第38話 歯車は時に運命を嘲笑う
ー歯車は時に運命を嘲笑うー
暫くすると、コツコツとヒールの音を立てて、ショートカットの女性が現れた。
スプリングコートのポケットに両手を入れ、白いシャツとスリムジーンズ姿の姫乃だ。
「初めまして、あなたが新型さんね」
「姫乃――!」
その時、伊崎の叫び声が響いた。
伊崎が、階段を降りながら、姫乃を見て、なおももがくように這って近づいていく。
「あら、お父さん。また会えて嬉しいわ」
「なぜだ。なぜこんなことをする。死んだと嘘をついてまで……」
「――お父さんは知ってるかしら。華連には国が2つあるの。政権の国と庶民の国。この前の政変で1つになって欲しかったけど、ならなかった……」
コツコツと、姫乃も伊崎に歩み寄る。
「政権の国は豊かで、庶民の国は貧しい。一生懸命生きているのに、苦しめられている人達がたくさん居るの。私は、彼らを豊かにしたい」
姫乃は伊崎から数メートルのところでしゃがみこんで伊崎に目線を合わせる。
「もうじき、あの国の共産党員は残らずウェットロイド化する筈。そうすれば、ウェットロイドの技術で、私が彼らを支配するの。優秀なウェットロイドの官僚達は、きっと庶民のために寝る間を惜しんで働いてくれるわ」
ふふ、と笑みを浮かべて、姫乃は続ける。
「お父さんこそ、潜水艦の警戒なんて国に任せておけばいいのに、なんでこんなことしてるの? あの国は、ここ数年で戦艦も潜水艦も大量に作ったし、ハードロイドやウェットロイドも大量に軍事転用しているのよ。軍事力で日本が敵うとは思えないわ。守ろうと思っても守れないかもしれないのに、民間人のお父さんが頑張る意味があるの?」
「――お前は日本が好きじゃないのか?」
「日本は好きよ。無くなって欲しくは無いけど、それ以上にあの国の現政権が許せないだけ……。今は、それだけがあたしの存在意義だと思ってる」
「姫乃……」
英彦がヒメノを見ると、ヒメノは小さくかぶりを振る。
それを見た英彦は、もがきながら姫乃に向き直り、注意を引く。
「姫乃さん。共産党員の中で、1人だけウェットロイド化しない人間がいることを、あなたは知っているのか?」
姫乃は立ち上がると、英彦を見下ろす。
「もしかして周緑山のことを言っているの?」
「そうだ。華連で製造されるウェットロイドは男女それぞれ1つずつのDNAをもとにしている。――男性は周緑山、女性は張紫水。ふたりとも、あなたの知っている人物の筈だ」
「それがどうかしたの?」
「ウェットロイドの行動を規定する最も上位のルールが、ウェットロイド3原則だ。ウェットロイドは、DNAの親を殺さない。殺させない。死なせない。この3原則は各個体に直接設定する必要があって、ベースサーバーからは書き換えられない。どういうことかわかるか? 少なくとも男性の共産党員は周主席を殺せない。暗殺やクーデターで政権を転覆させるのは難しいということだ」
「女性のウェットロイドを使えばいいじゃない」
「それもおそらく無理だろう。僕が周主席なら、張紫水をウェットロイド化して、DNAの親を周緑山にする。そうすれば、全てのウェットロイドは周緑山を裏切れない」
英彦は、姫乃を見上げながら、その奥に立つヒメノに視線を送る。
ヒメノは小さく頷いた。
――よし、切れた。
「香春さんって言ったかしら。ご講釈ありがとう。でもね、その時は、全てのウェットロイドの機能を停止して、この手でやるまでよ」
そう言って、姫乃は踵を返し、ヒメノに向き合う。
「――あなた、『ひめの』って名乗ってるそうね。アンドロイドの癖に、気持ち悪いわ。いつぞやは失敗したけど、今日こそはそのAIを頂くわよ」
そして楊を見て指示を出す。
「楊!」
楊は2人とも動かない。
眉を寄せた姫乃は、紅鈴を見る。
「紅鈴!」
紅鈴は目を閉じて動かない。
「ちょっとみんな、どうしたの!」
1階の客室から、イザナミとキヌヨが走り出てきて伊崎と英彦の拘束を外していく。
「何? 何がどうなってるの?」
「――姫乃」
さらに、奥からスーツ姿の奈美が姿を現した。
「お母さん! ――何で、お母さんまでここに居るわけ? これは、どういうこと?」
振り返って奈美の姿を見た姫乃は、さらにパニックになる。
「古い型のサポロイド社製のウェットロイドは、ベースサーバーとの通信が遮断されると強制スリープモードに入るけど、パープルロイド社製のウェットロイドは、その時受けていた命令を実行し続けるようにプログラムされているんだ。その時命令が完了していると、動かなくなり、新たな命令も受け付けない。そのウェットロイドは、さっき命令を完了したばかりみたいだね。――今、ベースサーバーとの通信は遮断されている」
イザナミに拘束を解かれた英彦が、手を摩って立ち上がりながら解説する。英彦は、呆然としている姫乃の横を通り、ヒメノの横に立つと、さらに続けた。
「姫乃さん。今回は楊達にはヒメノちゃんのAIを奪うよう命令していなかったんだね。おかげで助かったよ。――ウェットロイドに関しては、うちがパイオニアなんでね。あなたよりも一日の長がある」
暫く、目を泳がせていた姫乃だが、キッと目を据えるとヒメノに振り返った。
「――どうやらハメられたってことみたいね。だけど。未だ手詰りじゃないわ」
そう言ってスプリングコートのポケットから取り出した手には、銃が握られていた。
「やめて、姫乃」
祈るように奈美が声を掛ける。
「よせ、姫乃」
キヌヨに拘束を解かれた伊崎もよろよろと立ち上がり、踏み出す。
ちょうどその頃、桟橋の脇の駐車場で待機する鷹羽、橿原の車の横にNSAイザナミ達を乗せた別班のNSAの車2台が走り込んできた。
NSAイザナミは、鷹羽の車に走り寄ると、鷹羽に叫ぶ。
「姫乃さんは銃を持っています。早く」
「何!」
慌てて銃を手にして、バタバタと車を降りた鷹羽達は、『ふかみ丸』へと走る。
『ふかみ丸』の後部デッキでは、姫乃が両手で銃を持ち、銃口をヒメノに向けていた。
「どうせ作りもんなんだから、鉛の玉くらい平気よね」
パンと乾いた音。
「ヒメノちゃん!」
英彦も、奈美も、伊崎も身動きが出来ない。
イザナミとキヌヨは下手に動くと奈美と伊崎に危険が及ぶため、機会を窺っている。
「ぐっ」
左の太腿から血を流し、膝を折りながらも姫乃を見つめるヒメノ。
「アンドロイドの癖に!」
再び銃声。右肩を撃ち抜かれ、ヒメノは左手で傷口を押さえる。
「やめろ!」
英彦は再び叫んだ。
姫乃は薄ら笑いを浮かべながら、一歩踏み出す。
「心臓が止まっても取り換えが効くなんて便利よね」
今度は致命傷確実だ。咄嗟に、英彦はヒメノを庇うように姫乃に背を向け覆い被さる。
――3発目の銃声が響いた。
英彦の背中を貫いた銃弾は、ヒメノの左肩にめり込む。仰向けに崩れ落ちる英彦。
「ヒコくん!」
ヒメノは慌てて手で支えようとするが、一緒に膝を落としてしまう。
「ちょっと、何やってんのよ! アンドロイドなんて取り換えの効くただの道具なのよ。そんなんで死んでも犬死じゃない。全く意味ないわ。ばっかじゃない! それに、あたしが人殺しになっちゃうじゃないの! そういうのやめてよ!」
姫乃が英彦に駆け寄り、半屈みになって睨みながら訴える。
「たとえ……取り換えが……効くとしても、大事な……人が……傷付け……られるのを、見て……いられない……だけだ。それが、種の保存……欲求という……もの……だろう?あなたも……いつか……母親に……なれば……わかる筈……だ」
「全く、あなたも、お父さんも、お母さんも、――みんなどうかしてるわ!」
姫乃は頭を抱えて天を仰ぐ。
その時、鷹羽達が後部デッキに駆け込んできた。鷹羽と橿原は姫乃に向けて銃を構える。
足音に気付き、背後を一瞥した姫乃は、ひと息深く息を吸うと、
「——ほんっと、手回しがいいこと」
と呟いて、銃を逆さに持ち替え、ゆっくりと英彦を回り込む。
そして、膝を付いているヒメノの横に片膝を付くと、ヒメノの手を取り、銃を握らせた。
「そんな傷でも、銃ぐらい握れるでしょ。さ、仇を撃てばいいわ」
「何をするの姫乃!」
奈美の声が飛ぶ。
「——いや、やめて、私、出来ません」
「このままちょっと引き金引くだけよ。あたしも手伝うから」
ヒメノは、銃の柄を両手で掴み、縋るように額を付けて引き金に指を掛けさせまいと抵抗する。
「止めて下さい。出来ません。出来ません。出来ません……」
「さぁ、やりなさいよ。ほら!」
「私は、——私は、あなたのDNAで作られました……。だから、あなたを殺せません。あなたを傷付けられません。だから、お願い。やめてぇえ――!」
肘から崩れ、拝むように銃の柄を握り、一段と深く、額を床に付けるヒメノ。
「――そん、な。あり、得ない……」
姫乃の手が銃から離れ、立てていた片膝を床に落とし、ペタリと尻を付けて座り込む。
「何処で……?」
姫乃は、呆然とした瞳を奈美の方に向ける。
「姫乃!」
奈美が弾けた。しゃがみこんだ姫乃に抱き着き、そのまま床に押し倒す。伊崎は、ハッとして救命用具を取りに船長室に走った。
鷹羽、橿原は銃を仕舞いながら、奈美と姫乃に駆け寄る。
キヌヨは倒れた英彦に駆け寄り、シャツをはだけ、傷の状況を見ると、貫通した両側の傷口にシャツを押し当てた。
姫乃は鷹羽と橿原に両脇から立たされると、そのまま引きずられるように連行された。奈美はイザナミにひと声掛けると、姫乃に付き添うべく鷹羽達を追う。
イザナミとNSAイザナミの3人は、楊と紅鈴をNSAの車に連れて行く。楊達は歩けけたが、スリープモードの紅鈴は歩けなかったため2人掛かりとなった。
救命用具を抱えて戻って来た伊崎は、キヌヨの指示で英彦に包帯を巻き始めた。
キヌヨはヒメノの左の太腿に包帯を巻きながら伊崎に声を掛ける。
「――教授、救急ヘリ到着まであと10分だそうです」
キヌヨは、NSAイザナミからの連絡を伊崎に伝える。
「10分か。――とてつもなく長いな」
キヌヨがヒメノの左腿の包帯を巻き終わると、ヒメノは顔を上げて、英彦に擦り寄り、血に汚れた左手を服で拭って英彦の頬を優しく撫でる。キヌヨは邪魔にならないよう右肩に包帯を巻いていく。
「――ヒコくん。私、ヒコくんに言わなきゃいけないことがあるんです」
薄目を開けながらヒメノを見る英彦。
「こんな時になんですけど。私、赤ちゃん、出来たんです」
喘ぎながらも、英彦は笑顔を作る。
「え、ほんと? 良かったね……。これで、種の保存……欲求も、エミュ……レート、出来る……ね」
伊崎は包帯を巻く手を止めて、驚いた顔でヒメノを見る。
「そんな怪我で、大丈夫なのか?」
「大丈夫です。赤ちゃんがいる私は、ラボのコクーンの中ですから」
そうか、とひと際険しく顔を歪めながら、再び包帯を巻き始める伊崎。
「ヒメノ……ちゃん、何で……泣いて……いるの?」
「泣いてなんかいませんよ。涙出ないの知っているでしょう?」
「涙は、出な……くても、ちゃんと……伝わってくる、よ。ヒメノ……ちゃんは、もう、空っぽ……じゃ、ない、……ね」
英彦は、荒い息をしながら、薄目でヒメノを見つめる。
「僕は、君と……会えて……本当に……良かった。ヒメノ……ちゃん、ありが……とう」
「そんな。これで終わりみたいな言い方しないで下さい!」
「――ラボに、ヒコ……ロイドが……居る。僕が……育てた、僕の……AI……だ」
「はい」
涙の無いくしゃくしゃの顔でヒメノが頷く。
焦点の定まらない目で、ヒメノを見詰め、英彦は言葉を絞り出す。
「聞こえて……いるか、ヒコ……ロイド。これが、最後の、チュー……ニング……だ。僕に、代わって、ヒメノ……ちゃんを、赤……ちゃんを、……家族を、……国を、守って、くれ……」
それだけ言うと、ひと息大きく息を吸うように仰向けになり、目を閉じて呟く。
「あか……ちゃんか、どっち……かなあ。抱いて、みた……かっ……たなぁ」
キヌヨが、英彦の頬にあったヒメノの手を優しく退けて、ヒメノの左肩に包帯を巻いていく。
「ラボに戻ったら、弾を取らないといけませんね……」
「ちくしょう、血が全然止まりゃしねえ!」
英彦の包帯を巻き終えた伊崎は、膝を付き、くしゃくしゃの顔で拳をデッキにぶつけた。
ヒメノの包帯を巻き終えたキヌヨは、英彦の手首をとり、微妙な力加減で脈と血圧を確認する。
「――教授、血圧があまり良くありません。胸の方の傷口を強く押さえていて下さい。私は背中を押さえます。少しでも失血を抑えないと……」
「――ああ、そうだな」
走って戻って来たイザナミが、ヒメノを抱き起し船室のコクーンへ連れていく。
伊崎とキヌヨは、傷口を押さえ続けた。
10分後、救急ヘリが到着した。
救急ヘリにはキヌヨが付き添った。伊崎自身が搬送に付き添いたかったが、NSAから現場検証の立ち合いを求められたからだ。
NSAの別班にはNSAイザナミ達が付き添い、紅鈴と楊達のAIをサポロイド社で取外した後、戻って現場検証を行うことになった。
その間、ヒメノは船のコクーンで休ませられた。
現場検証が終わり、伊崎とイザナミが後部デッキの血の跡を洗い流し終わった頃、キヌヨから、英彦の訃報が届いた。
失血が酷く、搬送先の病院で息を引き取ったとのことだった。
※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。
また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術
は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは
ありません。
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