第7章 さよなら~前編~ -5-

 優月の肌を、針が刺すような寒さが襲った。目を覚ました後に、別の場所に担いで運ばれたのだ。声が反響する空間で、階段を上る音が聞こえた。そして、扉を開けた直後に一気に肌を撫でた冷気。外に出たのだと感覚で分かった。


 大声を出して助けを求めようとも思ったが、やめた。遠くに自動車が走る音と、かすかに水が流れる音が聞こえるのみで、静かなものだったからだ。クリスマスの時期に音がないということは、近くに人が集まるような場所はないということ。それに、誘拐、監禁するのに、周囲に音が漏れてはまずいような場所は選ばない。叫んだところで無意味だろう。


 優月を担いでいた男が、優月を床に乱暴に落とした。足と手を縛られている優月は、受け身をとることもできずに冷たいコンクリートを転がった。


 寒さとは違う、心の底からの恐怖に打ち震えた。痛みで動けない優月から、冷気とコンクリートが容赦なく体温を奪う。このままこの状態でいれば、命に関わると脳が危険信号を出している。


「悪い子にはお仕置きだ。しばらくそこで反省してもらおうか」


 男たちの足音が遠ざかり、やがて扉が閉まる音がした。

 逃げるなら、見張りがいなくなった今がチャンスだ。それでも、後ろ手に縛られた手では目隠しを外すことすらできず、寒さで段々と感覚が無くなってきている。足も縛られていて、走ることもできない。おまけに、少し動くだけで全身に痛みがはしる。


 逃げ出そうにも逃げ出せない。それを分かっているから、男たちも優月を一人で放置したのだ。唯一自由になるのは口だけ。口が自由であることで、かえって優月の恐怖が増した。口を自由にしても問題無いということは、叫んでも構わないということ。先ほどは感覚的でしかなかった、周囲に人がいない場所だという予想が当たっていると理解したから。


「父さん……母さん……。翔太……宇良くん……隼人くん……」


 こんなに寒いのに、目頭だけが熱くなる。


「カっちゃん……ポチ……キー坊……」


 昨日までの日常に戻りたい。


 父や母とあたたかい食卓を囲んで。心配性な宇良と通学して。翔太とバイト終わりに連れ風呂して。隼人と群青プリンセスについて語って。カっちゃんたちの自由な言動に振り回されて。そんななんでもない日常がとても遠くて、あたたかい日々が恋しくて。


 目隠しから零れた雫が、冷たいコンクリートに落ちて染みを作っていった。


 どれほどの間、そこでそうしていただろうか。いよいよ皮膚の感覚が遠くなってきていたころ、慌ただしく階段を上ってくる音が聞こえた。


「くそっ! ガキのくせに、なんだあの強さは。どうしてここが分かった」


 扉が開くと、悪態をつきながら男が走ってきた。優月を荒々しく引っ掴むと、扉と反対に引きずった。その間に目隠しがずれ、久しぶりに視界が戻る。空がはっきり見えるここは、どこかの屋上のようだった。引っ張っている男をちらりと見てみたが、面識がない。けれど、どこかで見たことがある。


「優月!」


 扉が再び開き、宇良が躍り出た。すぐに隼人が続き、カっちゃん、ポチ、キー坊までなだれ込んできた。


「みんな!」


「優月……! 待ってろ!」


「おっと、そこまで」


 駆け寄ろうとした宇良を制し、宇良たちに背中を向けるように優月をパラペットの上に座らせる。


「少しでも近づいたら、この子を突き落とす」


 投げだした足は空気を踏んでいて、下を見れば日が暮れて黒くなった川が流れている。先日に季節外れの大雨が降ったせいで、冬にしては水量が多くなっている。


「おい、おっさん。その辺にしとかねえと、一発殴るだけじゃ済まねえぞ。あんたの取り巻きは下で伸びてる。あとはあんただけだ、諦めな」


「ふん、ガキが生意気を言うな。わざわざこんな廃ビルに運んできたというのに、よくここが分かったじゃないか。それも神の力か?」


 宇良の眉が上がった。この男が優月を連れ去った理由が、依代箱絡みだと理解した。


 ――俺にやられた不良やごろつき共が、俺にやられた腹いせに優月を攫ったのかとばかり思っていたが、まさか大人だとは。

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