第21話 夜の公園のしじま

 閑静な住宅街のなかに場違いみたいに存在する、こぢんまりとした公園。

 

 東京という魔境には、こうしたちょっとした、スナック菓子によくついてる、おまけのおもちゃ程度の規模しかない公園が無数にある。


 まるでコンビニ感覚である。東京のディープな街歩きをしていれば、必ず目に入るくらいだ。


 そんなところで、信二と香住たちは二人のときを過ごす。


 辺りはしんと静まり返っている。



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 夜のしじま、とでもいうのだろうか。



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 駅前ではあれほど人がうるさい程に行き交っていたのに、少し離れた途端にこれである。


 

 田舎のあのただただ、静かな、落ち着いたり、物寂しくなったりと、いろいろと趣がある静けさではなく……


 この都会に突如として現れる沈黙の領域は、まるで沈黙を強いられているかのような、どこか強制的な圧迫感のある静けさ、いや、沈黙がある。


 そこへ帰り、眠り、また朝になり、起きて、ご飯を食べて、外へ出て、喧騒のなかへ飲み込まれていく。


 その繰り返しのなかにある、沈黙。それがこの閑静な住宅街、そのなかにある公園のもつ特徴だ。



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 対照的な空間を行ったり来たりする東京の人々。


 もちろん、ずっと喧騒のなかで寝て起きてを繰り返す人もいることだろう。


 しかしながら、こういう対照的な空間がすぐ隣り合わせで存在している東京という街を見つめると、どこかアンバランスで、繊細な心の上でギリギリ成り立っているような都市のように思えてきてしまう。


 まるで、その機能性を追い求めていった東京という都市自身が、田舎の静けさを無自覚に求めているような、そんな非現実的な姿を思い描いてしまうほどに……



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 印象的な東京のディープな沈黙……



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「信二、はいこれ」



 香住さんは信二にペットボトルに入った炭酸水を手渡した。


 お互いに健康意識を高め合っていこうと、さっきの道中で約束したみたいだった。



「ありがとう」



 信二は公園にある小さなベンチに腰をかけ、ペットボトルのふたに手をかける。



『プシュゥゥゥゥウウウウウウウ』



 炭酸が一気に抜けて、あたりに爽快な音が響き渡った。


 夏にぴったりの音。



「信二くんもだいぶ喫茶店で働いてる姿が様になってきたね。なんだか、とってもダンディ」

「……ごめん、ダンディってどういう意味だっけ。言葉は知ってるんだけど……。なんだかあいまいなまま覚えてて」

「あー、あるよね、そういう言葉って。美人局のこと、意味は合ってても、びじんきょくって字面から覚えてたりとか」

「あー、有名なやつだ、それ。そうそう、そうなんだよ。僕たちって結構そうやって、なあなあのまま言葉を適当に使ってるところがある。それで意外な場面で使い方違うよとか言われてめちゃくちゃ恥かくやつ」

「ねー」

「姑息とかも、本来はその場しのぎ、っていう意味だったのに、最近ではその場しのぎの、そのマイナスの側面が強調されてか、卑怯であること、ずるい、なんて意味が主流になってきてるよね」

「ねー。誤用も大衆的に広がっていけば、それが新しい意味として日々の文脈のなかに定着していく。全然大丈夫とかはニュースとかでも有名だから、みんな少しは誤用だって意識しながら使ってたりするのかもね」

「あはは、なんか面倒くさい人だね、それ」

「……それ私なんだけどな、信二くん?」

「あははー、ごめんって。ぶりっ子属性で頬膨らませてる香住さん、かわいいよ」


 信二は隣のベンチに腰を落ち着けていた香住さんがこちらを見つめて、頬を膨らませている様子を眺めてそういった。


 たしかに、どこか作っているような雰囲気があった。いい眺めだ。


「べ、別に信二のために、わざと可愛い子ちゃんになってるんじゃないんだからね!」


 これもまた、今ではすでに作られたツンデレとなっているが……


 帰ってきた、久しぶりのツンデレ香住。


 これは貴重だ。


 信二はこのツンデレ節を、脳内反響が小さくなるまで、じっくりと味わって聞いた。



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 しじま。


 少しの沈黙。


 夏の気配。



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「……話がだいぶと逸れたけど、香住さんって文学専攻だよね。やっぱり結構あるの、そういう誤用とかしちゃう経験」

「めっちゃあるよ。というか、むしろ言葉に真摯に向き合う領域であるからこそ、そういう誤用だったりちょっとしたニュアンスの違いだったりで、指摘されることが多いんだと思う」


 おどろくほど、すんなり普段の香住さんに戻ってしまった。確実に香住さんの性格は、信二という男と出会ったことで変化しつつある。


 すでに、ここまで臨機応変にペルソナを変えて会話をすることができるなんて……


 香住さんはそのあたりの学習がうまいみたいだ。今までよっぽど世間と隔離された空間にいたのだろう。赤ちゃん並の吸収力である。



「なるほど、考えるからこその、挑戦的誤用ってやつ。トライアンドエラーで、どんどん扱える語彙が増えていくっていう算段なわけだ」

「まぁ、意識的にやってるというよりかは、好きだから、結果的にそういう意味合いが含まれていた、と言ったほうがいいかな」

「んー、なるほど。で、香住さん。ダンディってどういう意味なんだっけ?」

「あははー。やっと戻ってきたね。ダンディはねぇ……」



 香住さんが考え込む。


 どうやら、ぱっと浮かんでこないみたいだ。


 終いにはスマホを出して、Wikip◯diaまで持ち出して、調べ始めた。



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 しじま。


 かなりの沈黙。


 夏の気配。


 少しの室外機の音。


 通行人の足音が遠くで響く。


 しじま。


 生ぬるい風が通り過ぎていく。



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 しばらくして、香住さんが、Wikip◯diaの画面をこちらに向けて喋り始めた。


 なにやら、ずらっと文字が並んでらっしゃる。これはなかなかの情報量だ。


「普通に考えるとね、ダンディっていう言葉には、ジェントルマンとか、教養のある身なりが整った男性とか、そういう雰囲気が含まれているものだと思うのね。でもね、見てこれ。このびっしりと書かれたWikip◯dia。大谷◯平様までとはいかないけど、ダンディにしては少々、ダンディが過ぎるのではないかしら」

「んーっと。うん。なんだか言いたいことはわかるよ、香住さんが大谷◯平が大好きなところとか、うん」

「つまりね、私が何を言いたいかというと、日々のなかでなんとなく使われているような言葉の裏には、このようにインターネットで入手できる形で、しっかりとした歴史的文脈が含まれているということなのよ。ダンディも例外ではないわ。ほら、見て。実はダンディにはこんな否定的な意味合いも含まれているのよ。おもしろいわね―うん、だからね。そういった言葉が現在に至るまで、どのように形成されていったかという……」



 香住さんが、熱心にものを語る姿を信二は初めて見た。


 

 目がキラキラしていて、とても眩しく映った。



 面倒くさい人だなとか、日常会話でこんな長い話なんて聞きたくないとか……



 そんな平凡な考えが出てくることなんて、まずなかった。


 

 それは、相手が香住さんという、恋人だからだろうか……


 

「言葉はただそこにあるだけではないのよ、信二くん。私たちはその上に乗っかって、ただ盲目的に日常会話で概念を扱うために言葉を使う。しかし、その言葉が辿ってきた歴史においては、その意味は常にぐらぐらと揺れ動いて、明確には定まることはなかったという可能性が見えてくるのよ。それってなんだか、言葉というものの扱いきれない性質、人間が言葉に翻弄されてきた歴史を垣間見ているように思えてこない?」

「人間が言葉を操ってきたのではなくて?」

「そう思える場面も確かにあるわ。しかし操れているのならば、どうして言語的コミュニケーションにおいて理解の齟齬が生じてしまうのかしら。それはその人の伝え方が間違っているからとか、配慮が足りないとか、色々な要素が複雑に絡まり合って生じた帰結なのかもしれない。しかしながらそこには常に言語というものが介在している。つまり、言語において自己の存在を明確に認識するしかない人間という存在である以上、私たちはどこまでも言語に隷属的であるという側面が浮かび出てくるわけよ。そしてそのように隷属している先の言語という概念自体が常に意味的に揺れ動いている、確定性がなく、意味も複数存在しているものなのだとするなら、当然のようにその可能性の限りにおいて齟齬が生じてもおかしくはない。言語という存在もまた隷属先としての、概念でしかないのかもしれない……と。あっ……」

 

 香住さんが最後のほうで、なにかやってしまったというような顔をして、信二のほうを見た。


 あまり、見られたくない一面を無意識のうちに見せてしまったといったような雰囲気だった。



「ごめんなさい、普段からそういう読書をしてきていない僕には、それが間違ってるのか正しいのかを判断する力も能力も何もないよ、香住さん」



 信二は炭酸水をごくりと一口、勢いよく飲み込んだ。


 香住さんが不安そうな表情をしている。


 とても不安そうな顔をしている……



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 しじま。


 かすかな呼吸の音。


 心拍が耳の鼓膜を振動させている。


 少しの緊張が静けさを強調する。


 また生ぬるい風が吹き抜けていった。


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「でも……。やっぱり、香住さんはすごいね。そうやって好きなことを、はっきりと好きだってわかるように、気持ちを人に向けることができて。それは今の時代、特に表面的な付き合いが友達でさえも増えた現代においては、とても難しいことなんだと思うよ。僕は正直いって羨ましいよ。まだ好きなことが何なのかさえ、よくわかっていない人間だから。香住さんが眩しくみえるよ……」



 信二は急にどこか悟ったような口で、香住さんにそう言った。


 そこには若干の切なさも含まれているような気がした。


 その文脈を香住さんが受け取ったかどうかはわからない。


 こういうところでも、言語的な文脈のなかにある揺らぎを、確かに、感じずにはいられない。




「……ありがと」

「素直に受け止めて、顔赤くしてる香住さん、かわぇええええ!!!!!」



 香住さんは顔を真っ赤にして、恥ずかしがっている。


 その恥ずかしさには何が含まれているのだろうか。


 自身の暴走してしまう好奇心への、自戒だろうか。


 それとも、大好きな人から認められたという事実からくる、高揚だろうか。


 はたまた、住宅街の静けさのなかで強調的に響いていた自身の声に対する、体裁を気にした羞恥だろうか。


 ………


 ………


 ………


 恥ずかしさという概念一つをとっても、そのなかには数えきれないほど複雑な言外の感情が含まれているように感じる。


 この今の二人の気持ちのぶつかり合いを、うまく切り取る言葉としての概念が、うまく思い浮かばない。


 もしかすると、言葉とは、この複雑な世界を、人間という生き物を通してみる、感情世界を単純化するために存在するのかもしれない。




「ほんとに、ありがと」




 香住さんが、もう一言、そういった。



 夜のしじまが、深まった気がした。



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 しじま。


 二人の近づく呼吸音。


 夏の夜に輝く一番星。


 昼夜の区別がつかなくなったセミの


 遠くでかすかに響くその鳴き声


 すべてがそのしじまのなかに……


 溶けていくように。

 


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 しばらくのときが流れていった。



 夜はさらに更けた。



 東京の暗闇はさらに影を濃くして……



 その沈黙のなかに沈んでいった。


 


【続く】



_________



 長くなっちゃいました。よろしくお願いします。

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