第8章 さよなら~後編~ -5-

「それは違いますわ」


 優月の右で、浅緋うすあけ色の着物が揺れた。


「そうだよ。ゆづっち、しゃんとしなよ」


 優月の左で、うぐいす色の正絹しょうけん着物が揺れた。


「カア! 豊受とようけ大宜都比売おおげつひめ!」


 トヨちゃんこと豊受とようけと、ゲロちゃんこと大宜都比売おおげつひめが、この場に似つかわしくない美しい着物をはためかせていた。


「優月さんは、まだ黄泉の契りを交わしてはいません。なぜなら、あの場で優月さんが召し上がったのは、私が現世で調理したものですから」


「ちなみに、材料はアタシが出したやつね。ゆづっちに出そうとしていた料理を、現世から持ち込んだ料理とこっそり入れ替えたのさ」


「カア! でかしたゾ!」


 優月はまだ、黄泉で作った食べ物を口にしてはいない。それは、つまり――。


「僕……帰れるの?」


「ええ。優月さんがいるべき場所は、ここではありません。早く現世へと戻るのです」


「アタシの野ブドウと筍のサポート、なかなかだったっしょ? アタシはもうちょい現世にいたかったのに、ゆづっちのためにわざわざ来たんだからね。感謝してよー!」


 また、頬を涙が伝った。この神様たちは、優月のためにどこまでも優しくしてくれる。その想いが痛いくらいに伝わって、心の奥で凍っていた希望を溶かした。温かい想いが、心に溢れた。


「ええい……どこまでも邪魔しおって」


 イザナミが悔しそうに地団太を踏み、身体から蛆虫が零れ落ちた。


「この黄泉の国はわたくしが統治する世界。わたくしに逆らうことは許さない!」


 咆哮と共に、全身から雷が放たれる。踏みつぶされた鬼女たちの死体が、あっという間に炭になった。その強烈な力に、数で圧倒しているはずの神々も恐れおののく。


「カア……! 黄泉津大神よもつおおかみの名は伊達じゃないナア……!」


 イザナミの別名、黄泉津大神。その名の通り、黄泉の国を支配する神。かつて国生みの神だった彼女は、死の世界を司る神となった。この世界での最高の力の持ち主は、目の前の彼女だった。


「グルルルル……」


 ポチが唸った。単純な力比べでは勝てなくても、優月のために時間を稼ごうとしている。


「ギギ……」


 キー坊も桃を手にし、臨戦態勢をとっている。だが、その桃も、片手にあるひとつだけだ。


「諦めなさい。わたくしの前では、お前たちなど無力だ」


 イザナミの言葉は、慢心からくる驕りではない。ただ、事実を述べただけ。その場の誰もが、理解していた。


 それでも、優月の心は折れなかった。戻りたい、帰りたい。翔太たちに、みんなに会いたい。その想いが強くなった時、優月の後ろから強烈な光が放たれた。


「な、なんだこれは」


 あまりの眩しさに、イザナミが思わず顔を腕で覆い隠す。優月は、その光を知っていた。何度も何度も、優月を助けてくれた光。カっちゃんたちと出会うきっかけをくれた存在。


 依代箱が、その全てが光源であるかのように発光していた。


「カア! 吾輩たちと一緒に持ってきたんダア! その光に飛び込めバア、元の世界に帰れるはずダア!」


「うう……眩しい……」


 イザナミが弱弱しく座り込んだ。光が彼女を弱体化させているようだった。


「優月さん、今ですわ!」


「ゆづっち、行って!」


 トヨちゃんとゲロちゃんが、優月の背を押した。


「待てぇえええ……ぐあああ!」


 顔を庇いながらも、雷を散らしながら向かってきたイザナミは、突然出現した洪水に攫われて、遠くに運ばれていった。


「優月殿!」


「間に合ってよかったあ」


「カア! 海幸彦に山幸彦ダア!」


 山幸彦が、海の神から渡された塩盈珠しおみつたまの力で、洪水を起こしたのだ。


「ユヅ君、遅れてごめんね」


「あ、いや……ありがとうございます」


 まさか、山幸彦に助けてもらう日が来ようとは思っていなかった。こんな時だというのに、しみじみと感動してしまった。

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