第37話 誘い水
―誘い水—
3月某日、カラカラと店の戸を開けた紅鈴が、居酒屋オロチのカウンターの九条と二階堂に気付き、軽く手を振って合流する。
「おふたりとも、お久し振りです」
駆け付けの生ビールを注文しながら、おしぼりを手に、挨拶を交わす紅鈴。
「あ、鈴さん、お久し振りです」
と返しながら、カバンの中を探る二階堂。
「これ、バレンタインのお返しです」
可愛らしい袋に包まれたクッキーが紅鈴の前に置かれる。
「あら、頂いていいんですか? ありがとうございます」
「こいつ、いつ鈴さんと会えるかわかんないからって、毎日のようにこの店に来たがっていたんですよ」
「それはそれは、――今日、お会い出来て良かったです」
と、微笑む紅鈴。
生ビールが到着すると、ありがとうございます。と言ってグラスをぶつける。
「――鈴さん、ちょっと聞いて下さい」
「はい?」
「九条さん達、来月、宮古島に行くことになったんですけど、僕は居残りなんですよ。酷いでしょう?」
「まあ、それは二階堂さんには残念ですね」
そう言って困った顔で相槌を打つ紅鈴。
「そうなんですよ。僕は未だ新型機の開発中で抜けられないのに」
「――あのですね。別に遊びに行くわけじゃないんですよ? それに、今回はこいつの出番が無いだけなんす」
すかさず弁明する九条。
「ですよね。ふふ……。ところでいつ出航なんですか?」
「4月の第一土曜日になりました」
「朝お早いんですか?」
「いえ、うちはいつもは午前中から資材や食料やらを積み込んで、午後に出ることが多いんですが、今回は、研究室の人達が先に入って準備をしてるんで、4時頃に合流して、5時には出航出来るんじゃないかな」
「ゆっくりで良かったですね。みなさん男性ばかりですか?」
「1人、女の子もいますけど、他は男ばっかですね」
紅鈴と九条のやりとりに、自分も混ざるぞと二階堂が参戦する。
「――しかし、ヒメノちゃんもタフですよね。まだ若いのに男に交じって2泊3日のツアーをやり通しちゃうんだもんな」
と、二階堂は、気になる女性の前で他の女性を褒める愚を犯す。
「二階堂さんは、そのヒメノさんがお気に入りなんですか?」
「え、そんなとんでもないです。ヒメノちゃんには彼氏もいますし……」
慌てて手を振り否定する二階堂。
「あら、そうなんですか。良かった」
「お前は、そういうとこが甘いんだよ、二階堂。女性と話している時に、他の女性を褒めるのはよろしくない。かといって悪く言うのもよろしくない。出来れば、話題にするのを避けた方がいい」
「すいません」
紅鈴にペコっと謝る二階堂。
「ふふふ」
上司と部下のやりとりに紅鈴は笑みを漏らした。どうやら、黒ずくめを着る必要は無さそうだ。
* * * *
4月第一土曜日、前日に伊崎から予定より早く11時に来て欲しいとの連絡を受けた九条と七瀬は、七瀬の車で『ふかみ丸』に来ていた。
「今日は、随分早いですね。どうしたんですか?」
九条が船長室の扉を開けて中に入ると、中には伊崎と奈美の他にも来客がいた。
「――かおり。それに大輔も」
「あれ、光。芳美」
続いて中に入った七瀬も驚きの表情。子供達は、父親達に手を振っている。
伊崎は、頭を掻きながら、事情を話し始める。
「実は、一昨日、サポロイド社から急遽延期の相談があって、うちの研究室でもスケジュール調整をしようと相談したんですが、七瀬君と九条君から、せっかくだからそのまま船に来てもらいましょうって提案がありまして」
「ごめんなさい。華東からの部品の到着が遅れてしまったので、急遽出航を延期してもらうことにしたんです」
奈美が九条と七瀬に頭を下げた。
「——どういうことでしょう?」
七瀬も状況を把握出来ずにいる。
「せっかくだから、私達はお休みを頂くことにしたのよ」
と、七瀬女史。
「ここのところ家族でゆっくり過ごすことが無かったし、子供達も来週から新学期だから、一緒に八景島にでも行かないかってことになったの」
九条女史は、子供の頭を撫でながら説明する。
「つまり、宮古島ツアーは延期が転じてドッキリ企画になったというわけです。どうぞ、ご家族で、ゆっくりして下さい」
伊崎は、七瀬と九条に頭を下げる。
「どのくらい延期になるんですか?」
と、九条。
「この際、二階堂君のスマート・フカミンの完成を待って、一緒に進める手もあるかなと思うので、その場合、2、3か月先になるでしょう。――いやはや、申し訳ない」
伊崎は、膝に手を付いて、さらに深く頭を下げる。
「伊崎さん、そんなに謝らないで下さい。事情はわかりましたから」
七瀬が伊崎の背を起こすように、膝に付いた伊崎の腕を取る。
「子供達もすっかりその気になってるわよ。ねえ?」
九条女史は子供の顔を見る。
「うん。水族館行きたい」
大輔と呼ばれたその子供は、好奇心を宿した瞳を九条に向ける。
「――やれやれ。道理で桟橋の駐車場に見慣れた車があるわけだ。会社には週明けに報告すればいいだろうし。今日は家族サービスとしますか。七瀬さんは大丈夫ですか?」
「私も週明けに報告すれば問題ありませんよ」
やったあ、と七瀬の娘、芳美も手を叩いて喜びの声を上げる。
「おふたりには、本当にご迷惑を掛けてしまってすみません」
奈美が、追い打ちで頭を下げる。
「そんな白石さん。本当に大丈夫ですから、どうか頭を上げて下さい」
七瀬は恐縮しきりだ。
「それでは、伊崎さん。お言葉に甘えて、お休みを頂きます」
七瀬女史が、その場を纏めるように伊崎に頭を下げ、九条女史もこれに倣う。
「ああ、2人ともゆっくり休んで下さい」
伊崎が頷きを返す。
九条と七瀬もお辞儀をして、船長室を出て行く。
伊崎と奈美は、船の外に出て2台の車が出て行くところまで見送った。
伊崎と奈美が船長室に戻ると、船室に控えていた英彦、ヒメノ、イザナミ、キヌヨが揃っていた。
「さて、こっちはうまくいったぞ」
伊崎は、4人を見回して頷いた。
「教授、全員配置は予定通りです」
英彦が報告する。
「NSAのイザナミさん達は、ハニーロイドカフェと蒔田の隠れ家を張っています。動きがあり次第、NSAの別班の車でこちらに向かう手筈です」
伊崎がイザナミとキヌヨを見ると、ふたりともNSAが手配した防刃チョッキを着込み、腕や脛に軽い防具を付けた動き易い恰好をしている。
「奈美さん、イザナミさん、キヌヨさんは1階の船室で待機します。僕とヒメノちゃんはサキモリで作業するふりをして待機します。桟橋の駐車場には鷹羽さんと橿原さんが待機しています。それから、和華人のベースサーバーの通信遮断手続きも手配済みです」
「通信遮断のタイミングは?」
伊崎は英彦を見る。
「連中が船長室から出て来た後にGOサインを出そうと考えています。ヒメノちゃんからNSAのイザナミさんに連絡をして、イザナミさんがNSA本部に連絡を取ります。それから通信が遮断されるまで、約15分だそうです」
「そうか、15分か」
「連中のウェットロイドは3人。こちらも3人。僕と教授は格闘は出来ませんが、足に組み付いて邪魔するくらいなら出来ると思うので、やや優勢じゃないですか?」
「俺もか?」
「当然です。教授は船長室で、思いっ切り、本気で、彼らの邪魔をして下さい」
英彦は、思いっ切り、と本気で、を強調して言い切る。
「先生、気を付けて……。でも頑張って」
奈美も優しく伊崎の背中を押す。
一瞬情けない顔をした伊崎だが、目を閉じてひと息深く深呼吸をすると、次に目を開けた時には、瞳に強い意志を宿していた。
「よし、じゃあ、全員持ち場に付こう」
――今度こそ、姫乃を取り戻すんだ。
伊崎は、その決意を心に刻んだ。
* * *
13時過ぎ、蒔田のNSAイザナミから通信が入る。
「ヒコくん。蒔田が動きました。姫乃さんと紅鈴です。車で移動するようです」
約15分後、ハニーロイドカフェのNSAイザナミからヒメノに通信が入る。
「姫乃さん達の車は、ハニーロイドカフェで楊2人を拾って移動中。イザナミさん達がNSAの車2台で追っています」
「じゃ、僕は教授に伝えてくる。すぐ戻る」
英彦は2階の船長室に駆け上がり、扉をノックする。
「教授」
「入ってくれ」
船長室のダイニングで、扉側を見る席に座り、思い詰めた表情の伊崎。
英彦は、狙い通りという表情で伊崎に声を掛ける。
「動きました。――姫乃さんも一緒です」
息を詰めるようにして英彦の言葉を待っていた伊崎は、深く息を吐く。
「ふぅ……。姫乃が乗って来るかどうか、正直ドキドキもんだったが、九条さん達に小芝居まで打って、ぎりぎりまで出航する振りをした甲斐があったということか。 ——いよいよだな」
「はい。頑張りましょう」
後部デッキには、サキモリの脇でパソコンの画面を見て作業をするふりのヒメノ。
桟橋側からも横顔くらいは確認出来る筈だ。英彦は、ヒメノと被らないように桟橋から見えるようにヒメノの奥に立つ。
遠くに桟橋の駐車場に入る1台の車が見えた。
「そろそろだよ。ヒメノちゃん」
「了解です。ヒコくん」
ヒメノはパソコンを閉じて来客を待つ。
紅鈴と楊達は、ゆっくりとした足取りで堂々と『ふかみ丸』に乗り込んできた。
英彦達の背中に声が掛かる。
「ちょっと失礼するわよ。おふたりさん」
英彦達が振り向くと、後部デッキの入口に2人の楊を従えた紅鈴が立っている。3人ともスーツ姿だ。
「あ、あんたは、まさか、あの時の……」
英彦が、用意したセリフを棒読みする。
「あら、覚えてくれてて嬉しいわ。1年振りかしら、――カグヤマの坊ちゃん」
「こんな所へ、何しに来た」
「取材よ、取材」
「許可も取らずに取材とは言わないだろ」
「許可なんて求めて無いわ。知りたいことを調べて回るだけよ」
じりじりと、間を詰めてくる紅鈴達。
「許さない、と言ったら?」
「言ったでしょ。許可なんて求めてないの。力ずくで調べるだけだから」
楊が動いた。
1人は英彦に向かって飛び、一足で間合いに入り込む。英彦は、咄嗟に手をクロスし身を屈めてガードするが、ガードの上から蹴りを喰らい、体を浮かせる。
「ヒコくん!」
駆け寄ろうとするヒメノは、紅鈴の蹴りに阻まれた。ヒメノはこの蹴りを屈んで避ける。
英彦との間に紅鈴が入る形になり、ヒメノと英彦は分断された。もう1人の楊は、その隙に2階への階段に足を掛けている。
「うおお」
英彦は、宣言通り、楊の足にタックルに行くが、楊は軽くこれをいなした。
ヒメノと紅鈴は、間合いの取り合いに入る。そうしながらも、ヒメノは英彦を援護出来るポジションに動こうとするが、紅鈴はこれを許さない。
格闘技にずぶの素人の英彦は、間合いというものを知らない。楊は、ひと息で間合いを詰めて英彦にジャブを繰り出す。ジャブを受けてのけ反りながら、両手で必死に打撃をガードする英彦。そして、屈んだ姿勢から、楊の足に組み付こうと飛びつく。楊は、後ろに飛んでタックルを避けながら、上から英彦の背中に拳を打ち下ろす。床に手を付きながらも、英彦は前へ。
楊は、体を入れ替えざまに、英彦の腹に膝蹴りを入れていく。蹴り飛ばされて、呻きながらも、英彦は楊から目を離さない。
紅鈴は打撃を交えながら、間合いを詰めてくるが、ヒメノはこれを躱し、叩き、有効打を打たせない。ヒメノの方も、返し技を繰り出すも躱され、組み手を取るチャンスも無く、紅鈴の体を崩せないでいた。
「うりゃー」
2階から伊崎の叫び声が聞こえた。楊が船長室に入り込んだらしい。
負けてはいられないと、英彦も、今一度タックルに行く。
「でりゃー」
間の抜けた掛け声とともに、楊の太腿を目掛けた英彦のタックルは、顔面への膝蹴りで迎えられた。思わず顔を押さえようとした手は、体を入れ替えた楊に後ろから掴まれた。
楊の膝が英彦の背中に乗る。――床に顔を押し付けられた英彦は、テープのようなもので両手が後ろ手に縛られたのを知る。楊は、そのまま英彦の両足にも組み付き、じたばたする足を捉え器用に縛り上げた。
「ヒコくん!」
「行かせないわよ」
紅鈴は、ヒメノと英彦の間という立ち位置を維持しながら、ジャブや蹴りで牽制して、ヒメノとの間合いを保っている。
「さすが性能の差、ってところかしら。とてもじゃないけど倒せる気がしないわ」
「やってみないとわからないじゃないですか」
「ま、やる必要も無いのだけど、ね」
腰を落として足払いを仕掛ける紅鈴。
これを躱すヒメノ。
こうして紅鈴がヒメノを牽制している間、楊は時にはボディを軽く叩きながら、サキモリの周囲を調べて回っている。
「潜水艦の警戒網を作っている民間組織があるって聞いたんだけど、いったいどんな仕組みなの?」
紅鈴は、身構えたままヒメノから目を逸らさずに、ヒメノの動きに合わせて、英彦との間を妨げる立ち位置を維持する。
「さあ、何の話をしているのか、私にはわかりません」
ヒメノも、紅鈴から目を逸らすことなく、じりじりと立ち位置を変えている。
視界の隅に、2階からカンカンと軽い足取りで降りてくる楊が見えた。
両手両足を縛られた英彦がヒメノを見て頷いた。
――イザナミさん。お願いします。
ヒメノの正面には紅鈴が隙の無い構えで立っている。
サキモリを見ていた楊がヒメノの右手に立ち、2階から降りて来た楊は、紅鈴の後ろを通って、ヒメノの左手に立った。
紅鈴の奥には、蹲った英彦がいる。その向こう、2階からの階段には、手足を縛られながらも芋虫のように這って降りてくるいじらしい伊崎の姿があった。
※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。
また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術
は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは
ありません。
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