第8話 ゆらぎの中に生きる少女⓻

「秘密の会、ってね、私や他の仲間で革命を起こすの」

「革命?」

 みーちゃんは、今、高校生などを含め、その会の準備をしてると言う。

 今振り返ると、ニューエージの思想の先走りだった。だが、私は若かった。何も知らずに『ゆらぎの中』から、何もかもが揺らいでいる世界から見ていた。

「今度会わせてあげるよ。ちょっと今、その前段階なんだ。本当に革命が起きるのよ? この日本で」

ーそうか、叔父さんが言っていた、周君の『変な思想』ってこの事だったんだー

私はそう感じ、是非入りたい、と言った。

「今度会う時ね。じゃ」

みーちゃんは、その場から立ち去って行った。

 中国が内戦状態にあったのが終結した。国民党率いる蒋介石ら中華民国は、台湾に退き、その後、ベトナムでアメリカと中国共産党(後の中華人民共和国)の代理戦争があることになる。アメリカが日本に勝ち、アメリカ人が日本に来て、11年経つ。大気汚染が進み、スモッグガスが日本の各地で報告されていた。水俣病、イタイイタイ病、その他大型台風なども、この年あたりから出てくる。


 日本の女性に参政権が与えられ、女性が優位になろうとしていた時期である。朝日新聞でサザエさんが始まるのもこの年あたりだ。

 私はその年(昭和31年)の秋から冬にかけ、私は猛勉強した。数校の大学を受験する為である。

 秘密の会の話は夏にみーちゃんにあの日以降ものすごく気になった。

ー秘密の会か、、、、ー

私はずっとその事が気がかりだったが、何、臆することはない。大学に受かりさえすれば、その秘密の会に参加させてもらえる、と、考えた。

ー勉強、勉強、勉強、、、ー

私は視力が落ちていったが、それと同時に、学力は上がってきた。視力は0.1 眼鏡を掛ける様にならざるを得ず、しかし、それが写真に写るのが嫌で、偶に出かける時、眼鏡を外し、遠くの景色を見るようにし、また、当時、目に良いとされた漢方薬を飲んでいた。ただ、家にいて、何かを見ようとした時だけ、眼鏡をかけた。度の弱い眼鏡だが。

 この時、叔父さんの家にはテレビがあった。叔父さんはテレビを観て、

「若乃花勝ったな」

と言った。若乃花(初代)が勝った。その年は夕暮れは、鮮やかな夕陽に映えた日だった。

 モガを意識していた私だが、服を改めて、母から送られてきたセーラー服に服装を変えた。もう2度とタバコは吹かさない、と心に決めた。


 昭和31年(1956年)暮の頃であった。


 叔父さんがA大学の教授である事は前に言ったとおりだが、その大学の相撲部の顧問でもあった。叔父さんが目をかけていた、大学生力士に、後に麒麟児と名付けられる、有望な学生力士がいた。

 当時は相撲の他、剣道などが流行り、相撲、ボウリング、野球、映画と娯楽ができつつあった。子供達は、紙芝居に夢中になり、駄菓子屋に通って、今では考えられない、添加物いっぱいの甘いモノを買っては、飲み食いしていた。しかし、家に帰れば、また、甘いおやつがあり、、、と食べ放題食べれる時代であった。


 私が好きな食べ物はカレー•ライスだった。

 私はカレー•ライスの旨さの虜になった。

 森家の家族構成は、叔父さんの潔、その長男を真、次男を周、その妹の貞江の5人家族がいた。どうも叔父さんの家では、義叔母さんが『権威』を持ち、叔父さんは従うという立場らしかった。


 (ここで、周りの人達の服装を加味したい。歳のある程度の男性や女性は着物を着ていた。履いていたのは、男子学生は下駄。男子高校生や大学生は学ラン、女生徒はセーラー服を着ていた。私は洋服を着て私はハイヒールを履いていた。前述したが、後に改めた)

 

 この時代、日本の南極探検隊が、南極に上陸したのが、私が大学を受けた年である昭和32年1月。


 翌、昭和32年2月の事である。私はM大学を受けて、その後、M大学生になるのである。

 そして、M大学文学部神学科に所属することになるのである。私は21歳になろうとしていた。

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