第5話 私の愛しい黒い悪魔(猫)

 猫を飼い始めたのです。

 若き枢機卿をそう言って、早々に宴の席を離脱した。

 当然、皆が噂をした。本当に猫なものかね。あれは恋人だよ、といって男か女かしらんが。ずいぶん入れ込んでいるらしい。


 真偽はともかく、評判は散々だった。嫉妬によるものか、恨みによるものか、いずれにせよ、枢機卿には敵が多い。

 枢機卿そのひとに、というよりは、彼を輩出したその一族への敵意のために。


 金で買えぬものはないと言い張る傲慢な一族、教皇の位すら黄金であがなったと言われるほどの富と権力。その乱行と不品行は、金と権力で持ってしても揉み消せないほど。その一族の当主の末弟は、成人する前に大司教の位に上り、続いて有力都市の聖堂司教、法王宮付き役職者の地位を順々に手に入っていった。

 そうでなくても、あの美貌、あの若さ、そしてあれだけの財産。惹かれるによせ、妬むにせよ、とにかくさまざまな思惑を秘めながら彼に近づく者は多かった。


 あれは血だよ、どうしようもない。そういう者もいた。あの一族の乱倫を思えば当然じゃないか。あれの父も叔父も祖父も、弟も、酒色に溺れて体を壊して、そうやって死んでいった。当然聖職者が色に溺れるのは体裁が悪い、が、そんなことは金貨の幾枚かと引き換えにたやすく黙らせることができる。

 むしろ今頃目覚めたのは遅いんじゃないか。あの一族の血を引くにしては。あの歳で今更女を覚えたわけでもなかろうに。そのような声に対し、そんなひとではない、と擁護する者がいないのが、枢機卿の性格と立場を如実に表していた。少なくとも、彼は聖職者である前に政治家であったから、天使のようと称される美貌とは裏腹に、純粋潔白な身の上とはとても言えなかった。

 しかし、猫とはね。他にももっとうまい言い訳があったでしょう。

 誰かがつぶやいた。まあ、体面はいいのでは。あの一族にも、畜生を愛でるだけの慈悲を持った人間が、ひとりはいるということですから。

 誰もが笑って、それは間違いない、と言った。




 翌日、またもや枢機卿は、猫を口実に宴を早々に退席した。なかなか気難しい猫で、私以外の者の手からは何も食べないのです。そんな言い訳を口にして。

 そんなことを何度も繰り返すうちに、枢機卿の飼い猫のことを宮廷で知らない者はなくなった。

「なんと世の役に立つ猫だろう」「たかが猫一匹の為にこのような平和が保たれるとは」「あの枢機卿の顔を見なくて済むというだけで、猫様さまだ」という者すらあった。

 実際に、枢機卿の以前のような破天荒で外聞を憚るような行動はをなりを潜め、なくなった。

 本当に猫にぞっこんなのだな。本当にそれは猫なのか。ある意味、あの隙らしい隙のない枢機卿の弱点ではないか、と考える敵は無論のこと多かった。

 幾人かが枢機卿の館に手を回し、使用人を丸め込もうとし、その中の幾人かが成功した。黄金をつかませて聞き出したところ、猫は人前には姿を表さない。だが、身辺の手入れをしている者から、人がいるようには思えない、衣類、食料の世話を一切していないという情報が出た。他に、枢機卿は時折、自身は口にしない果実や砂糖菓子を部屋まで運ばせることや、部屋から何かに語りかける声が聞こえるという話もあった。

 当てが外れたな。すくなくとも、枢機卿の猫の正体は生きた情人ではなさそうだ。賭け事の対象にしていた貴族たちはそう笑い飛ばし、やがて枢機卿の話題は宮廷人の口にはのぼらなくなった。


 ※


 誰が知るだろう。枢機卿の飼い猫の正体を。


 いつものごとく、社交をすっぽかして帰邸した枢機卿は、使用人へ外套を預けると早々に自室に引っ込んだ。

「ただいま、メルキース」

 陶然とした、舌のうえで砂糖菓子を転がすような声で、枢機卿は語りかけた。

「私の黒い悪魔、さびしくはなかったか?」

 返答はなかった。枢機卿は息を吐き、長椅子のうえに積まれたクッションに乗った頭の、艶やかな黒髪を指先で撫でてから聖体に触れるかのごとくうやうやしく、それを持ち上げた。血が透けてあおく見えるほど白い肌、長いまつ毛にふちどられた灰青の大きな目、少女めいて可憐な顔立ちだが――それは変声期もまだ迎えていない少年の首だった。

「聞いておくれ、このところようやく、お前が私の秘密の愛人などというばかげたあの話を聞かなくなったよ。もううんざりしきっていたからね、耳に入らなくなってせいせいした」

「……あんたが、そんな噂ごときを気にするものか」少年の首が、顔立ちにふさわしい可憐な声で言った。「常識と道理と理性を手放してくる、あの一族の人間が」

「気にするよ。さすがの私も、愛しい愛しい大切な兄を、愛人を囲っているなどと噂されるのはぞっとしない」

「言ってろ」

 少年の首は吐息混じりにつぶやいて、目を伏せた。十年前から変わらぬ可憐なそのおもざしに、枢機卿はうっとりと息をついて、その頭のつむじにキスを落とした。

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