第34話 ハンカチ

「千歳さん、海に行きませんか?」


 父親の癌を知って、ショックで口をきかなくなった千歳に、死神が話しかけたのはクリスマスイブの夜だった。


 千歳はここ一日半、ずっと考え事をしたり、黙ってぼうっとしたり、気がつくと泣いたりとしていた。


 常に死神がそばにいなければ、ふらふらとどこかへ行ってしまっていたかもしれないと千歳は思った。


 適度な距離を保ちつつ、無駄に話しかけることもせず、死神はずっと千歳のそばにいた。


 涙が止まらなくなった時には、頭を撫でてくれた。


 その優しさだけが現実で、千歳は他にリアルを見つけられない。


 本当は、父の癌も嘘だったのではないかと思うほどに、心が落ち着きを取り戻していたのだが、食事の時に飲んでいる薬を確認したときに、千歳の不安は確信に変わった。


「……うん、行く」


 死神が手を伸ばしてくる。その手をしっかりと握って、二人で家の外へと出た。雪がちらほらと降っていて、きれいな夜だった。


 海まで歩く間、千歳も死神も一言も話をしなかったのだが、手の温もりが温かくて、話すことよりもその熱は雄弁だった。


 とっくに日が暮れた真っ暗な海には、辺り一面の黒い世界が広がる。珍しく雪のない夜で、雲が薄く、白い波が夜目にもはっきり見えた。


 浜辺に座りこむと、千歳はやっと死神を見た。ずっと一緒にいたのに、この半日見ていないだけで、その顔が懐かしく思えるほどになっていた。


 淡白ながら、整ったその顔立ち。


 乏しい表情。


 あらゆるものをすり抜けて行くそれは、人ではない証拠。


 しかし、千歳はその死神に今一番ほっとしていた。


 波が打ち寄せては砕ける音が耳に響く。海面に、ここに来た時初めて見たのと同じ、青白い魂魄たちがふわふわと現れる。


 漁火のように触れ動きながら、ゆったりと揺蕩うそれらを眺めた。


「……きれい」


 そう呟いた千歳の目から、涙がぽつりと溢れる。その涙を、死神がポケットから出したハンカチで拭いた。


「……ハンカチ、持っていたの?」


「千歳さんがあんまりにも泣くので、用意しました」


 もこもこ素材のハンカチは、触り心地が良い。千歳の部屋に置かれていたぬいぐるみを見て選んだのか、クマの刺繍が小さく微笑んでいて千歳は笑った。


 千歳は死神に向き直ると、死神のネクタイを外す。くるくると丸めて、死神に渡した。


「仕事、おしまい。ありがと。ここ数日ずっと、仕事してくれてて」


 千歳はふう、と息を吐いた。

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