第8章 さよなら~後編~ -3-
優月は乾いた地面に伏せた。とうとう限界が来たのだ。全身が、これ以上動くことを拒否している。身体中が泥にまみれ、涙や鼻水で顔はぐちゃぐちゃ、脚の筋肉は痙攣している。鬼女たちが筍に気を取られている間にずいぶん走ったため、追手の気配はない。たが、これ以上進むには体力が足りなかった。目の前は、急勾配の坂なのだ。
さんざん体力を消耗した後でこの坂を見れば、メンタルがやられる。そうすると、フィジカルに影響が出る。優月の精神的なダメージが、脚を動かす力を奪ってしまったのだ。
だが、希望はあった。坂の向こうからは、太陽を思わせる温かい光が差し込んでいるのだ。あそこに行けばなんとかなる。そんな期待を持てる光だった。なんとか四つん這いになって、赤子のハイハイにも劣る情けない速度でも、前に進んだ。
たくさんの足音が聞こえた。振り向けば、鬼女たちが接近し、三度追いつかれようとしていた。髪を振り乱し、大口を開けて牙を覗かせ、砂埃をあげながら走ってきている。追手の数は桁違いに増え、優に千を超えていた。その上、鬼女の後ろで八色の雷が迸っていた。女性の腐乱死体に群がっていた雷と、同じ色と数のそれだった。
絶望が、迫っていた――。
「そんな……」
その様は、優月から完全に逃げる気力を奪った。座り込んで、迫りくる狂気を、呆然と眺めていた。もうすぐ、自分は捕まる。捕まったら、八つ裂きにされるのか、頭から食われるのか、どういう結末を辿るのかは分からない。
確かなのは、もう自分は大切な人たちと会うことは叶わないということ。
「みんな……ごめん。もうだめだ……」
優月の頬を、汗と涙が混ざったものが流れた。強烈な腐臭が漂ってくる。
「最後にひと目、みんなに会いたかったな……」
消え入りそうな独り言が、砂埃の中に呑まれていった。頬を伝った雫が乾いた地面に吸い込まれていった。そして、とうとう軍勢は優月の前にやってきた。その先頭、目の前に立ち止まった鬼女の手が伸びてきた。
優月はぐっと目を瞑った。だが、その手が優月に届くことはなかった。
「ギャアアアアア」
鬼女が汚い悲鳴をあげながら、空を舞った。優月に伸びてきていたはずの鬼女の腕が、千切れて転がっていた。唖然とする優月の前には、大きな白い獣がいた。優月の身長の倍はあろうかという高さの白い獣は、優月を守るように鬼女たちの前に立ちはだかっている。
「グルルルル……」
その獣が唸れば、鬼女は怯んで後ずさった。優月が訳も分からずに見上げていると、獣が振り返って、目が合った。それは、大きな狼だった。威圧感のある顔と切れ長の目、しかしその瞳の奥にあるのは優月への深い愛情だった。この瞳を、優月は知っている。
「ガアアアア!」
雄たけびとともに、鬼女たちに何かが投げつけられ、その攻撃を受けた鬼女は悲鳴をあげながら逃走を始めた。落ちたそれに目を向ければ、桃の実。宇良から温羅を引き剥がすきっかけになった聖なる実が、この淀んだ空間で力強い生気を放っていた。
投げつけたのは、狼に負けず劣らずの巨躯の、筋骨隆々の大猿だった。左腕に大量の桃を抱え、剛腕で敵にぶつけている。鬼女にも負けない迫力の鬼をその顔に宿し、牙を剥き出しにして敵と対峙している。この猿も、優月は知っている。
「まさか……」
自分が知っている彼らとは、大きさも見た目も違う。それでも、一緒に暮らす中で知った彼らの癖や動き、体毛、瞳は、記憶の奥に刻まれている。そして、この絶体絶命の状況を救ってくれている事実。優月が答えにたどり着くまでに、熟考は必要なかった。
「ポチに……キー坊……?」
「ガウ」
「ギギッ」
どこか聞き覚えのある声。肯定の返事。ペットだった二柱の神は、いま、姿を変えて優月の前に現れた。そして――。
「カア。何を勝手に諦めているんダア、お前ハア」
優月が最も長く一緒に過ごした、導きの神。三本足のカラス。八咫烏のカっちゃんが、優月の前に舞い降りてきた。
優月の目から、希望の涙が流れた。
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