48.涙のあと

「ルナリー……ルナリー……ッ!」


 ルナリーは細い息をわずかに往復させる。

 もう旅立ちはすぐそこだ。

 だというのに……いや、だからなのか。

 ひとつ気になることを思い出した。


 エヴァンダーが作ってくれた、小瓶に入った赤い薬。

 あれに、既視感があったことを。


「エヴァ、さま……おね、がい、が……」


 もう瞼も開けられないし、声もまともに出ないけれど。

 ルナリーは必死の思いで絞り出す。


「なんですか……?」

「私の……バッグに……瓶、が……」

「……瓶?」


 その瞬間ガタッと音を立て、椅子から立ち上がったのがわかった。鞄を探っている気配がする。


「これは……秘薬? これをどこで……なんの秘薬なのですか?!」

「わから……ない……四週、目……エヴァン、さまが……渡して……くれ、た……」

「四週目に、私が……?!」


 伝えた瞬間、瓶の蓋が開けられた音がして。


「飲んでください!」


 ぐいっと上半身を起こされた。唇に硝子のひんやりとした感触が伝わってくる。


「ん……んくっ」


 うまく飲めない。口の中に入ってくるだけで、嚥下できない。


「飲んで!」


 そう言ったかと思うと、液体をこぼさないようにするためかキスされた。

 頭を上に向けられ、ごくんと喉を鳴らす。

 その瞬間、口の中の液体は胃へと下りていった。


「う、けほっ! まずい……っ」

「ルナリー……寿命は……!」

「え?」


 パチリと目を開けると、エヴァンダーの必死の形相が飛び込んできた。

 慌てて寿命を確認したルナリーは──


「残り五十年……え……?」


 思わずかっこ悪く口を開けた。

 息も苦しくない。いきなり寿命が五十年も延びている。

 つまり、七十歳まで生きられる。


「ルナリー……よか……よかった……」


 混乱するルナリーに、エヴァンダーがぎゅうっと抱きしめてくる。

 息苦しさは……ない。

 体も動く。

 あまりに急すぎて、寿命が延びたことへの実感が湧かない。


「どうして……あの薬は……」

「寿命を延ばす秘薬です」


 淀みなく答えながら、エヴァンダーは少し離れて微笑んでくれた。

 その頬にはまだ、涙のあとがたくさんついている。


「どうして知ってるの? 四週目の記憶があるということ?」

「いいえ。けれど私はずっと違和感を覚えていたのです。なぜ私は一緒にルワンティスに行かずに、別行動をとったのか。瘴気の中にいれば、いずれは加護も切れて操られることはわかっていたというのに」


 そう言われればそうだ。

 あの周回のエヴァンダーは、理解できない行動をとっていた。いつも理解できた試しがないので、気にしていなかったのだが。


「操られるのがわかってて、魔女の元へ……どうして?」

「魔女の寿命を延ばす秘薬を、手に入れるため……私なら、そうする」


 そのために危険を冒して、操られることも死ぬことも承知で魔女の元に行ったのだ。

 ルナリーは下唇をぎゅっと噛むと同時に心を震わせた。


「ルナリー様……いえ、ルナリーから秘薬の話が出てこなかったので、私は手に入れるのに失敗したのだと思っていました。たとえ成功していたとしても、飲む前に巻き戻ってしまっていたのだと……まさか、薬が時空を超えているとは思ってませんでしたし」


 ルナリーはエヴァンダーの頬の涙のあとを、そっと手のひらで拭ってあげた。


「私も不思議に思ってたの。どうしてこれだけ時空を超えられたのかって」

「なにか特殊なことを?」

「いいえ。ただこれだけは手にぎゅっと強く握ってたわ。だから一緒に巻き戻れたのかなとは思ったんだけど」


 ルナリーの推理に、「そうですね」とエヴァンダーは顎に手を当てながら考察してくれる。


「秘薬は魔女リリスの作ったもの。それにカイロンのネックレスがなんらかの反応をしたのかもしれません。ネックレスをして巻き戻るルナリーの手の中にあったのも、功を奏したのだと思いますが。それにしても──」


 エヴァンダーは頭痛でもしていそうな顔をルナリーに向けた。


「どうしてこの秘薬があることを黙っていたのですか」


 そんな顔で問われてしまい、ルナリーは肩をすくめた。


「バタバタしてて薬の存在を忘れてたわ……言っても記憶のないエヴァン様には、なんの薬かわからないと思っていたし」

「言ってください……っ! 四週目の話を聞いた時、自分の無能さに心底嫌気が差していたのですから」

「ご、ごめんなさいっ」


 慌てて謝ると、エヴァンダーはやっといつものようにうっすらと笑ってくれた。

 見慣れたいつもの顔に、胸がきゅうっと音を立てているようだ。


「ぎりぎりでしたが、間に合ってよかったです」

「うん……ありがとう、エヴァン様……」


 エヴァンダーの笑みを見ると、ようやく寿命が延びたのだと実感が湧いてきた。

 何事もなければ、七十歳まで生きていられる。

 愛する人と一緒に人生を歩んでいけるのだと思うと、安堵の涙が溢れ出た。


「ずっと一緒に生きていきましょう……」

「ええ……嬉しい……嬉しい……っ」


 わぁっと泣きながら抱きつくと、エヴァンダーは優しく受け入れてキスしてくれる。


 生きている。


 これからも、ずっと一緒に生きていける。


 嬉しくて、涙も口づけも止まらない。


「大丈夫か、イーヴァ。今、ルーの声が聞こえた気が……」


 ゆっくりと扉を開けたアルトゥールの頬には、涙のあと。

 ルナリーの起き上がっている姿を見て、大好きな兄の蒼い目は大きく開かれた。


「……ルー?! 時間は、もう……」


 アルトゥールは時計を確認してから、もう一度ルナリーの方へと戻ってきた。

 蒼い瞳が、徐々に滲んでいく。


「生きて……るのか……?」

「ええ……寿命が延びたの……五十年……!」

「五十年………そうか……そうか……!」


 涙のあとの上を、また涙が伝っている。

 後ろから入ってきていたゼアが、アルトゥールの背中をさすっていた。


「よかったわね、ルナリー……奇跡が、起こったのね……」


 ゼアも、目に涙をためながらそう言ってくれて。

 しかしルナリーは首を横に振る。


「奇跡じゃないわ。エヴァン様のおかげなの」


 そう言って、もう一度愛しい人に顔を向ける。

 夫となった人は嬉しそうに目を細めて笑っていて。

 ルナリーとエヴァンダーはもう一度、口付けあった。

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