47.結婚、そして──

「手を、握ってくれる……?」


 ルナリーがお願いすると、エヴァンダーは優しく手を包んでくれた。

 男の人の大きな手は、愛する人だとなお安心感を得られる。


 ずっとこの手を握っていたかった。


 十年先も、二十年先も、五十年先も、ずっと。


「……最期だと思うと、なにを話していいかわかんなくなっちゃうわね……いっぱい伝えたいこと、あるはずなのに……」

「なんでもおっしゃってください。ルナリー様の声を、言葉を、胸に刻んでおきたい……」


 エヴァンダーの言葉にルナリーは胸を震わしながら、それでも微笑んでみせる。


「そうだなぁ……エヴァン様は、私のどんなところが好きだった?」

「伝えきれないくらい、全部好きですよ。けれど最初に恋だと感じたのは、幸せそうにアリアン地方のイチゴタルトを頬張っていた時かもしれません」

「やだ、そんなところで?」

「大変かわいらしかったのですよ」

「も、もう……っ」


 柔らかな笑みを見せてくれるエヴァンダーを見て、ルナリーもほっと笑顔を見せた。

 恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しい。


「あのイチゴタルトは格別だったの。慣れない旅で大変で、音を上げちゃった時、イチゴタルトを食べに連れて行ってくれたのよね。本当に美味しくて、またがんばれるって言ったら、アル様もエヴァン様もほっとしていたわ」

「私もアルも、元気が出たルナリー様を見て嬉しかったのです」

「ふふっ。もう一度、食べたかったな」


 そう言葉に出してしまうと、胸がぎゅっと痛んでしまった。

 最期は笑っていようと思っていたのに。


「……ごめんなさい、つい……」

「いいえ。なんでもやりたかったことを教えてください。聞きたいんです。ルナリー様が、どんな未来を描いていたのかを」

「エヴァン様……」


 ルナリーも、伝えたかった。

 叶えられることのない未来だったが、愛する人に知っていてもらいたい。


「私ね……」

「はい」

「お母さんの作ったウェディングドレス、見たかった……着たかった……」


 きっと今頃、どんなデザインにするかと悩んでいるドレスを。

 もう、見ることはできないけれど。


「それを着てね……エヴァン様と、結婚式を挙げるの。お父さんは泣いていて、お母さんはまったくもうって怒りながらも笑ってて……」


 そんな両親の姿を、見なくとも簡単に想像できる。


「エヴァン様は白いタキシード姿で、すごく似合ってるの。私、きっとまたエヴァン様を好きになっちゃうわ」


 ふふっと笑うと、エヴァンダーも口元を綻ばせて髪を撫でてくれる。温かくて、心地いい。


「アル様やゼアさんたちに祝福されながら、誓いの言葉を口にして……そうだ、結婚したら、エヴァン様の誕生日にはクッキーを焼かなくちゃ。私、本当はもっとちゃんとしたクッキーを作れるんだもの」

「ええ、きっとおいしいに違いありません」

「ふふ。そうして二人で新婚を過ごしていたらね、赤ちゃんが来てくれると思うの。エヴァン様はすごく喜んでくれて、私のお父さん以上の子煩悩になるわ、きっと」

「それは、気をつけなければいけませんね」


 エヴァンダーがクスッと笑ってくれて、ルナリーも満面の笑みを見せる。

 この笑顔を、心に刻んでくれていたら嬉しいと思いながら。

 ルナリーはまた、あったはず未来に思いを馳せた。


「私は一人っ子でしょう? だから子どもは二人以上欲しいなって……エヴァン様は、少ない方がいい?」

「そんなことありませんよ。兄弟が多いと大変なこともありますが、助け合えることも多いので」

「わぁ、よかった……! エヴァン様の子どもなら、きっと利発的で優しい子になるわ」

「ルナリー様の子ですから、きっと愛らしくて真っ直ぐで、人に癒しを与えられるいい子が生まれますよ」

「ふふふ、楽しみね」


 未来の想像は、こんなにも楽しい。

 そしてそれを実際に体験できないことが、悲しい。


「教会の園庭に行った時に、寄り添っていた老夫婦がいたのを覚えてる?」

「ええ、覚えていますが……」

「私ね、あんな夫婦になるのが夢だった。一緒に年を重ねていって……未来じゃなくて、たくさんの思い出を話すの。子が生まれた時のことや、家族で遊んだこと……時には喧嘩した時のこと……仲直りして笑って、あんなこともあったねって……たくさん、たくさん話したかった……」


 笑って話していたはずなのに、いつの間にか視界が潤んだ。

 きっと夫婦を続けていれば、幸せで楽しいことばかりではないだろう。

 それでも、きっとエヴァンダーとなら共に乗り越えていける。そしてすべてが思い出となり、最後には笑い合えたはずだと信じている。


 なのに。


 残り、八分。


 本当の現実は、こうも厳しい。


「ルナリー様……」

「ごめんなさい、私が泣いちゃって……最期は笑ってって、思ってたのに……」

「結婚、しましょう。ルナリー様」

「……え?」


 エヴァンダーの唐突の言葉に、ルナリーは耳を疑った。


「結婚してください。今、すぐに」


 吸い込まれそうな翡翠の瞳。

 聞き間違いではなかったようだが、頭は混乱する。


「結婚って、そんな……」

「誓約書も結婚指輪もありませんが……私はルナリー様を、妻としたいのです」

「でも、私はもう」

「お願いします。私は……ルナリー様の夫でありたい」


 揺るぎない覚悟のようなものが、その瞳から感じられた。


 けれど──


 法的に本当に結ばれるわけじゃなくても、ただの口約束でも……いや、口約束だからこそ、エヴァンダーはきっと誓いを遵守する。

 ルナリーの死後もエヴァンダーは夫であり続けてくれるだろう。一生、死ぬまで。

 嬉しくないかと言われたら、嬉しいに決まっている。泣けるほどに、嬉しい。

 だからこそ、残り何十年と続くであろう愛する人の人生を、この世からいなくなる者のために棒に振ってほしくなかった。


「本当に心から嬉しいけど……エヴァン様には、幸せになってほしいの。あと数分の命の私と結婚なんかしちゃ、きっと後悔するから……」

「結婚しない方が後悔します。ルナリー様と結婚できなければ、私は生涯を独身で過ごすことになります」

「そんなことないわ。エヴァン様にはたくさんお見合い話があるって言ってたじゃない……その誰かと結婚すれば……」


 言いながら、胸が引き裂かれそうになる。

 自分以外の誰かがエヴァンダーの妻として隣に立つと思うと、気が狂いそうだ。

 言葉を続けられないルナリーに、エヴァンダーは生来の真面目な顔で口を開いた。


「私を既婚者にできるのは、ルナリー様だけです。どうか、私のプロポーズを受け入れてください」

「でも……」

「私とは、そんなに結婚したくありませんか?」

「そんなわけ……ないじゃない……っ」

「では今すぐに誓いの言葉を。私を夫とし、生涯愛すると誓ってください」


 もう、五分もない生涯だけど。

 こんなのはエヴァンダーを縛り付けるだけだとわかっているけれど。

 お互いに気持ちは同じなのだと思うと、ルナリーはたまらなくなって口を開いていた。


「私は……エヴァン様を夫とし、生涯あなただけを愛することを……誓います」


 宣誓すると同時に、喜びなのか悲しみなのか、するりと涙が流れた。

 エヴァンダーは目を細めて、全身が痺れるほどの甘い声を出してくれる。


「エヴァンダー・ウィンスローはルナリー様を妻とし、生涯ルナリー様だけを愛し続けることを誓います」


 とうとう誓わせてしまった。

 申し訳なく苦しくもあったが、嬉しい気持ちは確実に心の花を咲かせている。

 エヴァンダーも同じだろうか。


「ルナリー様、誓いのキスを」

「エヴァン様、ルナリーって呼んで……もう、夫婦でしょう?」

「……ルナリー」


 名前を呼ばれると、胸がきゅうっと喜んでいるのがわかる。

 エヴァンダーは優しい瞳を微かに潤ませながら、ゆっくりとルナリーに唇を寄せた。


「愛しています」


 重ねられた唇。

 生涯お互いだけを愛するという、誓いのキスを。

 胸はじんわり温かくなり、いつまでもこの時間が続けばいいのにと願ってしまう。


 だけど、幸せなキスは十秒ほどで終わりを告げる。

 と同時に、ポタリとなにかがルナリーの顔に当たった。


「エヴァンさ……ま……」


 エヴァンダーの翡翠の瞳から、大きな粒の涙が降り注がれる。

 恋人が……いや、愛する妻がもうすぐこの世から去るとわかっていて、笑って見送ってほしいなどと、どうして思ってしまったのか。

 手を伸ばしてその涙を拭いてあげたくても、もう手は動かない。


「もっと……一緒にいたかった……ルナリーと……生きていきたかった……!!」


 大きく崩れる、エヴァンダーの顔。目からはとめどなく涙が溢れ落ちて、ルナリーもはらはらと涙が流れ始めた。

 死にたくない。

 愛する夫を残して、逝きたくなんかない。


「エヴァン様……ごめんなさい……エヴァン様……」

「逝かないでください……いやだ、ルナリー……ッ!」

「ごめ、なさ……」


 ひっくと喉がつかえて、言葉にならない。

 最期の瞬間までエヴァンダーを見ていたいというのに、視界が滲んでよく見えない。


「私……幸せ、だった……」


 伝えるべき言葉を口にすると、体は納得してしまったのか。

 残り三分を切ったところで、瞼が一気に重くなった。

 目を開けていられない。息も苦しい。


 せめて最期まで、エヴァンダーの声を聞いていよう。


「愛してます……ルナリー……」


 泣き続けるエヴァンダーの顔を最後に、ルナリーは目を瞑った。

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