第5章 母が誕生日なので楽させようと思います

第5章 母が誕生日なので楽させようと思います -1-

「行ってきまーす」


「行ってらっしゃい、気を付けるのよー」


 香織に見送られて優月は家を出た。今日は土曜日で学校は休みだが、バイトの出勤日のため午前中から移動だ。背中には当然のようにボストンバッグ。決して軽いわけではないが、毎日背負って移動していたら、これが当たり前になってしまって、今ではさほど気にならなくなっていた。半強制的ではあるが、トレーニングになっている。


 この日はバイト先で話したい人がいる。必要もないのに早足になっていた。


* * *


「おはようございます!」


 バイト先――入浴施設内のレストラン――に着いて元気に挨拶。目立ったスキルが無い分、コミュニケーションで役に立とうと思っての行動だ。


「おはよう、優月君」


「おっはよー、今日も元気だねえ」


 店長と学生スタッフの真紀まきが挨拶を返してくれる。

 店長は三十代前半だが二十代前半といっても通じるくらい若く見える男性で、主婦スタッフの皆様からはとてもモテている。聞いたことはないけれど、薬指に指輪をしているところを見たことがないから、独身の可能性が高い。


 すらりとした体型に加えて、優月と違って身長が高いから、優月から見てもかっこいいオトコだと感じる。どうやったら身長を伸ばせるかと聞いたら、「遺伝かなあ」と言われて絶望したことがある。素直と天然のハーフだ。


 真紀は優月の四つ年上の先輩スタッフで、きょうだいがいない優月にとっては姉のような存在だ。真紀も優月を弟のように可愛がってくれて、休憩中やバイト終わりによくジュースを買ってくれる。小柄で美人だから、スケベなおじさん客に絡まれることもあるけれど、うまく躱している。


 あざといポーズをしながら「わたし、お酒が強い人が好きなんですー!」と言ってやる気にさせて、次々に酒を飲んでもらえば、最後には許容量を超えてへべれけになる。すると、施設から追い出される。だって、『泥酔客はお断り』としっかり店に張り紙がしてあるから。店の売り上げに繋げつつ、迷惑な客を追い払う高等スキルをお持ちのお姉さまだ。


「今日は坂本さかもとさんは来てないんですか?」


 更衣室に行く前に、店長に尋ねた。坂本さんはパートで店に勤めている主婦で、香織の高校時代の同級生でもある。今でも親交があって、たまに優月の家にも遊びに来る仲だ。だから、優月ともバイトする前から顔見知りだった。バイトを始めるまで坂本さんがここで働いていると知らなくて、出勤初日に坂本さんがいてびっくりしたくらいだ。坂本さんも驚いていた。


「もう来てるよ。ホールの準備してるから、着替えたら手伝ってあげて」


「分かりました!」


 優月は笑顔で答えた。今日は坂本さんに会って話したかったのだ。主婦である坂本さんは、家庭や子育てがあるため、朝から夕方までの時間に働いている。一方で、優月は平日は学校終わりの夕方からしかシフトに入れないため、平日に顔を合わせることは滅多にない。だから、土日祝日くらいしかシフトが一緒になることがないのだ。


 先週の土日は、坂本さんのお子さんが体調不良とかでお休みしていたため、会うことができなかった。話したいことがあったのに、優月は機会を失ってしまった。だから、今日はシフトが一緒になれてほっとした。


 勘違いのないように補足しておくと、決して優月が坂本さんに恋心を抱いているとかいう歳の差ラブストーリーな展開は無い。年頃の男子ではあるが、坂本さんと話したいのは別の要件があるからだ。あと、優月の彼女は二次元だ。


 着替えてホールに行くと、坂本さんはテーブルのセッティングをしているところだった。


「坂本さん、おはようございます」


「あら、優月君、おはよう。二週間も空くと、なんだか久々に会った感じがしちゃうね」


 優月が声をかけると、坂本さんも負けないくらいに元気に挨拶を返してくれた。パートの中でも古株なのに、お局みたいに偉ぶったりしないで、明るく接してくれる。その上、仕事も丁寧だし、教え方も丁寧だ。このバイトにおいては、優月は坂本さんに育ててもらったも同然だ。


「お子さん、体調良くなりました?」


「もうすっかり元気で、遊びまわってるわ。心配してくれてありがとうね」


「良かったです。僕、向こうからセッティングしていきますね」


「助かるー! ありがとう」


 勝手知ったる職場だ。一目見れば、どういう状況か分かるくらいには優月も仕事が板についてきた。短い会話で作業分担ができるのも、坂本さんの指導のたまものだ。ただ、優月は仕事にかかる前に伝えたいことがある。


「あの、今日どこかで、ちょっと話をすることってできますか」


 坂本さんは作業の手を止めて、優月の顔を見る。一瞬だけ見せた真顔は、すぐに笑顔になる。


「うん、いいわよ。お昼時は混むから、早くても三時過ぎになると思うけど。いいかしら?」


「ありがとうございます。もちろんです! じゃあ、後でよろしくお願いします」


 優月は頭を下げて、仕事に取り掛かる。坂本さんと二人でホールの状態を仕上げて、開店準備に入った。


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