第2話 五歳、衝撃の出来事
身体が熱い。なのに、寒い。
喉が渇いた。水が飲みたい。
頭が痛い。
確か、今日も仕事だったはず。
休みを取ったのはいつだったか。
行かないと、課長に嫌味を言われる。
半年前に結婚してマウントばかり取っていた、私と同年代の課長は、最近、若い奥さんに逃げられたらしい。
その後から、部下や事務員に当たるようになった。
入社して十数年。幼少期から表情筋が死滅しかかっている事務員の私は、無反応のように見えるようで、課長がよく当たってくる。
影で私は氷の女王と呼ばれているようで、ラスボスに挑む気持ちで話し掛けていると話す同僚もいた。
課長に当たられるのは嫌だが、働かないと空き時間に心の拠り所になっている乙女ゲームに課金が出来ないし、何より生活が出来ない。
経理の事務員なのに、営業職の資料作成や会議の資料作成をさせられている。
そのせいで、休みを返上させられ、もう何十連勤目だろう。数えるのをやめた。
ふらふらする身体で家を出て、会社に出勤する。
なんとか会社に辿り着き、階段を上っていると上の階から急いで下りてくる人にぶつかった。
あ、落ちた。と思って目を閉じた。
「――……?」
落ちた衝撃がないと思い、目をゆっくり開けると、黄色の髪、小豆色の目の女の子が私を覗き込んでいた。
「ラピス坊ちゃま……!」
坊ちゃま……? 誰のこと?
不思議に思いながらも、私の口は何の疑問もなく、目の前の女の子の名前の音を紡ぐ。
「ルチル……?」
「はい、ルチルです! 高熱を出されて、今まで寝ていらっしゃったのです。覚えていらっしゃいますか? 具合は如何ですか?」
ぎゅっと私の手を握り、ルチルという女の子は目を潤ませる。
見たことがない人のはずなのに、見たことがある。
知らない人のはずなのに、知っている。
このよく分からない感覚も不思議だが、違和感はない。
「……水が飲みたい」
当然とばかりに私の口は目の前の彼女に自分の欲求を伝える。
この人なら応えてくれるという、信頼感がある。
そこで疑問が過る。
私は一人暮らしのはずなのに、何故、ルチルという女の子はいるのだろうか。
仕事に行ったはずなのに、何故、自宅に居るのだろうか。
というか、ここはそもそも自宅なのだろうか?
重たい身体をゆっくり起こそうとすると、ルチルという女の子は慌てて身体を支えてくれる。
水が入ったコップを渡してくれる。
「ありがとう……」
声が掠れつつもお礼を伝え、コップに口を付ける。常温の水が、喉に心地良く一気に飲み干す。
そこでふと気付く。
「…………?」
見たことがないはずなのに、見たことがある部屋に私は居た。
だけど、ここが私の部屋だという認識がある。
よく分からない感覚に混乱する。
そこで、ようやくコップを持った私の両手を見る。
コップをルチルという女の子に手渡し、自分の顔や身体を恐る恐る触る。
小さくなっている。胸も。色々。
え、私、身体は子供、頭脳は大人な有名な探偵くんみたいなことになってる?
いやいやいや、その前に、私以外の記憶もあるけど何で?
だから、ルチルという女の子を知っている?
というか、私は成人して十数年経った事務員の女だったはずなのに、何故、女性にないはずのものがある?
「…………?!」
こういう時でも、私の表情筋は動かない。
この場合、良かったと言うべきかもしれないけど。
衝撃とまだあるらしい熱のおかげで、私は意識をまた手放した。
高熱で更に三日寝込んでいたらしい私が目を覚ました時には、ようやく自分の置かれた状況が理解出来るようになっていた。
まず、私の今の名前はラピスラズリ・シトリン・アウイナイトという名前だった。
所謂、転生したようだ。
転生先は前世でがっつりプレイしていた乙女ゲームの世界だ。
しかも、推しだったキャラクターに私は転生していた。
今の私、ラピスラズリは前世の推しだった。
乙女ゲームの攻略対象キャラクターの公爵家の次男で、氷の貴公子と呼ばれる剣も魔法も強いハイスペックな十五歳……ではなく、今は五歳だ。
そう、五歳。ラピスラズリは男の子だ。
前世を思い出す前のラピスラズリの記憶もあり、ようやく定着というのか、前世と混ざるというのか混乱しなくなった。
部屋に誰も居ないことを確認してから、毛布の中
をもぞもぞと覗く。
そして、ちらりと見たり、そろそろと触る。
「……三日前に起きた時にはあったよね?」
三日前、一度起きた時にはそれはあった。
その驚きと高熱でまた寝込んだから間違いない。
三日後、目が覚めた私は違和感に気付く。
あったはずのものがない。
前世を思い出す前のラピスラズリの記憶にはそれはあった。
「……何で、ない?」
転生しても私の表情筋はやはり相変わらずだった。
前世の記憶も含め、混乱しなくなったのは確かだ。この場合、記憶のみだけど。
「あったのは、よく覚えている」
感情は大混乱だ。
何で、女の子になっている?!
三日前まで男の子だったやん!?
前世の時から記憶力には自信がある。
今世の私も記憶力には自信がある。
五歳だけど、使用人の顔と名前、年齢、好きな食べ物、嫌いな食べ物は何かをしっかり覚えている。
今後の私の行動することによっては、この使用人の顔、名前、年齢、好きな食べ物、嫌いな食べ物について使えるところで使えば、それなりに味方になってくれるはず。
打算だよ、何が悪い!
使えるものは使う。
前世で痛感したことだ。
前世に心残りはほとんどない。
あるとしたら、あの課長を一発殴りたかったことくらいだ。
たったの一発だけで済ませるんだ、優しい事務員だろ。異論は認めない。
前世の両親は社会人になってから疎遠になった。
元々親子関係は良くも悪くもない。
娘が死んで衝撃だったかもしれないが、しばらくすれば落ち着くだろうと思う。そのくらいの関係だ。
「ラピス!」
バンッと勢い良く部屋の扉を開け放ち、私の名前が呼ばれる。
相変わらずの無表情で扉の方へ顔を向けると、今世の両親が立っていた。
前世を思い出す前の記憶を呼び起こすと、父の名前はカルセドニー・スフェーン・アウイナイト。
アウイナイト公爵家の当主で、ここ、トワイライト王国の宰相だ。
髪は私と同じ瑠璃色で、青藤色の目をした美丈夫だ。
その隣に立つ女性は母だ。
名前はサファイア・リチア・アウイナイト。
トワイライト王国の国王の妹で、現在はアウイナイト公爵夫人だ。
髪の色は紺碧色で、目の色は私と同じ金色。美しい彼女の顔とラピスラズリは似ている。母親似のようだ。
そして、二人共、子供達を愛していると思う。
夫婦としても仲睦まじいと思う。
思うというのは、あまり接点がないからだ。
前世を思い出す前の記憶を呼び起こしても、両親はあまり会いに来なかった。
というのも、私の上に二歳上の兄がいて、父は後継者として彼の教育に力を入れている。
母は私の一歳下の妹の淑女教育に力を入れている。
対する私は兄に何かあった時の替えなので、教育は全て執事や家庭教師が教えてくれる。
時折、仲睦まじく両親で様子を見に来るが、こちらは無表情の息子なので、ある程度の距離になると近寄らない。
感情はあるが、なかなか表情と直結しない。
様子を見に来てくれて嬉しいと思うが、表情筋が死にかけているのか、今回も含めていつも両親の前でも無表情のままだ。
スキル氷の貴公子は固定されていて、任意に外せないようだ。そんなスキルあるのか知らないけど。
そんな私の思いとは露知らず、両親はいつも以上に近付いて来る。
その両親に今の私も、前世を思い出す前のラピスラズリも戸惑う。
「ラピスラズリ、具合はどうだ?」
私がいるベッドの隣に椅子を二つ持って来て、腰掛けながら父が尋ねる。
「……熱は下がりました。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
申し訳なさそうに言いたいが、顔は相変わらずの無表情で、そっちの意味でも申し訳ない。
「迷惑だなんて言わないで。ラピス、高熱が出て辛かったでしょうに、来るのが遅くなってごめんね」
母にいきなり抱き締められ、身体が硬直する。
今まで抱き締められたことがなかったので動揺するが、私の顔は通常運転だ。
スキル氷の貴公子は凄い。
超絶美人なご婦人に抱き締められても顔が赤くならない。
そのおかげで、妻命な父に殺されなくて済んだ。
母の胸は五歳の子供には凶器だ。
息子が二回死ぬ。圧死と斬殺は勘弁願いたい。
「……いえ、ご公務でお忙しいと思いますので、気にしないで下さい。動けるようになったら、こちらからご挨拶に伺おうと思ってました」
抱き締められながらそう言うと、母の身体が強張ったのが分かった。
嫌味に取られてしまったかな。
「すまない。お前の兄や妹にばかり構っていたせいで、お前が寂しい思いをさせてしまっていることに執事や家庭教師に言われるまで気付かなかった。私達の大切な子供なのに他人行儀な言葉遣いをさせてしまうなんて……!」
母ごと私を抱き締めて、父が感極まったように声を上げた。
……ん?
両親は何か勘違いしているのではないだろうか。
そう思い、じっと父を見つめる。
「本当にごめんな。ラピス、私達はちゃんとお前を愛してるよ。大事なむす……子供だ」
父が言い淀んだ。
今、息子または娘で、どう言おうか悩んだな。
ということは、私に起きている状況も知っているな。
そう思った私はすぐに父に問い掛けた。
「父上、僕の身体はどうなっているのでしょうか? あるはずのものがありません」
前世を思い出す前の記憶では、ラピスラズリは僕と言っていたので、同じ一人称にして、父を見る。
女性の母がいる手前、オブラートに包んで、濁して言ったつもりだ。私も前世では女だったし、配慮してみた。
が、父はともかく、母がびくりと身体を強張った。母もどうやら知っているようだ。
父が、息を吐いた。自分を落ち着かせるようにしているのか、私を落ち着かせようとしているのかは分からないが、吐く息が長い。
「ラピス、落ち着いて聞いて欲しい」
あ、私を落ち着かせようとしていたのか。
私は特に慌ててはいない。
前世の推しで、今世では私――ラピスラズリの身体に何があったのか知りたいだけだ。
「実は、お前の身体は男の子として生まれたのだが、五歳になると女の子になってしまう。そういう特徴を持って生まれたんだ」
お、おう……。そうですか。
父の話を詳しく聞くと、アウイナイト公爵家の特徴らしく、百年に一度、五歳の時に性別が逆転するという子供が生まれるそうだ。
なんでも、その子を大切にすると国の繁栄をもたらすと言われているらしい。
繁栄? 何それ、美味しいの?
私に利益はあるの?
それに、前世は氷の女王というあだ名の成人して十数年の経理の事務員が、ラピスラズリの中にいるから気付いたけど、五歳で性別が逆転してしまうアウイナイト公爵家の子を大切にすると、国の繁栄をもたらすから、私を愛してるとか言ってないよね、この両親。
もしそうなら今更だし、そんな理由で愛してると言ったのなら、速攻、家を出る。
私の推しを悲しませて、心を傷付けるような両親の元にいる気はない。
推しを悲しませて、国は繁栄するなんて知るか。
無表情が、更に無表情になった気がする。
「ラピス、すぐ信じてくれとは言わない。決して、国が繁栄するからお前を愛してると言った訳ではない。今まで放置をしてきた私達が言えたことではないが、本当にラピスが大切なんだ」
私の顔を見て気付いたのか、父が釈明する。
無表情のままのはずだけど、何故気付いたのか。
父に抱き締められ、身体が硬直する。
前世の私もだが、ラピスラズリも抱き締められることに慣れていない。
「そうよ。わたくし達の大切な子供よ。ラピスラズリが息子でも娘でもどちらでも構わない。本当に大切なのよ。でも、ごめんなさい。ずっと傷付けてしまってたのね。これからは一緒にいるからね」
母も抱き締めてくる。
が、本当に凄いな。氷の貴公子。無表情のままだ。だが、無表情なだけで、感情はしっかりある。
さて、私はどうするべきかな。
前世を思い出す前のラピスラズリは、両親や兄妹、公爵家の使用人達を大事に思っている。
推しが大事な私としては、そう簡単に許したくない部分がある。
両親は他の兄妹にかまけて、五歳まで大事な推しを放置して、使用人に任せた。それは貴族にとって当たり前なのかもしれない。前世の私からしたら異文化だからちゃんとは分からない。
けど、放置されたラピスラズリの気持ちは?
無表情なだけで、感情はちゃんとある。
そして、推しは優しい。
前世の私が表に出る前のラピスラズリは、今の状況でも両親を許そうとしている。
優しいな、私の推しは。
私ならそう簡単には許さない。
許すのはなかなか難しい。
だから、私はこの推しが好きなのかもしれない。
それなら仕方ない。
推しのために私が折れる。
「……はい」
が、我ながら強情で、はいしか言えなかった。
そこは御愛嬌と思って欲しい。いや、譲歩かもしれない。
それから私は更に三日間、ベッドでの生活を余儀なくされた。
公爵家お抱えの主治医によってベッドから離れることが許され、晴れて自由の身になった。
その間にも両親や兄、妹がやって来るようになった。
推しの家族は認識を改めたのか、ラピスラズリを構うようになった。
無表情は相変わらずなのだが、嬉しいと感じている。
そして、やはり私は女の子になったらしい。
前世の幼少期に見たことがある身体に、我ながらまだ動揺している。
推しが女の子になるなんて……。
両親との相談の結果、兄と妹、公爵家の使用人には私の事情を知ってもらうことになった。
ずっと公爵家にいるのだ。すぐボロが出る。
それなら、先に知ってもらった方がいい。
父が事情を話すと、皆、すんなりと受け入れてくれた。
その対応力に感服している。
更に、使用人達は外でそのことを話すことが出来ないように制約魔法を掛けられている。なのに、皆、嫌々ではなく、自ら進んで掛けてもらったというから不思議だ。
そんなにお給金が良いのだろうか。
私の身体の事情は、国王と王妃にも伝えることになった。
国王からは性別が逆転して慣れるまで大変だろうが、健やかに生きるようにとお言葉を頂いた。
国王は母の兄だから、伯父にあたるが顔を見たことがない。でも優しいな、国王。
しかし、ラピスラズリは戸籍上は男で登録しており、五歳で今更性別を女に変更する訳にもいかないことを父から言われ、これも動揺している。
顔には出ないが。
ラピスラズリの事情は王子王女、他の公爵家、貴族、国民にも秘密のようで、私はそのまま男として生きる羽目になった。
「すまないな、ラピス。女性の身体になってしまったから、女性として生きた方が良いだろうに……」
「いえ、僕はどちらでも構いません」
父が申し訳なさそうに、頭を撫でてくる。
大分、この距離感にも慣れてきた。
前世では女だったし、思い出す前の記憶や男の子の感覚がまだあるし、私の性格ならどちらで生きることになっても問題ない気がする。
無表情なのは変わらないのだし。
「それでも、生き辛いのは確かよ。だから、カル。わたくしからの提案なのだけど、ラピスに男性でも女性でも生きられるように、両方の教養を勉強してもらうのはどうかしら?」
母が私の目線になるようにしゃがみ、にっこりと微笑む。
「そうだな、確かに生き辛い。だが、サフィ。両方となるとラピスの心身に負担がないか? 男性の方の教養には剣技やダンスもあるし、女性の方の教養にはダンス以外に刺繍等がある。一日ではラピスが疲れるのでは……」
「はい。ですので、男性として生きることになってしまったので、男性社会にも慣れるように週四日は男性の教養、二日は女性の教養、残りはどちらの服装でも良い休養日というのは如何でしょう?」
首を傾げて、母は綺麗に微笑む。
仕種が優雅で、洗練されている。
流石、元王女。
流石、乙女ゲーム。
この世界でも一週間は七日らしい。
というか、母提案の内容で構わないけど、休養日は間違いなく男性の服装で過ごすと思う。
前世の、何も予定がない休日の私の服装はジャージかパジャマだ。ラフな服装で過ごしたい。
「ラピスはどうしたい?」
「僕は母上の提案で構いません。いつか、男装が出来なくなった時に、ドレスも着慣れていないと歩けないと思いますし、知っておいて損はありません」
無表情で頷くと、両親は少し潤んだ瞳で私を抱き締めてくる。
距離感は慣れたが、まだ抱き締められることは慣れない。身体がまだ固まる。いつかは慣れるのだろうか。
「もう、ラピス、健気なことを言わないで。わたくしの胸が締め付けられて、辛くなるわ。出来ることなら代わってあげたいわ」
いえ、代わるも何も、特に弊害はないんで、このままでいいです。
前世は女性だったのだし、貴族の知識は除いても、それなりの一般的な知識はあるつもりだ。
前世を思い出す前の記憶の中には、執事や家庭教師が教えてくれたものも覚えている。
「弊害がないなんて、お前くらいの子供ならどちらの生活でも辛いと思うものなのだが……。ラピスは凄いな」
前世の記憶持ちというアドバンテージがあるおかげだ。
というか、父は私が考えていることを少しではあるが、無表情の顔から読み取ってない? 少し怖いんですけど。
内心、引いているが、相変わらずの無表情で父を見上げる。
「早速、明日から始めてみるがいいか?」
「はい、宜しくお願い致します」
ぺこりと私は父にお辞儀をした。
「分からないことがあったら、遠慮なく私やサフィに言うんだぞ」
私の頭を撫で、父は優しく微笑んだ。
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