第1話 菖蒲色に霞む
「では今日の講義はこれで終了です。お疲れ様でした。残って作業したい方はまだこの部屋は開けておくので自由に使ってください。」
静かだった部屋に人の声が増えていく。ガタガタと椅子や机、キャンバスを動かす音、筆記用具をしまう音、鞄のチャックを締める音。今日は金曜日。制作課題が出ている期間のため金曜日のこの講義の後は教授が講義室を解放していることが多い。
芸術大学の日本画専攻の2年である
「樫尾は?俺ら今から駅前に新しくできたお好み焼き行くけど行かね?」
講義中ほとんど隣で居眠りをしていた同期の
翌日が休日だからと作業をする者もいれば、翌日が休日だからと遊びにいく者もいる。
「俺は、いい。また今度。」
「おっけー!旨かったら行こうなー旨かったらなー。」
不必要に騒がしいそいつは楽しそうに講義室にいた数人を連れて出ていく。室内を見渡すと講義を受けていた半分は残って作業をはじめているようだ。そのまま窓の方へ眼をむけると開けた窓の隙間から外を眺める人物を見つけ、きゅっとピントを合わせたようにその場所だけが鮮明になった。その人がかけた顔に比べて少し大きめの眼鏡に光が反射して、表情は良く見えない。じっと何かを見ているのか何も見ていないで考え事をしているのか、動かないその人を樫尾は眺めていた。
「
講義室に残って作業をしていた女子生徒の高い声がその人に向かって飛ぶ。
「ああ、はい。どうしました?」
その人、天谷先生は視線を声がした方に向けた。顔を動かし眼鏡の反射がなくなったことで見えた先生の表情は講義でよく見る笑顔だった。女子生徒は自分が描いている絵について一部分を指差し、その表現方法について先生に相談しているようだった。
「ここはもう少し粗い絵の具を使ったらいかがですか、7番より粗い…6番くらいでもいいですかね。」
「もっと光が当たっている感じになります?」
「ちょっとキラキラした感じになりますね、この部分を中心にしてグラデーション気味に乗せると陰影がつくのではないかと思います。」
絵を見ながらアドバイスをする先生の声が、室内の雑音に紛れながらもかすかに樫尾の耳に届く。いつも通りの的確で無駄のない指摘だった。天谷先生の講義は人気があると、同期がそう話していた。女子生徒の中では先生の容姿の良さが話題になるらしく、選択の講義が抽選になるとアイドルのライブチケットの当落発表さながらに盛り上がるとのことだった。
「俺も天谷せんせーすきー」
そういえば以前蜂川も女子生徒と天谷先生の話題になっている時そう言っていた。物腰の柔らかさだけでなくずばぬけた技術力の高さ、それを伝えるための言葉の選び方が誰にとっても受け入れやすいもので、女子生徒だけでなく男子生徒からも信頼されている先生だった。実際樫尾も講義の充実度から天谷先生の講義を選ぶことが多かった。
女子生徒との話を終えた先生はそのまま講義室を見回り始め、声を掛けられるたびに足を止めて丁寧に対応をしていく。談笑にも応じているのか時折笑い声が聞こえてくる。作業をする予定のない樫尾は先生がこちら側に回ってくる前に講義室を去ろうと立ち上がった。
ガタン、立ち上がる時にショルダーバックの紐が椅子に引っ掛かり派手な音を出した。背の高い樫尾は少しかがんで引っ掛かかった紐を外し、鞄を肩にかけなおす。ふと顔を上げると数メートル先まで歩いてきていた天谷先生と目が合う。
「大丈夫ですか?」
大きい音に驚いたのか目を丸くした先生がそう声をかけてきた。そんなつもりはないが、先生から逃げる形で講義室を出ようとしていたことを思うとなんとなく居心地が悪い気がして目を逸らす。
「…大丈夫です。」
「それはよかった。…お帰りですか?」
近づいてくる気配がして、逸らしていた目線を先生に戻す。
「はい。」
「さっき目が合っていた気がして、何かあるのかなと思っていたんですが。私の勘違いでしたか。」
目…先生と目が合っていたことがあったか…と樫尾は少し悩んでふっと思い出す先ほどの光景。窓の外の景色を反射していた眼鏡のガラス一枚の向こうで、視線に気づいた先生も樫尾を見ていたのだと知る。
「…すみません。特に何も無いです。」
実際何も用事のない樫尾は表情を変えずそう答える。先ほどもなぜ先生を見ていたかというと講義が終わったばかりの「動」が多い室内に、そこだけ空間が違うような「静」があったから思わず目が留まったというだけの話だった。何より樫尾は自分が描く絵について誰かと話をすることもましてや相談を受けるということもしない人間だった。
「いえいえ、こちらこそ足を止めてしまって申し訳ない。…あ、足を止めてしまったついででさらに申し訳ないのですが、課題とは別件で展覧会の作品募集の話が来ているんです。小規模だからか掲示板にも詳細を貼ってあるのですがなかなか集まらなくて。出展希望の場合は私か油絵の
そこまで言って先生は窓の方へ眼を向けた。
「…ということを今日の講義で皆さんにお伝えするのを忘れてしまったと、さっきあそこで外を見ながら考えていたんです。」
「…そうですか。」
樫尾も窓の方を見た。外には日が落ちかけたほの暗い空が広がっていた。
「ご友人にもよかったら伝えてください。」
「わかりました。」
「では、お気をつけて。」
そういうとさっと背を向けて室内の見回りに戻っていった。樫尾もショルダーバックを肩にかけなおして教室を出る。先ほどの時間で必要な絵の具や材料は粗方洗い出した。画材屋に行くため、帰り道とは反対側のバス停へ向かった。
画材屋は大学の前から出ているバスで20分ほどの商店街の隅にある。こじんまりとしているが、日本画の着色に欠かせない
樫尾は目的の絵の具を手に入れるために岩絵具が並んだ台の前に行き、上から順番に探していく。色合いを見るために手に取って光にあてると細かな粒子がさらさらと瓶の中で動く。自分の頭の中の絵を現実に引き出すためのこの色合いの選別が好きだった。
ほしい色を確保して店主に声をかける。樫尾の祖父と同じくらいの年齢の店主はかけていた老眼鏡を下にずらして
「はいはい、ちょっと待っとってねえ。」
と椅子を立った。
「
「膠ね、これでいいかな。」
近くの棚から膠の瓶を取り出して台の上に置いた。会計を済ませると店主は乾いた手で白い紙袋を取り出し、岩絵具と膠の瓶をゆっくり中に入れた。
「この箔、良く見つけ出したねえ。」
最後に残った正方形のフィルムに包まれた
「はいまいど。」
丁寧に袋を折りたたんでテープで止める。御礼を言ってから手渡されたそれを鞄にしまい、お釣りを受け取って店を出た。日が落ちてあたりは暗くなり、灯り始めた街灯が歩道を照らしていた。まだ肌寒い5月の夕暮れ。着ていたジャケットの前を合わせて、一人暮らしの家へ帰るため来た道と反対側のバス停でバスを待った。
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