第20話 夜の公園のはじまり

 楽しいときほど時の流れが早く感じるように。


 忙しいときもまた同じように時が早く過ぎ去っていくのはなぜだろうか。


 バイトで考える暇もなく、ただひたすらに手を動かしているときや……


 仕事において何かのプロジェクトを率先して行い納期に間に合わせようとしているときなど……


 楽しいことも、忙しいことも、無我夢中で考える暇もなく取り組むからこそ、人はその過程に夢中になり、時を忘れてしまう、ということなのだろうか。


 それならば、私たちはあれこれ考えずに目の前のことに一生懸命になればいいのかもしれない。


 今まで歩んできた人生を振り返ったときに、その人生が短かったなと後悔するのか、はたまた短かったが有意義な人生だったなと思えるのか。


 同じ時のなかで、時があまりにも短いことを同じように悔やむのが人間という生き物なのであれば、なるべくその半生を有意義なものにしたいと考えるのが、私たちの生まれながらにして、運命的な願望だ。



 


 

 少なくとも小説とアニメ映画、2つの媒体で語られるこのコンテンツにおいて、一体創作者たちは何を私たちに問いているのだろう。


 それはではないことは明らかなように思える。


 残ったものや、生み出したものなんてものは、ついには滅びぬ、だ。拠り所にするにはあまりにも脆すぎる。


 私たちは私たち自身のうちに、その拠り所を作っていくべきなのかもしれない。


 何にも変えがたい、この一瞬のうちに生じる繊細な感情や……


 大切な人と巡り合ったときや、誰かと一緒に過ごしているなかで目にする、その一瞬の情景……


 そのなかで何を感じて、何を思うのか……


 そして何に情熱を注ぎ、どんな人間でありたいと思うのか……


 たぶん、そんなことを考える過程に、どう生きるかという、問いの意味が含まれていると……


 そう感じるんだ。


 ………


 ………


 ………


 土曜日の時が流れていく。


 夜も次第に近づいてくる。


 夏の夜は遅い。


 しかしながら、それでも確実に夜はやってきて、みんなの体を家に帰らせていく。


 そうして世の中はぐるぐると日々のなかで循環していく。


 ………


 ………


 ………


 信二はコーヒー豆をミルで挽き、コーヒーを淹れている。慣れない手付きではあるが、段々とその姿は喫茶店の雰囲気に馴染んでいく。


 ………


 ………


 ………


 そうして信二の時においても。


 夜が訪れた。



『カランコロン』



 外はすっかり暗くなっていた。


 夏休みということもあり、信二と香住たちはシフトで勤務時間を数時間ほど伸ばしていたのだ。


 マスターたちにもお世話になっているということで、その思いを伝えたところ、マスターたちは我が子を見るように喜んでくれた。本当にいい人たちだと思う。



「お疲れさま」



 香住さんの柔らかで落ち着く声が、信二の耳をくすぐる。


 どうして香住さんの声はこんなにも優しいのだろう。


 信二はこの声が好きだった。とても心が落ち着いていく気がする。



「お疲れ様、香住さん」



 信二は香住さんと隣に並んで、夜の街を歩いていく。


 数週間前と同じような夜の光景。


 あのときは、かなりの打算的な思いで香住さんとは接してきていた。しかし今では純粋に、香住さんとただ近くにいて、長く語り合いたい、話していたいという、率直な気持ちが前に出ている。


 もちろん、心に秘めておきたい思いもある。とてもじゃないが、いまこのタイミングで、打ち明けるなどといった間違った行動は取りたくない。


 ………


 しかし、ふと信二は思うのだ。


 こうした純粋な『好き』な気持ちを、複数の女性に対して抱くは、一概に間違っていると言えるのだろうか。


 もちろん、それが相手を傷つけてしまうことになるのなら、間違っていると言えるのかもしれない。


 しかしだ。理想論ではあるが、もし相手がそのことを受け入れて、それでもなお信二と一緒にいたいといってくれるような状況であったとした場合、果たしてそれは誰かに非難されるべきことなのだろうか。


 誰が何を理由にそれを非難する権利を持つのだというのだろうか……


 常識とでも言うのだろうか。自分がされたら傷つくからとでも言うのだろうか。


 ……


 ……


 ……


 信二はふと、尾崎◯の歌詞の一節を思い出すことがある。




 『正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで』




 この正しさという曖昧な概念に人は振り回され、何もわからないから常識を盲信し、わかったようになって、大半はそれとなく時が過ぎ去っていく。


 結局はこの正しさというものも、先の話でいうところの、一つの仮初の成果物でしかないのかもしれない。


 ……と信二は二股いや、三股を始めてから、そんなことを考えてしまうのだ。



「夜でも暑いね」



 香住さんが、ポケットから羽毛のハンケチを取り出して、額の汗を拭き取る。



「信二くんも拭く?」

「いやいや、なんかそれで僕が受け取ったら、変態みたいでしょ」

「あはは、それもそうだね。でもこういうことすると、男の子は喜ぶって、テレビでやってたと思う」

「香住さんは、僕をそんな有象無象の男どもと一緒にしたいんだ」

「あはは、信二くん、プライドたかーい」

「――なんか香住さん、段々大学生らしい余裕が出てきたような気がするな」

「あはは、そうかな。そうだといいな」



 香住さんは、それとなく、信二の手を握った。


 汗でしっとりと湿った左手。


 信二は右手でそれを優しく握りしめる。


 どれだけの強さで握ればいいのか、まだよくわからないが……


 信二の心はそれだけで、手を握るだけで、驚くほど満たされてしまうのだ。


 この気持ちを……


 大切にしていきたい、と信二は思う。



「今日は公園でいろいろ信二くんとお話したいな」

「でも蚊とか多くない?大丈夫かな……」

「蚊よけのスプレー持ってるから大丈夫だよ。あとあそこの公園は水場とか草むらとかないから、そんなに蚊もいないだろうし」

「そうなんだ。じゃあ、飲み物とかお菓子とかコンビニで買ってからいこうか」

「そうだね、私は炭酸水とかにしようかな~」

「グミ系、スナック系、どれがいいかな」

「カロリー控えめのがいいかな」



 ………


 ………


 ………



 会話がするすると時のなかで交わされて、ふたりの夜の行動をやんわりと決めてく。


 夏の夜。


 都会の喧騒は鳴り止まず、しかし閑静な住宅街はそこに確かに広がっていて……


 無機質な、都市開発などの一貫で義務的に作られたかのような簡素な公園で……


 東京の空でも、ずっと強く光り輝く一番星を真上に飾って。


 二人の公園での夜が……


 二人のほかには、誰にも意識されずに。


 こっそりと始まったのだ。



【続く】

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