第7章 さよなら~前編~ -2-

 翌日。午後からバイトのシフトに入っていた優月は、ポチとキー坊に見送られて、昼前に自宅を出た。依代箱を入れたボストンバッグを背負って、頭にカっちゃんを乗せて、他愛も無い話をしながら最寄り駅まで歩く。いつも通りの平和な通勤だ。神棚をいつ掃除するのかとカっちゃんに詰問され、シフトが入ってない翌日にやると約束させられた。


 そして、駅に到着した。


「カア。今日は温泉に入りに行くからナア」


「いつも来てるでしょ。じゃあ、後でね」


 駅前で、カっちゃんは飛び去っていった。すると、人っ子一人いなかった通りが喧噪に包まれる。優月はこの瞬間がいつも不思議だ。導きの力は、誰もいないところを進んでいるというより、景色が同じで人がいない別世界を旅している気分になる。


「おっと、電車が来ちゃう」


 優月は感心するのをやめ、ホームに急いだ。乗るのはたったひと駅だけれど、ひと駅にしてはそれなりの時間を走る。自転車で行けないこともないけれど、ちょっと億劫になる距離なのだ。特に、暑い日や寒い日に自転車で向かおうものなら、働く前にぐったりしてしまう。そんなわけで、電車で通勤している。交通費はバイト先から出るし、移動は楽だし、電車にしてよかったと優月は思う。いや、思っていた。


 この日までは。


 電車を降りれば、バイト先までは徒歩十分だ。一日のほとんどが日陰になるような道は、路面凍結していて滑りやすい。転ばないよう、注意して歩く。自然と、視線は下を向くことが多くなる。


 カっちゃんがいなければ、導きの力は発動しない。優月を守ってくれる宇良もいない。しかも、今は足元に注意をとられている。


 だから、人通りの少ない道で、横から伸びてきた手に気づかなかった。


「むぐっ!?」


 一人の男にごつい手で口元と腕を抑えられ、別の男が淀みない動きで優月の腹に一撃を入れる。息が詰まり、苦しさで抵抗する力を失った優月を、男たちは車に押し込んだ。白昼公然と行われた誘拐に気づく者は、誰一人としていなかった。


* * *


 香織のスマートフォンに着信があったのは、午後一時を回った頃だった。掃除をしていた手を止めて液晶画面を見てみれば、相手は坂本さんだった。こんな時間に何だろうと思いながらも、通話を開始する。


「もしもし。珍しいわね、この時間に電話なんて」


「香織! 優月君はそっちにいる!?」


 少し慌てた様子の声だった。


「優月なら、昼前にそっちに向かったけど……。何かあったの?」


「優月君、まだ来てないのよ! 店長が優月君のスマホに連絡しても出ないみたいで……。今まで一度も無断で遅刻や欠勤なんてしたことがない子だから、何かあったんじゃないかって心配になって」


「本当なの? ごめん、いったん切る」


 香織は坂本さんとの通話を切って、優月に電話をかける。コール音が鳴る。コールの回数に比例して、香織の不安は大きくなっていく。


「優月……。お願い、出て……」


 そんな願いもむなしく、留守を知らせる機械音声に代わってしまった。もう一度電話をかけ直しても、結果は同じ。香織の心臓の音が嫌になるくらいに大きく、早くなっていく。坂本さんの番号にかけると、ワンコール目で出てくれた。


「どうしよう、優月、電話出ない」


「香織、落ち着いて! 何かあったなら、通勤途中だけど、こっちの方で交通事故が起きた様子はないの。そっちは?」


「分からない……。でも、騒ぎになった様子はないわ。うちで飼ってるカラスが、いつも駅まで見送ってから戻ってくるけど、ちゃんと帰ってきているの。だから、駅には着いたと思うんだけど……」


「失礼なことだと承知しているけど、念のため聞くわね。優月君に限って無いとは思うけど、家出するような素振りはあった?」


「無いわよ! この間だって、あたしの誕生日を盛大に祝ってくれたの、知ってるでしょう!?」


「ごめん。あたしも優月君のことが心配だから、ひとつの可能性をつぶしたかっただけなの。落ち着いて、香織」


 香織は小さく「こっちこそごめん」と答えて、頭を抱えた。家出の可能性を否定したけれど、本当に無いのか。自分が知らないだけで、優月は何かつらい目に遭っていたんじゃないか。

 近くにいるのに、自分の息子なのに、実は何も理解できていなかったのではないかという疑心暗鬼に駆られていた。


「電車で寝ちゃってるだけならいいけど……。香織、パートが終わったらまた連絡するわ。優月君から連絡来るかもしれないから、出られるようにしておいてね」


 坂本さんは通話を切った。香織は胸を抑えて、椅子にへたり込んだ。ぼうっと見つめたスマートフォンの画面は、明度を落とし、やがてタイムアウトして真っ暗になった。そこに映った香織の顔は、不安でいっぱいで、唇が震えていた。そんな自分の姿を目で捉えていても、その映像は香織には全く見えてはいない。


 その様子をじっと見ていたカっちゃんが、リビングの奥、掃除途中で空いていた窓から静かに飛び立った。

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