第19話 土曜日の恋人
信二は夜通し馬鹿をして、夏休みの宿題の大半を終わらせることに成功した。残るは比較的、創造性の求められる自由英作文や、ここはしっかりと考えてから提出したいと思えるような、信二にとって未知の知識を多分に含んでいる科目だった。
夏休みの課題はこのように臨機応変に、自分にとって必要な範囲を、必要な努力量でこなしていくと、案外はやく終わったりするものだ。
もちろん、ただ反復的に課題をするという行為も、脳科学的に正しいということがデータに基づく限りでは証明されているが、受験勉強という長いスパンでそれを見たときに、それはあまりにも時間がかかりすぎる。それでは一生に一度の大切な青春という時分を、ずっと机と向き合って過ごしてしまうことが、最適解になってしまう。
受験勉強とは効率的に計画的に、無駄のないように、日常のなかに取り入れていくべきものだ。決して、それに自らの人生を呑まれてしまってはならない。それだけしか、見えなくなってしまうのは駄目だ。
受験勉強で最も学ぶべきは、自ら計画性をもって、効果的な勉強法は何かを考える力を養うところにある。点数とか成績とか、それ以外のことはむしろ後から着いてくるのだ。
大切なことは、目に見えなくなりやすい。
そしてそれは、しばしば大人という大きな子どもが見えなくさせるのだ……
…………
…………
…………
「ふぅ……モンスター級にカフェイン盛りすぎた。頭くらくらする……。これじゃあ学生シャブ漬け戦略に呑まれたも同然じゃねぇか」
信二はそんなことを、昼前の自室で、すでに電源が落とされたデスクトップPCを前にして、言っている。
夏休み初日から飛ばし過ぎである。
しかしながら……
信二も信二で、どうしてカフェイン摂取という目的だけならば、比較的、健康なコーヒーやら緑茶やらを選ばないのだろうか。
どうしてエナジードリンクなどに手を伸ばしてしまいやすいのだろうか。
なぜ学生の間では、翼を捧げる飲み物や、エナジーがモンスターな飲み物をただ飲む行為だけがカッコいい、飲んでる俺、カッコいい……みたいな風潮ができてしまったのだろうか。ただの妄想かもしれないが……。
もしそれが企業的な戦略であるとするならば、私たち学生はまんまとその戦略に呑まれたことになる。某牛◯チェーンのように口が軽くなければ、このように企業の内密な戦略というものは、案外世の中をすぐに変えてしまえる代物なのかもしれない。あな恐ろしや。
とまぁ……このような胡散臭い戯言はここまでにしておいて。しかしながら、深夜の翼を捧げるドリンクは飲み方を間違えると、将来的に文字通りになる確率も高いので、やめておいたほうがいいことは確かである。深夜の常用は……言うまでもない。
「あー久しぶりに馬鹿なことしたな……。でもみんなとできて、楽しかったぁ……」
信二は机の上に突っ伏しながら、ちらっと、卓上の時計を見る。
時刻は11時30分を回っていた。
土曜日の昼前。
近くの公園の木々に張り付く、少数のセミ。
その小さな個体の振動によって、張り裂けるほどあたりに響く、鳴き声。
街中が、夏の雰囲気に呑まれ、昼前から家のなかはクーラーがガンガンにかかっている。
室外機の、カラコロカラコロと、周期的な音。
夏。
いわずもがな、外は暑い。
しかし、それとは対照的に冷えた、少し機械的な涼しさのなか、信二は少しだけ、体調を悪くした。無論ほとんどが徹夜のせいである。
「ふぅ……バイト行かないと」
すっかりエセ関西弁が抜けきった信二は、今日も社会の歯車になりにいく。言い方は悪いかもしれないが、働くとは間接的ではあるが、そういう意味合いを含んでいる。
………
………
………
今日は土曜日だ。
学生以外もちゃんとしっかり、休みの曜日……であるはずだ。
信二はバイト先でコーヒーの特訓やら、接客やら、レジ打ちやらをしなくてはならない。
高校生の夏休み。
それは、今までの夏休みとは、どこか少し違う。
段々と社会との距離が近づいていって、どこか不思議な切なさが漂い始める。
周りの友達も段々とどこか、変わっていく。
どこか、確実に……
しっかりと表面も、内面も変化していく。
そして、信二もそのなかで例外なく変わっていく。
高校生活とは、そんな変化の過程のなかでも、より多感で繊細で……
かけがえのない思い出となって……さいごは消えていくんだ。
「母さーん!!!!!!」
信二の声が自室の扉を開けて、家のなか全体に響きわたる。
「お
隣の部屋から顔だけちょこんと出して、少し怒り気味の口調でそう言う妹。
「昨日はこっちまで声聞こえてたんだから!!!防音シートでも買ってきて対策してよ!!!それか壁もっと厚く作り直してよ!!!」
信二の妹はいつも、こういう怒り方をする。
「ごめんなぁ~。昨日はちょっと盛り上がっちゃてさ……。今度から気をつけるから」
信二は兄として、少しというか、かなり頼りないと妹から思われているようだ。
妹の頬がむすぅっとさらに、膨らんでいく。
それもそうだろう。近隣トラブルなどは、そのほとんどが騒音であることを考えると納得がいく。たいして仲も良くない、第三者に自身の生活圏の静けさを損なわれることに、人はひどく本能的な拒絶をみせる生き物なのだ。
「べ、別に私たちは家族なんだから、少しの声とか、そういうのは聞こえてきても許すよ。でもね、おにい。妹だから言うけどね、お兄はたいして、自分が面白くないってことに気がついたほうがいいと思うよ。エセ関西弁は、ずっと使ってると本当にうざいから!!!それずっと言ってれば面白くなるとか思ってるなら、関西人のアイデンティティ穢してるも同然だから!!!!関西弁なめんな!!!あとお母さんたちはもう出かけたから!!冷蔵庫にあるもの温めて食べてだってさ!!」
『バタン!!!!!!!!!!』
ドアが勢いよく閉められた。
静寂……
沈黙……
…………
妹は現在、中学2年生。信二とは3つほど離れている。
(昔はもっと、お兄ちゃんお兄ちゃんと甘えてきてくれていたのに……。僕が相対的に幼くなって……。いやいや、こういう考え方の時点でもう僕終わってないか?)
信二はしばらく、妹のいた空間を見つめていた。
「ふぅ……準備するか」
信二は少しのもやもやを心に残して、バイトへ行くための準備を始めたのだった。
その際……
「俺ってそんなに面白くないのか……」
信二の自問自答的なひとりごとが、ずっと、ずっと……
絶えなかった。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
夏の青。
入道雲が上昇気流にのって、上へ上へと広がっていく。
モヒカンのように長く伸びた、入道雲の、その先端を見ると、夏の壮大さを感じる。
汗。
信二の接客用の控えめなカジュアル着がすぐに湿っていく。
暑い。
今日も今日とて、東京の太陽は強く行き交う人たちを照りつけて、人に熱を籠らせていく。
いつから、夏はこんなにも暑くなってしまったのだろうか。
それとも、これは私たちがそう感じているだけ、なのだろうか……
『カランコロン』
またこの喫茶店に戻ってきた。
信二は一気に涼しくなった、そのレトロな空気感を体いっぱいに吸い込む。
寝不足の体に染みわたる、涼しさだった。
「信二くん!久しぶり!今日から夏休みだね!」
香住さんが、信二の姿を見つけると、すぐさまそう言って駆け寄っていく。
常連さんが、ニコニコと信二と香住さんを見つめている。
土曜日。
夏休み一日目。
信二はこれから毎週の土日をここで過ごすことになる。
香住さんと、一緒に過ごすことになる……
「久しぶり、信二くん。今日もよろしく頼みますよ」
マスターの落ち着いた声が、信二にかけられた。
「はい、マスター。今日こそ、コーヒーの真髄を掴んでみせます!」
「うんうん、その意気だよ、信二くん」
マスターはそういって、嬉しそうにまた定位置に戻っていった。
そんななか……
香住さんが信二の側によって、ふたりの手を背中側に寄せて、後ろで控えめに握った。
誰からも、マスターからも、見えないように。
こっそりと……
控えめに、握った。
「ふふふ、はやくこうしたかった」
「うん……僕も」
夏休みはこうして動き始めた。
信二と香住の、二人の夏休みは、こうして……
こっそりと控えめに……
「ふふふ、信二くん。汗びっしょり」
「走ってきたから……」
「ちゃんと拭かないとだめだよ」
「わかってるって、香住さん」
「信二くん、結構そういうところ抜けてるから」
「えっ、そんなふうに思われたの?」
「うーん、そんな感じがするだけ……かな?」
「なんですか、それ。あはは」
動き始める。
ただそこには形は違えど、二人のはっきりとした『好き』の気持ちが、確かに存在している。
している、はずだ……
………
………
そんなこんなで。
信二はしばらくして、着替えスペースに足早で歩いていき……
土曜日の労働を、始めたのだった。
忙しい、時間がただただ流れていった。
【続く】
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