第63歩 前乗り

 工事現場監督のEさんから聞いた話。


ある災害現場の復興事業に参加するため会社は被害の比較的少なかった

旅館を借りきり長期間出張する関係者や人夫たちの宿を確保した。


災害の凄惨さは想像を超えていて

『これは骨が折れるな』と覚悟した。


 監督は青写真で役所と何度も打合せしたり重機の搬入から工事業者への下請け発注など準備せねばならない上に安全確保の責任も重く

目が回るような忙しさだった。


 その初日、各所の視察と挨拶回りを済ませ

会社の予約した旅館にチェックインした。


Eさんは決断が早く話の早い男だった。


こういう出張の工事現場は通常であれば週末か月末かに宿の代金を支払うのが普通だったが災害のあとという事もあり

宿の主人に足りなくなったら毎月末に現金で支払う

ということで前払金、百万円を主人に手渡した。


地域の銀行もストップしていたので旅館の主人は受け入れ準備の心配をしていたが、だいぶ安堵されたのだという。

「食事の予算だけは確保してあるので職人たちも来たら

毎日ご馳走を用意してください」

と具体的な毎日の食事予算を提示して、お願いした。


「さて、部屋は」話を変えると主人が申し訳なさそうに


「今晩だけ大広間で寝て欲しい」という。


何でも災害で、ちゃんと機能している宿が足りなくなり一般のお客様で今日は満室なのだという。


だが仕事で来ているEさんは嫌な顔一つせず快諾した。


Eさんは、うっかり目覚まし時計を忘れてきたのに気がつき

主人に「朝6時に起こしてくれ」と頼み大広間に寝床をとった。


 大広間は地域で冠婚葬祭時に使用されていた大広間だった。


Eさんは夜9時過ぎに、もう布団に入ったのだが大広間にポツンと独りで何だか落ち着かない。

トイレに立ち、ついでに主人にわがままを言って日本酒を分けてもらい

寝酒を飲んで床に就いた。


―チリーン


夜中、大広間にりんの音が響き目が覚めた。

広間は真っ暗で気のせいかと思っていると


―チリーン


透き通るような音がハッキリ聞こえる。


―チリーン、のしのしと

今度は誰かが畳の上を歩く音がする。

こちらに向かって歩いてくる。


Eさんは怖くなり布団をかぶってギュッと目をつむった。


―チリーン、のしのし


人の気配は布団の周りを、ゆっくり歩き回った。


『誰か知らんけど勘弁してくれー』心の中で叫び布団の中でじっと我慢した。


「おはようございます」

朝になって、主人が起こしに来た。


「おはよう、ちょっとオヤジさん夜中、まいったよチリーンって

おばけ出てさあー」


「えぇ?」

眠れなかったと苦情を言うとオヤジさんは平謝りだった。


その様子を見ているうちに何だか主人が気の毒に思え、

それ以上は何も言う気にならなかったが、

さすが男の職場人間

「オヤジさん朝っぱらから、あれだけど芸者さんとかコンパニオンさんとか居るのかい?」

ニヤーとEさんが笑うと親父さんもニヤーと笑って


「まかせてください」と言った。


 Eさんは、つくづく取引の上手な人だ。

 

 その後、段々と忙しくなってきて個室も会社の仲間で満室。


例の大広間は沢山の職人さんや作業員の大部屋として大層役に立った。


 Eさんは作業員に

「大広間では何か不便や変わった事はないか」聞いてみたが


「夜中に屁こき大会がある以外は問題ないです」という事だった。


やがて工事は完了したが初日の大広間で歩き回る人が何だったのかは

ついにわからなかった。

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