第07話 ヒコボシ卒業

―ヒコボシ卒業―


 翌日、ヒメノは少し早めにコントロールルームに来ていた。ヒコボシは、ネットワークが遮断されているため、スタンドアロンで動いている。


「喜怒哀楽の理解、予測と結果のギャップへの反応、新しく情報が入った時の多階層メタ化とフィードバック、限界効用と知識欲パラメーター、生存欲求や社会貢献との因果関係、どれも動くことは動いているみたいだ」

 英彦は、ヒコボシのモニターを見ながら観察結果を述べる。


「リアルに動くところを見られないのが残念ですね」

「全くだよ。昨日のサイバー攻撃を受けて、教授が専門機関に相談しているみたいなんだけど」

「専門機関、ですか?」

 ヒメノが首を傾げる。

「サイバーテロやサイバー攻撃の専門家らしい。うちの研究室のネットワークは直接オープンネットワークに繋がっていたのだけど、接続先プロバイダーとか認証機関とかを変えて、監視するような方策を検討しているんじゃないかな」


 コントロールルームのドアがノックされて五十音ちゃんが顔を出す。

「香春さん、教授がみんな集まるようにって」

「了解」


 ヒメノを連れてコントロールルームを出ると、伊崎が部屋から出てきていた。

「みんな聞いてくれ。ああ、白石さんも一緒に聞いて欲しい」

 伊崎は軽く咳払いをして面々を見回す。

「専門機関の調べでは、昨日の事件は、サイバー攻撃の疑いが強いらしい。多数のサイトを複雑に経由していて、誰だかわからないようになっているので犯人らしき個人や組織は特定出来ないそうだ。暫くは、専門機関に監視してもらうことになった。準備が出来るまで数日掛かるそうだから、不便を掛けるが、それまではインターネットは使えない。使えるようになったら連絡するが、状況によっては、いつまた遮断するかもわからないので、バックアップを怠らないようにしてくれ。――それと、面倒ではあるが、毎日パスワード変更もお願いしたい。以上だ」

 研究室のメンバーの顔が一斉に歪むのが見える。

 伊崎は部屋に戻っていった。七瀬女史達もそれぞれの作業に戻っていく。


 英彦は、五十音ちゃんを振り返って声を掛けた。

「――じゃあ、五十音ちゃん、準備しよっか」

「はい」


 再びコントロールルーム。

 英彦、ヒメノ、五十音ちゃん、そしてヒコボシがディスプレイを囲んでいる。


「さて、これからヒコボシの感情表現の理解力と物語的理解力を確認しようと思う。五十音ちゃんにも手伝ってもらいたいのでよろしく」

 ヒメノと五十音ちゃんが頷く。


「これから、とある映画をヒコボシと一緒に見て、あれこれヒコボシに質問したり、ヒコボシの質問に答えたり、という座談会形式でテストをするのだけど、五十音ちゃんには記録係と進行をお願いしたいんだ」

 そう言って、英彦は三脚に据え付けたビデオカメラを指差す。

「ビデオは回しっ放しでいいけど、テストしたい質問をリストアップしているので、漏れなく質問出来ているかチェックして欲しい。もちろん五十音ちゃんも議論に参加してもらって構わない」

 はいこれ、と英彦は五十音ちゃんに質問事項のリストを渡す。


「ヒコボシも準備はいいか? 今回は絵本と違って映画だからな。途中で口を挟むなよ」

『準備オーケーです。了解しました』

「じゃぁ、始めようか」

 英彦がスマホを操作すると、ディスプレイにネット動画サイトの画面が映し出された。

「スマホは使えるからね」


 訛りの酷い田舎娘が、言語学者の教育を受けて上流階級の貴婦人として認められる存在になるというサクセスストーリーだが、華々しい成功の裏で、言語学者と田舎娘の人間関係が拗れたり戻ったりという人情の機微が描かれていた。

 ヒメノは時々目薬を注しながら見入っている。英彦は、モニターに映る喜怒哀楽の感情表現を横目で見ながら、ヒコボシが落ちこぼれずに付いてきているとほくそ笑んだ。



 映画が終わり、英彦はスマホを操作してディスプレイを落とす。


「――はい、おしまい」

 余韻に浸っている様子の五十音ちゃん。


「さて、それでは座談会を始めますか。五十音ちゃんもいい?」

「はい。大丈夫です。えーっと、まず初めに――ヒコボシ君、質問はありますか?」

 五十音ちゃんがヒコボシの向きを変えながら話しかけると、ピピッと反応があった。

『上流階級と中流階級や下流階級を分けるのは、金銭的な裕福さでしょうか?』

 英彦は、おっとそこを突くか? という顔になる。

「多くは金銭的な豊かさだと思うけど、家柄とかも関係するかな」

『家柄とは王族や貴族等のことですね?』

 ヒコボシが辞書的な知識で確認してくる。

「他にも、先祖が代々王様の信頼の厚い家柄だったとか、武勲を立てて有名になった家臣の一族とか色々だと思うけど、必ずしも金銭的に裕福なわけではないんだ。だからお金が無くても誇りがある場合があるんだ」

 英彦は、没落貴族の物語の知識で補足する。


『逆に言えば、金銭的に裕福でも、家柄によって区別されることがあるということですか?』

 ヒコボシの知識欲パラメーターが上昇する。

「そう。成り上がりと言う言葉があって、もともと貧しい家柄の人間が、急にお金持ちになったからといって、上流階級に受け入れてもらえないこともあり得るんだ」

『それはどうやって見分けるのですか?』

「大抵は、言葉遣いとか、挨拶や食事の仕方などに品格という形で表れているんだと思う」

『金銭的な裕福さや身分の違いが立ち居振る舞いを規定することが多いことから、逆に、立ち居振る舞いが金銭的な裕福さや身分を連想させる、ということですね』

「そうだね」


 英彦は、メタ化の状態を確認するためにヒコボシに比喩をさせてみることにした。

「ヒコボシ、他に立ち居振る舞いで模倣するものに心当たりは無いか?」

 ヒコボシが答える。

『ものまね、昆虫の擬態、詐欺、プラシーボ効果、エミュレータ―、チューリングテスト』


 ヒコボシのモニターに、ものまね芸人の映像や、擬態する昆虫の写真、詐欺事件のニュース記事、エミュレーターやプラシーボ効果の説明、アラン・チューリングに関する記事など、ヒコボシのライブラリ情報がパラパラと映し出された。

 比喩表現が出来るということは、知識のメタ化が出来ていることを示している。


 五十音ちゃんが首を傾げて英彦を見る。

「チューリングテストって何ですか?」

「20世紀半ば、アラン・チューリングと言う大天才が行った実験のことだよ。顔が見えないよう、テレタイプで会話をさせて相手がAIか人間かを当てさせるというやつ。テレタイプは今でいうとショートメールみたいなものかな」

「一般名詞に名前が残るなんて凄いです!」


 ちらりとカンペを見ながら、五十音ちゃんがヒコボシに質問を投げる。

「ヒコボシ君、言語学者が田舎娘を賭けの対象にしたことについてはどう理解していますか?」

『当初、言語学者は田舎娘に対して、同じ階級の人間ではなく、道具であるかのように見ていたので賭けの対象にした。ところが、終盤、田舎娘の反発を受けて、差別意識が無くなり、同列の人間として向き合うに至って、反省したのだと思います』


 ヒメノがこれを深掘りする。

「言語学者の感情の変化は、何が原因なのでしょうね?」

 ヒコボシが、ピピッとビープ音を鳴らして答える。

『田舎娘が家を飛び出した時、言語学者が寂しい表情をしたところを見ると、教育のプロセスを経るうちに、何らかの愛着が形成されていたと考えます』


 五十音ちゃんが、さらに突っ込む。

「その感情は、ヒコボシ君の知っているどの感情に最も近いですか?」

『教え教えられる関係は、親子関係に近いと思います。ですので、親が子に持つ愛情に近いと思います』


 ヒメノが話を広げにかかる。

「ヒコボシ君は、親子の愛情をどういうものだと理解しているのですか?」

『自己の分身として自己愛を投影する対象。生命の危機に際しては優先すべき対象。などの表面的な知識はありますが、私の中の因果関係データには生存欲求の延長としてしか親子の愛情を捉えられません』

「あなたの因果関係データには、社会的な貢献としての自己犠牲は含まれますか?」

『私自身については含まれます。万が一、私自身の知識欲の追及や喜怒哀楽パラメーターの充足という欲求と社会貢献が競合する場合、社会貢献を優先するという設定が、管理者によりなされています』


 ヒメノが英彦を見ると、英彦は深く頷いている。

「生存欲求や種の保存欲求など、人間の本能にプログラムされた深いレベルの自律性は人間の肉体が無ければ模倣不可能だと思うんだ。だから、ヒコボシは、自身の生存欲求より社会貢献を優先するように設定したんだ」


 2人を見回す英彦。

「2人は、他に映画の感想とかある?」

 五十音ちゃんが、難しそうな顔で呟く。

「この映画、存在は知っていたのですが、実際見たのは初めてで、面白かったです。女優さんがすごく綺麗で魅力的でした。考えてみると、家柄とか、階級とか、貧富の差とか、人種差別とか、まだまだ地球上には色々な区別が存在するのに、人類自身が整理出来ないまま、そんなぐちゃぐちゃをヒコボシ君に教えるのは難しいことだと感じました。私達自身も、そういう意識ってあるよな、と言う事実を知っているだけに過ぎないですもの」


 ヒメノにも響くところがあったらしい。

「私もこの映画を見たのは初めてでした。さっき、チューリングテストの話が出ましたけど、もしAIが人間そのものの立ち居振る舞いを覚えた時、人間はそのAIに対しても親子の情みたいなものを感じるのだろうか、とか、人間はAIを差別するだろうか、とか考えてしまいました」


 英彦は2人に頷く。

「五十音ちゃんが言うように、人間同士ですら差別や区別が消えることは無いから、例え将来、人間と見紛うアンドロイドが生まれたとしても、差別する人はいなくならないと思う。でも、逆に協力し合う人達もいなくならないと思うんだ。だから、僕はAIやアンドロイドと協力し合う世界は作れると思っている」

「私もそう思います」

 五十音ちゃんも頷いた。

「ありがとうございます。それを聞いて私も、ーーアンドロイドの作り手として嬉しいです」

 ヒメノは照れたような笑いを見せる。


 さて、と英彦は手を叩くと2人に目を向けた。

「ふたりともありがとう」

 英彦はそう言うと、ヒコボシの端末を軽く撫でた。

「ヒコボシの基礎訓練はこれで終了だ。ネットワークが復旧次第、ヒコボシは、神話や寓話、小説や映画、歴史やニュースなどから人間の行動規範に関するメタ情報を蓄積していって欲しい。そして、この研究室の研究テーマ、海洋資源開発の発展と脅威に関わりそうな情報があればピックアップして教えてくれ」

『了解しました』

「ヒメノちゃん、五十音ちゃん、それからヒコボシもお疲れ様でした」

 英彦は深く頭を下げた。




 ヒメノを連れてコントロールルームを出た英彦は、伊崎教授の部屋へ向かった。

「どうぞ、入って」

 英彦のノックに教授の声が応える。

「失礼します」


 伊崎は英彦達にテーブルの席を示しながら、自分も椅子を引いて腰を下ろす。

「ふたりともお疲れ様」

 伊崎は労いの言葉を掛けて、少し間を取った。


「――それで、ヒコボシの手応えはどうだったのかな?」

 英彦は、率直な印象を答える。

「感情表現については、どういう局面でどういう感情表現をするのか、と言う日常会話レベルのデータは取れたと思います。映画などの物語を見せて、感情表現を理解することも出来ました。今のところは知識欲に基づいてネットから情報を収集するという形ですが、自律性を持ったと言えると思います」

 伊崎は腕を組みながら、眉を上げる。


「その自律性のエンジンはどういう因果関係を軸に回っているのかね?」

 それはですね、と英彦は続ける。

「ヒコボシの生存欲求は、社会的な繁栄や脅威をもたらす情報に対する知識欲とリンクしています。ネットワークが復旧したら、インターネットを探索して、海洋資源開発の発展や脅威に関わるニュースをあれこれ調べてもらう予定です」


「そうか、ならば、我が研究室の脅威だけでなく、我が国の脅威についても目を光らせることが出来そうだな」

「どういうことですか?」

 いったい教授は何を言い出すのだ? と英彦が訝しむ。

 伊崎は、人差し指を立てて、英彦を見詰める。


「タナバタの情報をヒコボシに流し込んでみないか?」

「タナバタは主には海中の情報を拾うのですよね?」

「そう、我が国の海底資源を奪おうとするものや、我が国に侵入しようとするものが、海の中にはうようよ居るかもしれんだろ?」

 ヒメノが恐る恐る口を挟む。

「あの、もしや、タナバタは、海中を警戒する目的で……」

「安心して海底資源探査を行うためには、まず、海中の安全を確保しないと、だろう?」

 そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべてヒメノを振り返ると、伊崎はすっと息を吸って纏めに入る。


「今回のヒコボシの実験は、感情表現というフィルターを通して個々の情報の因果関係や相関関係を、社会の繁栄と脅威に照らして捉え直す、自律型エンジンの確認であったと思っている。私としては、充分実用段階に移せる結果が得られたと思う。なので、実験段階のプロジェクトはここでひと括りとしよう。――白石さん。ヒコボシの実験協力もここで終了とさせて欲しい」

「はい。これまでどうもありがとうございました」

 ヒメノがペコリと頭を下げる。


「白石さんが来るようになって、研究室の雰囲気が随分明るくなったんだよ。ちょうど、沖ノ鳥島ツアーの準備が佳境だったこともあって、みんなピリピリしてたからね。私からもお礼を言いたい。本当にありがとう。今後とも何かとよろしく、と支社長さんにも伝えて欲しい」

「はい。申し伝えます」

「では教授、僕達はこれで失礼します」

 と、教授の部屋を出るヒメノと英彦。



「香春さん、通り過ぎてみるとあっけないものですね。ヒコボシ君とのやりとりは、私にとっても、とても為になりました。ありがとうございました」

「こちらこそ、ヒメノちゃんには気付かされることも多かった。絵本の朗読とか、ヒコボシへの教え方とか、とても上手だったしね」

「ありがとうございます」


 ふたりが出て来たのを見て、九条女史が慌てたように四方ちゃんに声を掛ける。

「やば、アッコちゃん!」

「は、はい師匠!」

 と、四方ちゃんはバタバタとロッカールームに消える。


 じゃ、すいません、今日はお先に失礼します、と自席でリュックを拾い、ヒメノを送って研究室を出ようとする英彦。

「香春君、ちょっと待って、ちょっと待ってよ」

 と、九条女史が引き止める。

 バタバタと戻ってくる四方ちゃん。九条女史は、パンパンと手を打って声を張った。


「えー、今日でプロジェクトが最後となるヒメノンに、ささやかながら、我々女子一同から花束を贈りたいと思います。イェー!」

 七瀬女史と五十音ちゃんも立ち上がり、拍手でこれに応える。

 プレゼンターの四方ちゃんが、小さな花束を持って、ヒメノに向き合うと、

「ヒメノン。短い間でしたけど、楽しかったです。お世話になりました」

 と、深々とお辞儀をして花束を差し出す。

「え、そんな、どうも、こちらこそ、ありがとうございます」

 と、受け取るヒメノ。

 周りの女子全員が拍手。


「香春君のプロジェクトがどうなってしまうのか、私達には見当も付かなかったけど、どうやら、それなりに形になったことは有難いです。何より、香春君には、これから沖ノ鳥島ツアーに向けて、全力を出してもらわねばならないのだから」

 七瀬女史が女性陣を代表して切り出す。

「さりとて、ヒメノンと言う強力なキャラクターがこの研究室を去ってしまうのは、とても名残り惜しい……。短い時間だったけど、あなたの言葉と振舞いは、私達に少なからず良い刺激を与えてくれました。また、きっと違うプロジェクトで一緒になれたらなと思います。例えば、沖ノ鳥島ツアーとか、沖ノ鳥島ツアーとか……? ヒメノン、ありがとう」

 再び研究室は拍手に包まれた。

「本当にみなさん、ありがとうございます。――お世話になりました」

 ヒメノは、ひとりひとりに目を合せて、ひと息深くお辞儀をした。


 

 研究室を出ると、さて、とヒメノが英彦に詰め寄る。

「香春さん、約束覚えてますよね?」

「約束?」

「そうです。連れて帰ってもらう約束です」

「も、もちろんですよ」

 1%くらい忘れていてくれることを期待していた英彦だったが、脆くも期待は崩れ去った。

 カグヤマはただの喫茶店ではない。英彦の実家である。つまり、英彦の家族に、ヒメノを紹介するということである。例え、ヒメノの目的が麻婆豆腐パスタでしかなかったとしても。


  *   *   *


 京急線を杉田で降りて、15分程歩いた所にカグヤマはあった。


 扉を開けると、店内に他の客の姿は無い。

「いらっしゃ……」

 テーブルを拭いていた寿美は、弟が女性を連れているのを見て固まった。


 奥から、幸子も顔を出す。

「おや、あんたが女の子を連れてくるなんて。お父さん、お客さんよ」

 仕込みの最中だった道彦も、洗った手を拭きながら出てきて歓迎した。

「いやぁ、いらっしゃい」


「こちら、仕事で付き合いのある研究員の白石さん。麻婆パスタの話をしたら、是非食べたいとのことで、お連れした次第です」

 英彦は、道々、サポロイド社の名前を出さないようヒメノに根回ししていた。寿美がソフトロイドに職を奪われていたからである。


「白石ヒメノと申します。よろしくお願いします」

 と、ペコリ。

「英彦の父の道彦です」

「母の幸子です」

 道彦達も軽く頭を下げる。


「こちらのテーブルへどうぞ」

 寿美が、2人掛けのテーブルに水とおしぼりを置いて、他人行儀に案内する。

「弟がお世話になっております。姉の寿美です」

「香春さんには、こちらこそお世話になっております」


「――それで、ふたりとも麻婆豆腐の食べ方は? 飲み物はどうする?」

 寿美は2人を見ながら尋ねる。

「私は麻婆豆腐をスパゲッティでお願いします。――飲み物は生ビールありますか?」

 ヒメノは前のめりで注文を伝えた。

「ヒコは?」

「同じで」

「マーボパスタ2つと生3つお願いします」

 寿美は、道彦達にわざとらしく色付けしたオーダーを通す。

「あいよー」

 と、応じる道彦。幸子はニヤリと微笑んでジョッキを持つとビアサーバに向かった。


「香春さん、『ヒコ』って呼ばれているのですか?」

 寿美が英彦のことを『ヒコ』と呼んだことにヒメノが反応する。

「九州に『ひこさん』って山があってね。ひでひこやまって書いてヒコサン。だから、ひでひこはヒコでいいの」


 生ビールときんぴらごぼうの小皿をテーブルに運びながら寿美が解説する。英彦達のテーブルに箸やフォーク等が入ったお食事セットを置き、生ビールと小皿をとんとんと並べると、残ったジョッキを持って英彦達に向かって横向きに座る寿美。

 さすが我が姉、腰を据える気満々だ、と英彦は覚悟する。


「じゃ、私は『ヒコくん』って呼ばせてもらってもいいですか? なんか、私だけヒメノちゃん、って呼ばれるのはずるいなって思ってたんです」

「そ、それは……」

 煮え切らない反応をする英彦。

「ぜーんぜん、オッケーだよ。ヒメノちゃん。私が許す」

 寿美は英彦の思惑を無視して快諾する。

「ありがとうございます。良かったぁ」


「――はい、乾杯するよ。お疲れ様ぁ」

「お疲れ様です」

「で、ヒメノちゃんって、今幾つ?」

「25です」

 ヒメノは答えつつジョッキを口に運ぶ。

「うわぁ、若いなぁ。あたしと5つ違いか。てことはヒコとは3つ違いだね」

「――ヒメノちゃん、25だったんだ」

 英彦は思わぬ収穫に嬉しい驚きを見せる。

「あんた知らなかったの?」

「女性にそうそう年齢は聞けませんって」


 寿美は構わず掘り下げにかかる。

「ヒメノちゃん、研究員だっけ、やっぱりAIなの?」

「どちらかと言うと、人工知能、と言うよりは、人工感情って分野になりますね」

 綺麗な顎に人差し指を当てながら、ヒメノは補足する。

「アーティフィシャル・エモーション、略してAE」

「なんか、横文字にすると何でもカッコよく聞こえるのはあたしだけ?」

 寿美はケタケタと笑いながら、テーブルの箸を取り、英彦の小皿からきんぴらを奪う。


 普段であれば、文句の1つも言う局面だが、英彦はヒメノの発言の衝撃で、それどころでは無かった。

「AEって、ヒメノちゃん。人間の感情を電子的に再現しようと思ったら、血液中のホルモンやら情報伝達物質やら中枢神経の働きまで模倣する必要があるんじゃないの? そんなこと可能なのか?」

「あら、ヒコくん。インプットとアウトプットを模倣出来れば中身の模倣は必要無いって、あれはヒコくんのアイデアですよね?」

 早速、英彦の呼び方を変えてくるヒメノ。

「汗をかいたり、くしゃみをしたりという生体的な反射までは再現する必要は無いと思うのです。社会生活に必要な感情が再現出来れば」

「――確かに」

 研究者の呪縛なのだろうか、人間の持つ機能を全て再現したいというのは。そう戒める英彦の耳には、ヒメノの言うことは合理的に聞こえる。出来ることをやればよいのだと。


 何やら小難しい話になってきたと、寿美が呆れ顔になりかけたところに料理が届いた。

「マーボパスタ、お待たせしました。ごゆっくり」

 幸子が皿を置いて行く。

「ほんとだ。スパゲッティに麻婆豆腐が掛かってますね」

 ヒメノがフォークとスプーンを英彦に渡しながら目で頷く。

「ありがと」

 英彦は、さりげなく気配りを見せるヒメノに関心しつつ、マーボパスタに向き合った。

「いただきます」

 ヒメノも続いて手を合わせる。


「――どう? ヒメノちゃん」

 寿美が覗き込む。

「とても美味しいです」

 ヒメノはフォークを置いた手で口元を隠すと、目を丸くして寿美に答える。

「ヒコにはちょっと辛いかもね。もう汗かいてるし」

 ふふっと笑みを浮かべて、寿美は飲み干したジョッキを持って立ち上がった。

「ヒメノちゃん、辛いの強いんだね」

 ビールで喉を冷やしながら英彦が感嘆する。

「そうみたいです」

 その時、カラカランとウインドチャイムの音がした。

「――いらっしゃいませ」

 幸子が声を掛ける。


 入って来たのは、長い黒髪の若い女性。ちょっと濃いめの化粧をした美人である。店内をひと回り見渡すと、自己紹介を始めた。


「御免下さい。わたくし、在日華連人向けの情報サイトをやっておりまして、是非うちのサイトでこちらの喫茶店のご紹介をしたい、とお邪魔しました。ご主人は、いらっしゃいますか?」

「あ、ああ、お父さん」

 振り返って道彦を呼ぶ幸子。洗った手を拭きながら、道彦が厨房から出て来る。


「店主の香春です」

 道彦は帽子を取って頭を下げる。

「突然すみません。情報サイト和華人フーファーレン安白姫アン・ハクヒと申します」

 安白姫と名乗る女は、ささっと、流れるような動作で名刺を差し出す。

 道彦が受け取った名刺を手に椅子を勧めると、

「いえいえ、たまたま近くを通ったので、ご挨拶に寄らしていただいただけですから」

 と、手を振って遠慮を見せた。


 道彦は、眩しいような訝しむような複雑な顔で、言い難そうに言う。

「あのぉ、うちは広告とか特にお金を掛けてないので、そういうお話でしたら……」

「あら、ご主人、広告料の心配はご不要ですわ。わたくし共の情報サイトはボランティアですから」

 女は手を振りながらかぶりをふる

「お店の写真とかお料理の写真とかスタッフさんの写真などを載せてますのよ」

 そう言って周りを見回すと、ヒメノに目を留めた。


「あら、こちらは? お店のモデルにぴったりの美人さんじゃないかしら。ねぇ?」

 女は、頭からつま先まで、まるで品定めをするかのようにヒメノを見て言った。

「まあ、ヒメノちゃんだったらモデル似合うかもね」

 それに寿美が乗っかる。

「――ちょっと姉さん」

 抑えにかかる英彦。

 ほほほ、と口元を押さえて笑いながら、女は道彦に向き直った。

「では、ご主人。取材については、また改めて」

 そして、扉に向かいながらちらりと英彦達の方を見て、 

「こんな時間にお邪魔致しました」

 と、軽く頭を下げて出ていった。


 後ろで纏めた長い髪がはらりと揺れて、紅色に照り輝いたように英彦には見えた。


 ウインドチャイムのカラカランという音で我に返ったのか幸子が呟く。

「綺麗な人だったねぇ。お父さんデレデレしちゃって」

「ヒコ! あんた女の子連れてんのに、他の女に見惚れてんじゃないよ!」

 そう言って寿美は英彦の頭をパシンと叩いた。

 いや、そんなんじゃなくて、どっかで見たような、と腕を組む英彦。


   *   *   *


 店を出た女の顔からは、営業スマイルは既に消え、冷たい表情が覗いている。

「偽物が」

 そして、通勤の人並みが残る駅の方に歩いて行った。


   *   *   *


 見送る香春家の面々に頭を下げるヒメノ。

「今日は本当にご馳走さまでした。代金までお世話になってしまって、すみません」

「いいのよ、英彦がお世話になっているんだから。むしろ、大したもてなしも出来なくて、申し訳ないくらいよ」

 幸子がすまなそうな顔で言う。


「とんでもないです。みなさんにお会い出来て良かったです」

 駅まで送ろうという英彦の申し出と、送れ送れという寿美のプレッシャーを、

「まぁまぁ、今日で終わりというわけではないですから」

 と、纏めて笑顔で受け流し、最後に軽く手を振って、ヒメノは店を後にした。


 そして、20メートル程歩いた所で角を曲がると、止まっていた車の後部座席に乗り込んだ。

「どうでした?」

 ヒメノは助手席の男に尋ねる。

「残念ながら見失ったみたいです」

「あの人、フ―ファーレンと言う在日華連人向けの情報サイトをボランティアで運営しているそうです。アンハクヒと名乗っていました」

「調べておきましょう」

「よろしくお願いします。博士には私から連絡しておきます」


   *   *   *


 サポロイド日本支社の支社長室、スマホを手に画面に向かう奈美の姿があった。

「NSAが見失うって、相手もプロなのかしら」

『それよりも博士。アンハクヒと言う女性についてですが』

「なに?」

『これを見て下さい。先程の映像です』


 こんな時間にお邪魔致しました、と言って頭を上げた女性の顔が映し出される。顔認証のプログラムが化粧の影響を補正し3D化する。

『メイクの影響を排除してメタ化したこの女性の顔認証情報なのですが、白石ヒメノと98%一致しました』

「――ありがとう。わかったわ」

 そう言って通信を切り、深く椅子の背に持たれると、奈美は何処か遠くを見るような目で呟いた。

「どういうこと? そんなこと――あり得るの?」



※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。

 また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術

 は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは

 ありません。

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