しかしもともと会話を続けることが苦手な樫尾は、それを伝えたところでどのような会話を続け、最終的にどこに着地していいかわからず触れないことにした。

 先生の部屋を出て、エレベーターのボタンを押す。2階で停まっていた明かりがすぐに動き出し、樫尾の前で扉が開く。あっさり地上についた樫尾は外にでると何気なく先生の部屋を見上げた。外界の黒の中に窓の形に光が滲む。絵に描くならば何色を使おうか、そんなことをぼんやりと考えていた。

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