第4章 神様にも理不尽はあるみたいです -10-


 土曜日の夜。優月は忙しいバイトを終えて、露天風呂で疲れを癒していた。何時間も立ちっぱなしだったせいで、ふくらはぎが硬くなっている。風呂の中で軽く揉んでほぐしていると、誰かが隣に腰を下ろしてきた。

 ――翔太だ。


「お疲れ」


「翔太……お疲れ」


 ケンカ別れのようになったあの日から、お互いに距離を掴み切れないまま数日が経ってしまっていた。教室で、廊下で、グラウンドで、視線はぶつかるのに、気まずくなって逸らしてしまう。それは翔太も同様で、吐き出そうとした言葉が喉元で止まってしまうような、もどかしい日々を過ごしていた。


 注ぎ足される湯だけが音源の空間で、二人はしばらく無言で並んだ。優月が体育座りすれば、その動きで浴槽の湯が揺れる。翔太に向かっていってぶつかった波が、優月に返ってきた。


「……ごめん」


 湯の熱で赤を帯びた自身の肌を見ながら、ぽつり。隣では、きっと翔太が優月を見ている。少し冷気を含んだ風が吹き、頭を冷やしていく。


「……こっちも、ごめん」


 翔太も、優月と変わらない小さな声だった。


「小さい頃さ、河原で綺麗な石を拾って、大事にしてたことあったの覚えてるか?」


「……覚えてる。いつの間にか親に捨てられちゃってた」


 突然の思い出話に少し戸惑いつつ、答えた。その思い出は優月の中にもしっかり残っていて、当時の感情までもが蘇ってきた。


「俺も同じ。あの時は宝物を捨てられたってギャン泣きしたよ」


 そう言って湯船から出した翔太の手のひらには、何も乗っていない。当時、確かにそこにあった石は、大きくなった手のひらに影も形も残していない。


「宝物だったはずのものが、どうでもいいものに変わっちまって。宝物を大事に思ってたときの心まで、いつの間にか忘れちまってた」


「そんなの、僕だって……」


「優月は、宝物を大事にする気持ちは変わってない。宝物が石じゃなくなっただけだ」


 翔太が手を湯に戻す。感情が津波のように押し寄せてきそうで、盛り上がったり盛り下がったりする湯面に目が離せなかった。


「優月の大事なものをないがしろにするような態度取って、ごめん」


「僕こそ、ひどいこと言ってごめん。自分勝手だったって反省してる」


 目が合った。湯気の中で見た翔太は、石の記憶と同じ目をしていた。


「ぼっちの飯、結構つらいもんがあったな」


「え、翔太も一人で食べてたの?」


「うるさい奴らと食ってると、味が分からなくなるからな。それなら一人で食うさ。……そしたら、しんどかったわ」


「似た者同士だ」


 ぷっと吹き出したのを皮切りに、二人は腹の底から笑った。胸の奥につかえて固まっていたしこりが、ほぐれて溶けていった。


「カア~。いい湯だナア」


「ふあっ!?」


 優月の横から唐突に湯の感想が聞こえて、優月の声が裏返った。風呂に浮かべたアヒルのおもちゃのように、三本足のカラスが湯面に漂っていた。


「いつの間に……」


「カア。河原で綺麗な石を拾ったあたりからダア」


 わりと最初からじゃんか。ほぼ全部の会話を聞かれてたってことじゃないか。身体の力が抜けていく感じがするのは、湯あたりのせいじゃないと思う。


「おー。喋るカラス、久しぶりだなあ」


「カア! 八咫烏やたがらす様と呼ぶんダア」


「カっちゃんでいいよ」


 文句を言ってきたが、「じゃあ母さんに……」と優月が含みを持たせて言ったら、押し黙った。母はペットにも強し。


 無事に翔太と仲直りした優月は、晴れやかな気持ちで帰り道を歩いていた。途中で翔太と別れ、いまはカっちゃんと縦に並んで歩いている(カっちゃんは優月の頭に止まっているだけなので、実際に歩いているのは優月だけだが)。


「カア。厄介事が片付いてひと安心だナア。この数日、お通夜みたいな顔していたカラ、見ていられなかったんダア」


「心配かけてごめんね。もう大丈夫」


「カア。海幸彦に感謝するんダア」


「そうだね。未だに、山幸彦さんにされたことは理不尽だと思っちゃうけど」


「カア。山幸彦には後日談があるんダア。そこで報いは受けているゾ」


「え、そうなの? どんな話?」


 仰々しく咳ばらいをしたカっちゃんが、後日談を話してくれた。


* * *


 山幸彦と海幸彦の戦いに決着がついたあと。山幸彦の妻である豊玉毘売とよたまひめが懐妊し、出産のため海中の宮殿から出て、山幸彦のいる陸地までやってきた。山幸彦はたいそう喜び、大急ぎで産屋を建て始めた。しかし、産屋が出来上がる前に豊玉毘売とよたまひめが産気づいてしまった。


 仕方がないので、造りかけの産屋で出産をすることにし、豊玉毘売とよたまひめは産屋に入った。その際、


「子を産むとき、わたしは本来の姿になってしまいます。ですので、絶対に産屋の中をのぞかないでください」


と注意した。

 山幸彦は最初こそ言われた通りに我慢していたが、とうとう好奇心に負けて、産屋をのぞいてしまった。するとそこには、苦しみながらのたうち回る大きなサメがいた。驚いた山幸彦は、産屋から逃げ出してしまう。


 豊玉毘売とよたまひめはサメの姿を見られてしまったことを嘆き、恥じて、出産を終えると子を残して海中の宮殿に帰ってしまった。その後、山幸彦と豊玉毘売とよたまひめは、互いへの愛が消えることはなくとも、二度と会うことはなかったという。


* * *


「たった一度の好奇心で、取り返しのつかない事態になってるね……」


「カア。やるなと言われたら逆にやりたくなるのハア、人間も神も一緒だナア」


「我慢って言葉を知らなそうな感じだったもんなあ……。それで一生の罰を受けてたら、後悔してもしきれないや」


「カア。真面目は得とは限らないガア、だからといって理不尽なことをしたラ、ちゃんと罰を受けるんだゾ。どっちがいいかハア、自分で決めることダア」


 そう言って欠伸をするカっちゃんは、優月がどちらの道に行こうとも気にしないような素振りだ。

 ――いや、違う。きっと、間違った道を進まないように、導いてくれている。信じてくれている。


「ありがと、カっちゃん」


「カア。帰ったら日本酒出すんダア」


「はいはい」


 導きの神のお陰で、明日からも迷わず歩いていける。そんな気がした。

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