2016
2016年
その踏切を使わなくなって久しくなった私だが、ある時から再び通うようになった。というのも、その踏切のすぐ横側に出来た飲み屋が馴染みの場所になったからだ。
飲み屋、と言うにはもう少し洒落ていたかも知れない。さりとてバーと言うには市民的な雰囲気がある。そんな丁度いい雰囲気の店だった。
狭い店内はカウンターでしきられていて、6人ばかりの客が入れるようになっている。
それをマスターがひとりで切り盛りする、と言う形だった。マスターは30代後半くらいの女性だった。
出てくる飲み物は洋酒がメインで、ウィスキーにこだわりがあるようだった。一度、そこで飲んだ煙の香りのするスコッチウィスキーに心を奪われて、だが名前を覚えることも無く、何度となくそこに通っては「この間飲んだあれはなんだったか……今あります?」と言うような頼み方をしていたのだが、ついにはマスターの方から「いつものね」と出される様になり、まるで常連の様な扱いを受けるようになっていた。私もどこかまんざらでは無く、なおさら足繁く通うようになっていた。
私以外にも……というか私以上に顔なじみの常連も多くいて、扉をくぐるとその心地良い、騒がしい雰囲気に飲み込まれながらいつものお酒を口にするのが楽しみだった。
……だが、その日は珍しく私以外の人の顔が無かった。時間帯的には22時を過ぎていて、普段なら誰かしらカウンターに肘をついている様子があったのだが。
「珍しいですね。誰もいないなんて」
と、私が声を掛ける。
「なんか間が悪くてね。さっきまで人もいたんだけど」
彼女はいつもの、酒焼けしてはいるが鈴が鳴るような心地良い声で返す。
どうやらそろそろ店を閉めようとしていたらしい。私はばつの悪さを感じつつ、さりとてお酒は飲みたかったので腰を下ろした。
マスターは「いつもの」を私の前に置き、続いて自分の傍にあったコップにも同じ物を注いだ。
いつも、と言うのでは無いが彼女も客と一緒に飲むこともあった。
ふたりして杯を傾け合いながら、なんとなく世間話をしてまったりとしていたのだが。
「なんか、声が聞こえない?」
ふと、彼女がそう言い出した。
声……と耳を澄ます。
澄まそうとすると折悪く、踏切の音が鳴った。カンカンカン……という警報しか聞こえない。
聞こえませんね、と返すと「そう」と眼を伏せる。しばらくして轟音が響いた。すぐ傍を電車が通っていく。すぐ傍らに大きな鉄の塊がとてつもないスピードで通り過ぎていくのは、いつもそこはかとない不安を感じる。そんな大事故がしょっちゅう起こったりはしないと思ってはいるのだが……
通り過ぎて、警報の余韻も納まると再び耳を澄ました。が、聞こえない。マスターもそれ以上、声についての話題を語らなかった。私は空気を変えようとお酒のおかわりと新しいおつまみを注文する。
「飲むねぇ」なんて笑いながらコップに注いでいく様子を見て、気のせいだったのだろうと安堵した。
……私の脳裏には、あの出来事が過っていた。小学生の頃、野村さんが失踪した事件……この店は心地よい。だけど、この店に入るとき、そして出て行く時に、心臓の奥深くできゅんと締め付けられるような気分になる。あの時の、消えてしまったクラスメイトの顔が無意識に浮かんでくる。もちろん、ほんの一瞬だけのことですぐに忘れてしまうのだけれど。
それでもこの日は、脳裏にこびりつくようだった。
踏切近く、聞こえてくる声。
偶然だ。偶然に過ぎない。そもそも彼女が聞いたのは声だ。猫の鳴き声じゃない……
それでも私は不安だったのだろう。
ふと、彼女に「猫鳴踏切って知ってますか」と尋ねてしまった。
「うん、知ってるよ。ここのすぐ傍のことでしょ」
「そうですそうです。猫の声が聞こえるっていう」
「私の学校の七不思議だったもん」
「へぇー」
……後から思えば、私はこの言葉に疑問を覚えるべきだった。なぜ七不思議なのか。それに私とマスターは10は歳が離れている。だとするなら、この話の出所がどこだったのかを私はもっと掘り下げるべきだったのだ。
「そっか……そうだよね。猫だよね」
「え?」
「さっきの声だよ」
マスターは掌にコップを弄びながら窓のそとを見つめた。やがて意を決するように煽り、それから言葉を続けた。
「私には、声に……赤ちゃんの泣き声に聞こえた」
「赤ちゃんの、声」
オウム返しをしてマスターの言葉をかみ砕く。もちろん彼女の言うことは理解できる。解らないのでは無く……どちらかと言えば受け入れがたい、という感情だった。
あの時、踏切の傍で聞いた声。野村さんと一緒に聞いたあの声も、私にはそう聞こえていたのでは無かったか。
しばしの沈黙が続き、やがてマスターが私の名前を呼んだ。
「君はさ、生まれてきて良かったって思ってる?」
「へ?」
質問の意図が分からなかった。マスターも自分の聞きたいことを探るように、別の言葉を重ねた。
「いや、違くって……逆にさ、生まれてこなかった方が良かったって思ったこと、ある?」
「……ありません。嫌なこととか、絶えられないこととか……消えてしまいたい、とか。言ったり思ったりすることもあるけれど。でもそれは一過性のことで。生まれてこなければ良かったとか、そこまでは。……生まれてこなければお酒も飲めなかったですしね」
彼女の意図は相変わらず読めなかったが、それでも自分なりの意見を言う。重くなった雰囲気を払おうと最後は冗談めかして答えたが、マスターは「そっか」と眼を伏せて相変わらず何かを考え込んでいた。
ふたたび警報が鳴り始める。少しして、電車が壁越しに通り過ぎていった。
「……もそうだったのかな」
その轟音があったから、彼女が何かを呟いたのだが聞き取ることが出来なかった。
その思い詰めた様子に、私は聞き返すことが出来なかった。
それどころでは無かった、というのもある。私は、あの時との奇妙な符号に不安を感じていて、その不安を扱いかねていた。
いや、違う。やっぱり聞き返すだけの勇気が無かったのだ。
他の客は来る様子を見せなかった。来てくれれば、この妙な空気も払拭されたのかも知れないのだが。しばらくして私は店を辞した。 その日を最後に、店はシャッターを閉じたままになり、二度と開くことは無かった。看板は取り外され、テナント募集の期間があった後、パン屋に変わっている。
あの時の奇妙な質問。聞こえなかったつぶやき。消えたマスター。そして赤ちゃんの泣き声。繋がるようで繋がらない、そんな気持ち悪さが澱となって貯まっていく。
踏切で猫が鳴く。
だが私には、その鳴いているものが猫とは思えなかった。あれは……鳴いている何かは、そうやって踏切に人々を誘っているのでは無いか。
つぶやきを思い出す。彼女は誰のことを思っていたのか?想像に過ぎないが……その何かは赤ちゃんの声で、マスターには赤ちゃんと解釈できる声で踏切の中へ誘い込んだ。あの時、野村さんをフェンの声で誘ったように。その何かは、獲物が望む存在の声に擬態して呼び込んでいるのかも知れない……
私はそう解釈していた。このときまでは。
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