第7章 さよなら~前編~ -6-

「おっさんには関係のないことだ。それにしても、がこんなことしていいのかな? 犯罪だぜ、これ」


「議員……?」


 優月が痛む身体を捩って男の顔を再度確認した。そこで、優月は思い出した。

 夏頃に市議会議員選挙が行われ、市内に立候補者の選挙ポスターが貼られていた。優月の通学路にもその設置場所があり、そこに並んだ顔ぶれの一つがこの男だったのだ。


「おやおや、ご存じだったのかい。選挙権のない君たちにまで顔が売れているなんて光栄だね」


「俺は一癖ありそうな奴の顔は自然と覚えちまうんだ。おっさん、将来の有権者に対して随分と乱暴なことするじゃないか」


「たかが二人の票を逃したところで、問題ないさ。年寄りに優しくしておけば、当選できるだけの票は取れるからね。あと、君のさっきの質問に答えてあげよう。こんなことができるんだよ」


 その意味を汲み取った宇良が唾を吐く。


「けっ。これだからお偉いさんだの権力だのってやつは嫌いなんだ」


「君が嫌いだろうが関係ない。従わなければならない、圧倒的な力なのだから」


 文化祭の日に襲撃してきた洩矢もりやと同じ理屈。数や権力に頼った結果、それが本人の力だと勘違いして偉ぶる奴の理論。


「市民のために働くのが議員の仕事だろうが」


「もちろんだとも。市民を導いてやらないといけない。いや、この国すら動かす存在になってやる。だから、神の力をいただこうというのだよ。神の力があれば、こんなちんけな街の議員に留まらない、もっと大きなことができるからね」


「カア! 神の力は人間一人に扱える程度の代物じゃないんダア!」


「邪魔なカラスは黙っていたまえ。お前のせいで、なかなかこの小僧を連れ去る機会が訪れなかった。……おっと、来たら小僧を突き落とすと言っただろう」


「ウー……」


 宇良と言い合っているうちに近づこうとしたところを牽制され、ポチが唸る。こんなところに、ただのペットを連れてくるはずはないと踏んで警戒している。


「さあ、君たち。そこをどくんだ」


「嫌だね。黙って逃がすと思うか?」


「それなら、彼を見捨てるというのかい?」


「道を開けたところで、あんた一人で逃げるわけないよな? 優月を道連れにするはずだ。それに、あんたは優月を落とせない。落としたら、あんたは丸腰になるも同然だからな。……忠告しておくが、もし優月を落としたら、俺は間違いなくあんたを同じ目に遭わせる」


 宇良が強烈な睨みをきかし、男が怯む。腕っぷしが強い宇良に加えて隼人がいるこの状況で、大人とはいえ腕力で男に勝ち目はない。


「じゃあ、どうするんだい? 彼がここで凍え死ぬまで、こうしているかい?」


「簡単だ。今すぐ優月を開放しろ。あんたはどっちみちムショ行きなんだ。とっとと優月を放したほうが、これ以上の重罪にはならねえんじゃねえか」


 人質を盾にした脅しも見透かされ、男の顔には焦りの色が滲んでいた。


「今さら言い逃れられるなんて思うなよ? 優月の証言、優月の怪我、あんたらの靴や服に暴行の証拠も残っているだろうからな」


 宇良はゆっくりと歩み寄ってくる。優月を突き落とすことに、もはや何のメリットもないはず。


 ――しかし、犯罪者の倫理観は、宇良が思っているほど理にかなったものではなかった。


「ふっ。ふふふ。ははははは!」


「……おかしくなったか」


「証拠だって? 残っているなら、消せばいいんだよ」


 男は優月の背を押した。


「え……」


 言うことを聞かない身体は、ずるりと滑り、視界がぐるりと変わった。


「優月ィ!」


 伸びてきた宇良の手が、優月の肩を掴んだ。ずるりと滑って、かろうじて指に服を引っかける。宙ぶらりんの優月が見上げれば、必死に優月を引き上げようとする宇良の顔があった。腕が後ろ手に縛られているせいで、宇良の手を取ることができない。


「優月、いま引き上げてやるからな……ぐっ!」


「青春ごっこはよそでやってくれ」


 男は、無防備になった宇良の腰に本気の蹴りを入れた。一瞬、宇良の身体をはしった痺れ。その一瞬は、致命的だった。末端までやってきた痺れは、優月を掴んでいた指先から力を奪った。


 宇良の指から、優月が離れた。宇良と優月の繋がりが、無くなった。


 宇良の顔が遠くなる。何かを叫んでいる。スローモーションのように遠ざかる宇良の姿が、その後ろの空に浮かぶ月よりも小さくなる。チョコレートのように並ぶ窓ガラスが五つ流れたところで、水の音がして、真っ暗になった。


 ごぼごぼという音が、身体の外と内の両方から聞こえ、とてつもない息苦しさが襲った。どれだけ這い上がろうとしても、自由の利かない手足は重しのようで、いたずらに平衡感覚と体温を奪っていくだけ。


 細かな泡が作る幻想的な水面の光は、やがて遠く小さくなっていった。


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