2005


2005年

 野村文音さんが引っ越してきて私と親しくなったのは小学5年生の頃のこと。幼い頃から転校を繰り返し、あちこちを転々としていたという彼女は他人との距離をうまく測れないようなところがあった。

 引っ込み思案とか気後れが過ぎる、というのではない。むしろその逆で、他人をすぐに懐に入れようとしてしまう。昨日あったばかりの人間にも数年来の友人のように接してしまう。そういう人間にありがちなことに、物理的なパーソナルスペースも狭かった。

 距離感お化け、みたいな物言いならまだ良かっただろう。ひとつのキャラとして受け入れられたということになる。しかし彼女の場合、それがマイナスの方に働いてしまった。彼女は空気が読めないヤツとして、周囲から腫れ物に対するような扱いを受けてしまっていた。

 彼女と私が親しくしていたのは……私もまた、周囲と少しズレた人間であったからかも知れない。

 彼女は手当たり次第に話しかけ、周囲から微妙な反応を返される、というのを繰り返していたのだが、その中でまともに対応したのが私だけだった、というところもある。

 野村さんは私が見ていない女児アニメの話とかテレビの話、本の話、それに都市伝説とか怪談の話などをよくする。話自体がつまらないとか変ということはない。彼女に勧められた本を読んでみて感想を話し合ったこともある。だが彼女には「相手がその話をどれくらい知っているか」「どれくらい興味を持っているか」という観点に欠けていたように思う。そういうところも彼女が孤立する原因の一つだったのかも知れない。


 ともかく、数少ない彼女と話をする人間の一人だった私は、交流を始めて数日もしないうちに家に招かれた。

 彼女の家は山の上のマンションの一室だった。建物自体は決して大きくも無ければ新しくも無いマンションだったが、家の中は清潔に保たれていたし、調度品も立派な物だったと記憶している。

「北欧風っていうんだよ」

 野村さんがこれを基点に北欧神話がモチーフになっているアニメの話を笑顔で捲し立てたのでその言葉は良く記憶に残っている。

 野村さんの母親に出して貰ったおやつや飲み物も近所の洋菓子店で購入したケーキとか、あまり聞いたことのない柑橘系のジュースだったりしたし、部屋の隅には当時としては珍しい掃除ロボットが充電されてたりと、裕福な暮らしぶりが見えるようだった。

 マンション自体は少し格落ちしていたが、それも野村家には転勤の際の仮住まいのような意識があったからかも知れない。

 私と野村さんは漫画を読んだりゲーム(これも最新の機器が揃っていた。肝心のソフトは興味のない物ばかりだったが)をしたりして時間を過ごしたが、それも少し飽きてきていた。ただ、野村さんの言葉が途切れることは無かった。

 彼女の声に相槌を打ちながらすこし退屈になって周囲を見回す。

 彼女の部屋には本棚とか子供用にしては大きなテレビ、ゲーム機など様々な物があった。それでも窮屈には感じず、広々とした印象がある。

 ふと、棚の上に置かれた写真立てに目が留まった。

「……猫?」

 野村さんと白くて毛並みの良い猫がじゃれあっている様子がフレームの中に納まっている。

 私のつぶやきに野村さんは「フェンっていうんだよ。友達なんだ。私が生まれた時から一緒だったの」とこれまでとは比較にならないくらいの満面の笑顔を見せた。

 彼女はフェンが写った写真をまとめたアルバムとフェンが付けていた首輪、そしてフェンとよく似ているという猫のぬいぐるみを見せてくれた。それらのアイテムと一緒に、かつて一緒に過ごしたその友人についての話を語った。

 野村さんはフェンと姉妹同然に育った。何をするにも一緒。ごはんを食べるのも眠るのも遊びにいくにも、彼女の人生はフェンと共にあったのだという。

 しかし野村さんが小学校に上がる頃、フェンはいなくなってしまった。丁度その頃、野村家は各地を転々とするようになったという。彼女の両親は「フェンはお引っ越しは嫌なんだって、山に帰っちゃったんだよ」と言ったらしい。

「……帰りたいなぁ。私、またフェンに会いたい」

 野村さんはいつになく寂しそうな様子だった。もしかすると、彼女は常に寂しいのかも知れなかった。それはクラスメイトに話を聞いて貰えないとか転校を繰り返して友人が少ないとか、そういうことではなくて……

 私はただ、「そうだね。会えるといいね」と同意することしか出来なかった。




 それから野村さんの家には定期的に招かれるようになった。ゲームとかアニメとか他愛の無い話をすることもあったが、それ以上に愛猫フェンについての話を聞くことが増えた。そういう時、彼女は懐かしさと寂しさを混同させて頬を上気させた。

 不思議なことに彼女は学校ではフェンの話をしなかった。あるいは、愛猫の思い出を学校で汚されたくないという思いが働いたのかも知れない。彼女も私も、クラスメイトから無視されるだけでなくからかわれることが良くあった。いじめと言うほど本格的でも深刻でも無かったが、私たちが不愉快に思っていたのは確かだ。そのたびに彼女は眼を伏せ、私がキレて喧嘩沙汰になったりするのだった。

 その日もそんな一日だった。掃除当番を押しつけられた野村さんと、彼女に付き合った私と、ふたりで線路沿いを歩いた。あれはもう秋か、それとも冬になっていたのか。道行きは昏くなって、微かに夕日の名残が見えるだけ。通学路に人はもう残っていない。

 野村さんは私に向かって何か必死に喋っていたが、しかしどこか疲れているのは見て取れた。私もまた、疲れていた。

 そうして、やはり人のいない踏切の前で、開くのを待つ。

 あの声が聞こえてきたのはそんな時のことだった。

”あぎゃあぁぁぁ…あぎゃぁぁぁぁぁ…”

”゛あ゛ーあ゛あ゛あー゛あ……”

 どこか茫洋としていた思考が引き戻されるような、禍々しいものがある声だった。声……そう声だ。私はそれを声と認識したのだった。赤ん坊が泣いている声、と。どこかに人間の赤ちゃんがいて、泣き叫んでいるのか、と思った。周囲を見渡す。が、誰もいない。赤ん坊はおろか大人も。そこにいたのは私と野村さんだけだった。

”あぎゃあぁぁぁぁぁ……あぎゃぁぁぁぁ……”

”あぎゃあぁぁぁぁあああぁぁぁぁ……”

「……もしかして、フェン?」

 何度目かの鳴き声に、ようやく声を上げたのは野村さんだった。彼女はその声を猫の鳴き声と解釈したらしい。

 そういえば、と思い出す。上級生が語っていた噂。夜、この踏切の前を通ると必ず猫の声が聞こえる……

 それだけならなんてことは無い、怪談とも言えない噂としか思えなかった。だが、この声を聞いてしまったら。

「……違う。きっと違うよ」

 猫じゃない。猫とは思えない。

「いや、フェンだよ。こういう風に鳴いてたもん」

「でもフェンは……」

「追いかけてきたんだよ。寂しいときにはこういう風に鳴いてた……きっと私を探しにきてくれて、それでここまで来たんだよ」

 ……きっと違った。後から思えば、フェンが山に帰ったなんていう野村さんの両親の言葉は嘘だと解る。家で飼えないなんていうことも無い。野村さんの家の財力なら、ペットが飼える家に住むことは不可能ではなかった。 フェンはきっと、野村さんが小学生になった時に亡くなっていたのだ。それを野村さんに気取られないために両親は嘘を吐いた……

 そんな推理を働かせなかった当時の私ですら、それが彼女のフェンではないこと……いや、猫で無いということは解っていた。

「探さなきゃ……私が探しに行かなきゃ」

「野村さん!」

 ふらふらと、野村さんはフェンスを掴んだ。その様子を見て放っておけず彼女を制止する。「なんで?だって泣いてるよ。寂しいんだよ、きっと。寂しいから探しに来てくれたのに……」

「……今日は駄目だよ。もう暗いし……明日。昼間に探しに行こう?」

 ね、となだめるような私の言葉に、彼女は渋々頷いた。そうこうするうちに電車が通る。私たちの頬と髪の毛を風と轟音が揺らす。そうして、踏切が開く頃にはあの、何かの鳴き声は止んでいた。

 黙って踏切を渡る。野村さんはもう、フェンを探しに行こうとは言わなかった。私はそれに安堵していた。あの声は禍々しい。何か……少なくとも子供が触れてはいけないなにかだ。

 ……ただ、それは浅慮に過ぎなかった。

 なぜならその日、野村さんと別れてから、彼女は二度と姿を現さなかったからだ。


 彼女に関する異変を聞いたのはその日の深夜のことだった。その日の夜遅く、私の家に野村さんの家から電話が掛かってきたからだった。

 野村さんはあの後帰宅したのは確からしい。夕食を取って入浴し、ベッドに納まり……そこまでは彼女の両親も把握していた。

 ……虫の知らせとでも言うべきか。妙な感覚を感じ取った野村さんの母は、ふと彼女の部屋を覗き込んでみたところ、ベッドの中に彼女の姿が無かった。家中を探したが、どこにもいない。玄関を確認すると鍵が開いていたという。戸締まりは確かにしていたはずだった。

 私の母は当時、PTAに属していたということもあってか、あるいは子を持つ親として野村家の状況を他人事とは思えなかったのか、夜中にもかかわらず率先して野村さん探しに出向いた。当然のことながら私は家の中に残された。

 母には何か思い当たることは無いか、と聞かれたが、私は何も答えなかった。嘘だ。本当は踏切の近くまでフェンを探しに行ったに違いなかった。だけど、どう答えて良いか解らなかった。


 だって、あれは。フェンでは無かったし猫でも無かった。何かよく分からない物に野村さんは呼ばれて、それで……何処かに連れていかれてしまった。私にはそうとしか解釈出来なかった。

 野村さんのことは学校では触れられなかった。彼女のことを気にする同級生もいなかった。彼女の存在は、緩やかにいないものへとなっていった。

 それから一度だけ、野村さんの母が学校に乗り込んできたことがある。おそらくどこからか野村さんに対して行われていた軽いいじめの様なものについて話を聞きつけたのだと思う。彼女は野村さんの失踪とそれを結びつけたのだろう。あの時の様子は壮絶なものだった。野村さんをからかっていた生徒に対して凄い剣幕で詰め寄る彼女の姿……だがそれを最後に野村さんの母も学校には姿を見せなくなったし、しばらくして野村家はこの地から引っ越すことになった。

 引っ越す前に一度だけ、私の家に挨拶に来た。彼女は私と私の母に泣きそうな顔で感謝を告げて、そのまま去って行った。

「……あの子と仲良くしてくれて、あの子のために怒ってくれて本当にありがとう……あの子が帰ってきたら、きっとまたお礼に来るから……」

 ……違う、と思った。野村さんが消えたのは、いじめのせいじゃない。彼女はフェンを探しに行った。フェンに呼ばれたと思い込んで、それで……

 でも、それを言葉にはしなかった。出来なかった。あの猫鳴踏切のことを告げても不審に思われるだけだったろうし……なにより、それを告げると言うことは。「野村さんがいなくなったのは、あなたたちが吐いた嘘を信じたからです」と、そう告げることに他ならなかったから。


 あの時、あの踏切での判断は決して間違っていなかったと思う。だってそれ以外にやりようが無い。もしあの時、二人で線路の中を探しに行っていたら、私まで消えていただろう。

 それ以来、しばらくあの踏切を通らないようにしていた。いつまた、あの声に呼ばれるか解らないから。……いや、もっと畏れていることがある。もし、アレが……野村さんの声で私を呼んだりしたら。彼女を探しに行かないという保証は出来ない。

 ……私は間違っていなかった。そう言いながら結局のところ、彼女を止められなかったことを後悔しているのだ。 






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