第8章 さよなら~後編~ -2-

 豪勢な料理で満腹になった優月は、身体の奥底から力がみなぎるのを感じた。顔の黒い侍女が淀みない動きで膳を下げていき、部屋の中は優月と女性の二人きりになった。優月は姿勢を正す。


「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」


「うふふ。それはよかった」


「それじゃ、教えてもらえますか。ここがどこなのか。僕、確か川に落ちて……」


「慌てないで。それに、男性なら女性には気を配るものよ。わたくしはこれから、お隣の部屋でお化粧直しをしてまいります。それまで、坊やは食休みをなさい」


「あ……すみません」


「うふふ。大人しく待っているのよ。決して部屋を覗いてはいけませんよ」


 妖艶な笑みを扇で隠し、優美な所作で優月の前を通り過ぎた。ひとつひとつの動きが高貴で、優月はこの女性と同じ空間にいるのがひどく場違いに感じた。隣の部屋に移動した女性は、襖を閉めた。


 一人になった優月は、ほうと息を吐いて、なんともなしに天井を眺める。今時見ない和風な家屋の造りを改めて確認して、やはり場違いさを感じる。何となく状況を受け入れてしまっていたけれど、ここはどこなのか、何があったのか、いくら頭を働かせても分からなかった。




 あの女性が隣の部屋に行ってから、随分時間が経った。やることもないこの空間では、時間の流れが普段の何倍にも長く感じてしまう。その相乗効果を無視しても、かなりの時間を待ったと優月の体感が告げている。恭しく世話をした侍女もあれから一向に現れず、話し相手もいない。


 暇な時間というのは想像以上に退屈で、本も遊び道具もないこの和室では、試験勉強が娯楽に思えそうなほどだった。それでも辛抱強く待ってみたものの、あの女性は一向に戻って来ない。業を煮やした優月は、襖ににじり寄った。


「あの……まだでしょうか」


 優月が声をかけても、返事はない。女性の化粧直しにどれほどの時間を要するのか見当もつかない優月だが、いつまでもここにいるのは心地よいものではない。女性からは覗くなと言われたが、返事が無い以上は従ってばかりもいられない。いつまでもこんなところにはいられない。


「開けますね……」


 優月はゆっくりと襖を開けた。中は、優月がいた和室とは全く異なり真っ暗で、壁に掛かった松明でかろうじて様子が分かるくらいだった。部屋の奥には、女性が背を向けて座っている。


「すみません、僕、そろそろお暇しようかと……」


 その言葉に反応して、ゆっくりと振り返った女性の顔は、先ほどまでとは打って変わり、醜いものになっていた。


 身体中が腐り、蛆虫が湧き出て、肉を食い破る気色の悪い音がしている。さらに、頭、胸、腹、股、両手、両足に姿かたちの異なる恐ろしい雷が纏って、生き物のようにうねっている。美しかった女性は、世にも恐ろしい姿に変わり果てていた。


「あ……あ……」


 凄惨な光景を前にして、優月は後ずさりした。足が擦れる音がやけにはっきり聞こえ、思わず息を飲む。腐乱死体の顔がゆっくりと優月の方に向き、ぽっかり空いた眼孔の奥が赤く光った。


「見ぃたぁなぁ……!」


 八つの雷が、彼女の怒りに呼応するように激しく光り、蜘蛛の巣のように稲妻を散らした。壁の松明がはじけ飛んだ。光源としての役割を松明に取って代わった雷が、部屋の中を照らす。


 死体の口ががばりと空いて、しかしその口からは音ではなく、大量の蛆虫。吐き出された蛆虫はやがて、ぶくぶくと膨れ上がり、二本の角が生えた恐ろしい形相の鬼女になった。生み出された大量の鬼女は、一斉に優月に顔を向けた。


「う……うわあああ!」


 優月は身をひるがえし、一目散に逃げだした。


「おまえたち、あやつを追え! わたくしに恥をかかせたこと、後悔させてやるのだ!」


 彼女が命令するやいなや、鬼女たちは咆哮をあげて走り出した。何十もの鬼の軍勢に追われ、優月は気が狂いそうになりながら、ひたすらに足を動かすのだった。


 鬼気迫るどころか、本物の鬼に迫られる恐怖の中、優月は走る。暗闇はやがて夜の山道のような様子になり、枯れた木や花がしょんぼりとこうべを垂れさせている。


 泥と腐敗臭が混ざったような悪臭が鼻をつく。鼻を押さえたいが、そんなことをしている余裕はない。迫りくる恐怖の化身に捕まろうものなら、殴る蹴る程度では済まないだろう。必死に走っているが、思うようにスピードが出ない。雨水を含んだような地面や枯蔦かれつたに何度も足を取られそうになった。


「あっ……!」


 疲労で身体が言うことをきかなくなったころ、とうとう転んでしまった。すぐそこに、鬼女たちが迫っている。


「うわあああ!」


 優月が頭を押さえて襲い来る攻撃に身を固くした時、地面からするするとつるが伸びてきた。あっという間に繁殖し、蔓からは互い違いに葉が生まれ、色とりどりの実をたくさんつけた。

 野ブドウだ。


「おおおおお!」


 鬼女たちは、優月のことなど目もくれず、野ブドウの群生を囲んでむしゃむしゃとその果実を食べ始めた。何が起きたのかは分からなかったが、今が好機とばかりに、優月は立ち上がって走り出した。


 走って走って走り続け、枯れ草すら無くなってきた頃。大勢の足音が聞こえて振り返れば、あの鬼女たちが追って来ていた。野ブドウを食べつくし、本来の目的を思い出したのだろう。


「うわ!」


 背後に気を取られていた優月は、地面から出っ張った石に気づかず躓いて転んでしまった。再度迫る、鬼女たち。逃げようと体勢を整えるも、ついに先頭の鬼女に足首を捕まれてしまった。


「は、放せ!」


 振りほどこうとするも、強い力で掴まれ、びくともしない。にやりと笑った鬼女の口から、鮫のような牙が見える。その後ろでは、続々と他の鬼女が到着した。


 完全に追いつかれてしまった。


 漂う腐臭に息が詰まる。恐怖で身体が震える。優月は、心の中で必死に助けを求めた。

 すると、地面からにょきにょきと筍が生えてきた。ひとつやふたつではなく、周囲全体を埋め尽くさんばかりの数だった。


「おおおおお!」


 鬼女は優月を放し、筍に飛びつくと、地面を掘り始めた。筍を掘り出すと、土がついているのも気にせずにむしゃむしゃと食べ始めた。立て続けに起こる不思議な現象に戸惑いつつも、優月は再度走り出した。

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