第05話 ヒコボシと大人の絵本

―種の保存欲求の感情表現―


 サポロイド日本支社、2階のラボ。

 ヒメノは深く倒したリクライニングシートに目を閉じて横になっており、奈美はモニターとヒメノを交互に見ながら話している。


 モニターの一部は、画像を映したウインドウになっていて、画像の中には小さな吹き出しのような文字がちらちら見えている。他のエリアは、グラフィックイコライザーのようなゲージがひしめいて上下している。


 奈美が優しく問い掛ける。

「香春さんと100人モニターの実験データに関して会話しているところだけど。あなたは、実験データを眺めていた時、何を考えていたの?」

 目を閉じたままヒメノは答える。

「映像とモニターの反応を比べて、関連付けしていました。楽しい、とか、可愛い、とか、悲しい、とか、気持ち悪い、とか、怖い、とか」


「そう。それで?」

「それを見ながら、可愛い、ってこんな顔するんだ、とか、怖い、って時には、いやな顔だけじゃなく、いやいやって感じで手を振るんだなぁ、とか考えていました」


「そう。それで?」

「それで、データの中で面白いって言っていた人の表情を真似て、香春さんに面白い!って言ってみたんです。――そうしたら、香春さんが、一瞬驚いた顔をして、それから笑ったんです。ああ、この表情は、嬉しいという表情だと思いました」


「あなたは、香春さんの嬉しいって顔を見てどう思ったの?」

「香春さんはヒコボシ君に、ある因果関係のルールを与えていました。嬉しいとか楽しいという感情は、生存欲求を充足するように働くと。私も、頭の中で生存欲求のルールを仮定してそれをプラスにしました」

 目を閉じて横になったまま、ヒメノは微かに得意気な表情だ。


「そうやって、いろいろ試すのはいいことだわ。ヒメノ」

「あ、今、博士も、きっと嬉しいって顔をしていますよね」

「ふふ、そうかもね」

 と、奈美は口元を緩める。

「ヒメノ。キツく無い?」

「何がですか?」

「これだけいつも新しい評価軸を意識しながら、フィードバックを繰り返していると相当負担が掛かると思うの」

「今のところ、不自由していません」

「ならいいのだけど。ちょっと重いと思う瞬間があったら、休んだ方がいいわ」

「わかりました。ありがとうございます」

「今のあなたには、その体が付いていけてないのかもしれないわね」


 ――リソースを殆ど限界まで

   使っておいて。

   それで不自由が無いなんて……。


 少し困ったような顔で優しくヒメノを見詰める奈美。


「――あの、香春さんって昨日と比べると、ちょっと男らしくなったと言うか、覚悟を決めつつあると言うか、地に足が付いてきたような印象があったのですが、博士はどうご覧になりましたか?」

「今日は、七瀬さんがいい塩梅で追い込んでくれたと思うわ。最悪、無理にでも先生に尻を叩いてもらわないと、と思っていたけど、流れの中で自然に煽れたから、より効果的だったのじゃないかしら」


 奈美は、話題を切り替えるかのようにふぅーと息を吐くと、ヒメノに問い掛けた。

「ヒメノ……今の自分に足りないものがあるとしたら何?」

「そうですね。100人調査とか見ていて気付いたのですが、種の保存欲求のようなものをどう設定すれば良いか理解出来ていないと思います。今の私は、私個人の生存欲求を軸に自律性が構成されています。種の保存欲求を軸にしたら、自己犠牲も厭わない、より人間らしい自律性になると思うのです」

「直接的には、親が子に抱く愛情。間接的には、社会に尽くしたいとか、人々の役に立ちたいという気持ちが種の保存欲求から来る自律性だと思うけど、そういうことを言いたいわけじゃないのよね?」

「そうですね。もっと深い絶対的なルールのような種の保存欲求が存在すると思います」

「自分が産んだ子供に対する母親の愛が一番近いのかもしれないわ。あなたは母親の愛を表現したいの?」

「表現したい、と言うより、母親そのものになりたいのだと思います」

 奈美は、ヒメノの髪を撫でながら呟く。

「そうね。――いつかきっとなれるわ」



―正論ボヤクイーンー


 家への帰り道、英彦はその日のランチでの七瀬女史との会話を思い出していた。自分の知っている世界が、なんと綻びだらけだったことか、そう思い知らされた衝撃が、英彦の中に鈍く残っていた。


 英彦の実家は、磯子でカグヤマと言う喫茶店を営んでいた。

 父道彦と母幸子さちこが2人で切り盛りしている小さな店で、1階が店舗、2階が住居となっている。昼のランチは、道彦特製のスリランカ風スープカレーと麻婆豆腐の2種類だが、ライス、パスタ、うどん等と組み合わせて提供するスタイルがウケている。



 漸くカグヤマに辿り着いてドアを開けると、カウンターに女性がひとり。幸子に向かって愚痴を垂れている。

「あたしは、20歳の時から修行して修行して修行して、やーっと見習いになって、やーっと美容師になって、やーーっとスタイリストになったわけ。お客さんも付いてきて、これから独り立ち出来るかな? って時だったのよ。なのによ。ひょっと出てきたアンドロイドって奴は、1ミリ秒たりとも修行せずに、最初からスタイリストなわけ!」

 バン! とカウンターに八つ当たりをする女性に英彦は心当たりがあった。


「姉さん帰ってたのか」

「おや、英彦お帰り」

 姉の寿美の愚痴を頷いて聞いていた幸子が顔を上げる。

 寿美は、面倒くさそうに、顔半分だけ振り返ると、横眼で英彦を一瞥し、ぐぁああ、とカウンターに伏せた。


「ただいま。父さんは?」

「上でテレビ見てる。なんか食べるかい?」

 と、幸子が言うのに、いやいい、と答えて、寿美と離れてカウンターに座る英彦。

「それより、ビールあるかな?」

「もう生は締めちゃったから、瓶しかないけど」

「じゃ、瓶で」

 ポン、と栓を抜く音がしたかと思うと、英彦の前に瓶ビールとグラスが置かれた。

 はい、お疲れ様、と手酌でビールを注ぎ、寿美の方に乾杯の仕草を向けるが、寿美は伏せたまま反応無し。


 ぐびり、とひと息に飲み干し、2杯目を注ぎながら、

「姉さんどうしたの?」

 と、小声で幸子に尋ねる英彦。

「なんかね、仕事クビになっちゃったらしくて……」

「うわぁ」

 どうやら、この家の住人が増えるらしい。


 がば、と顔を上げて、寿美が吼える。

「あたしだけじゃないのよ! 店ごとよ。店ごとアンドロイドに乗っ取られるって、どういうことよ。そりゃ、アンドロイドはさぁ、飲み食いしないから休憩しなくていいわさ。文句も言わないわさ。人間様と違ってね。だけどね、あたしらは、頂いた給料で、家賃払って、服買って、御飯食べて、映画見て、旅行して、税金払って、経済を回しているわけよ。アンドロイドが消費するのは電力だけなわけよ。税金も払わないわけよ。世の中にとって、どっちが大事な存在なのよ?!」


 正論だ。寿美のぼやきはいつも正論だ。

 自分の我儘を世の中が受け入れてくれないと嘆くぼやきではなく、寿美自身はいつも正しくあろうとしているのに、理不尽に阻まれる、そんなぼやきだ。英彦は、それを『正論ボヤクイーン』と名付けている。


 寿美の言う通り、経済全体の視点で見ると、人間にはアンドロイドには出来ない貢献がある。アンドロイドは消費経済に参加しないが、人間は消費経済に参加することで経済全体に循環をもたらす。したがって、アンドロイドの代替が広がれば、店は潤うが経済全体は縮小することになる。


「これは侵略だわ! 人間社会への侵略!」

 どん、とカウンターを拳で叩き、突っ伏す寿美。

「――侵略、か」

 英彦は、昨日からもやもやとしたまま整理出来ずにいた混沌をひと言で表す言葉に、漸く出会えたような気がした。


 奈美の言葉、国のあらゆる分野への浸透という形の侵略。

 七瀬女史の言葉、実効支配とプロパガンダによる領土の侵略。

 寿美の言葉、経済の消費主体を弱体化させる経済活動への侵略。

 整理の付かない理不尽と混沌を生み出していたのは侵略と言う脅威だった。


 先日の桜木町駅前の反アンドロイドデモのことが思い出された。

 仕事を奪われたと言う不満を訴える声、アンドロイドは人間に劣る存在だという差別的な思想の訴え、それらがデモの場で訴えられていた主な声だった。

 寿美の言うような、経済を回す主体では無い、と言う訴えはそこには無かった。同じ反アンドロイドの意見でも、寿美の話を聞いた後では、英彦には説得力の乏しいものに映る。


 ごちそうさま、と英彦はリュックを背負うと、空き瓶とグラスを持って立ち上がる。

「姉さん、暫く家に居るなら僕の部屋使っていいよ。僕はリビング使うから」

 がば、と跳ね起きて英彦を睨む寿美。

「ヒコぉ。あんたって子は、いーーっつも、ほんっとーに憎たらしいんだから!」


 ――涙目で言われても、

   欠片も説得力ありません。


「ありがとう、姉さん。おやすみ」

 寿美は、何が? という表情で首を傾げ、英彦を見送ったのだった。



―ヒコボシと大人の絵本―


 翌日、ヒメノは午後1時頃に現れた。

「みなさん、こんにちは。今日もお世話になります。――すみません。通販の荷物を待っていたら遅れてしまいました」

 研究室の女性陣は、手を振ったり、笑顔を向けたり様々だが、昨日のランチでヒメノが好印象を与えたのは間違いない。

「前もって連絡もらってたから別に問題無いよ」


 迎えに出た英彦は、ヒメノが手にしている本に気が付いた。

「荷物って、それ?」

「はい。絵本です」

 と、得意げに表紙を見せるヒメノ。

「絵本にしては、タイトルに漢字が混じってるけど」

「そうなんです。『大人の絵本』なんです」

「『大人の絵本』と言うと普通は怪しいものだけど、大丈夫?」

 怪しい本? と首を傾げるヒメノ。

「いや、知らないなら別にいいんだ。じゃ、さっそくヒコボシの所に行きますか?」

「はい」

 コントロールルームに入ると、100人調査のインポートの続きが始まった。ヒメノは、今日も真剣に見ている。時折目薬タイムを挟むのは相変わらずである。



 3時間で5件のインポートが終わった。

「今日は、少し効率が良かったね」

「そうですね。これも限界効用逓減の結果でしょうか?」

「今日は上位のメタ階層での新しい情報は少ししかなかったから、今日のデータに関しては真新しさが無かったのかもしれないな。――じゃ、絵本やってみる?」

「はい!」


 ヒメノは、ヒコボシのカメラの位置を器用に調整して、机の上の絵本が見えるようにした。ヒコボシのモニターには、絵本がちょうど見開きで映っている。

「それでは、これから絵本の読み聞かせをします。絵本は知っていますか?」

 ヒメノがヒコボシに話し掛ける。

『知っています』

「今日は、大人の絵本ですよ」

『大人の絵本の一部にはアダルトコンテンツを含む冊子が含まれます。例えば、ネットではこういった冊子が販売されています』

 ヒコボシは、何処で手に入れたのか、幾つかの大人の絵本のサンプルを提示した。


「!」

 思わずむせる英彦。

「裸の女性ですね」

 ヒメノは静かに言う。

「ヒコボシ、その情報は要らない。画面を戻して!」

『了解しました』

 ヒコボシのモニターが机の上の絵本に戻る。

 犯してもいない、言い知れぬ罪の意識が英彦を覆う。


「それでは、始めますね」

 と、ヒメノは何事も無かったかのように開いた絵本を一度表紙に戻す。

「一般的に、絵本は小さな子供向けのものが多く、難しい漢字が使われないものも多いのですが、この絵本は、漢字が多く使われているという点で大人向けなのでしょう」

『それでは、大人向け絵本として区別します』

 と、ヒコボシ。


 いきますよ、とヒメノが語り始める。

「タイトル、『知恵の泉のイビト』」

 ピピッとビープ音がして、ヒコボシが割り込みを入れる。

『”イビト”と言うのは固有名詞ですか?』

「お話の中で出て来ますから、今の段階では何だろう? って興味を持っておいてください」

『わかりました』

 ヒコボシがいったん引き下がったところで、ヒメノは表紙を捲り、語り始めた。


   ある所に、知恵の泉と言う、精霊が宿る泉と共に暮らす、小さな国がありまし   

   た。 

   その国では、人間と『イビト』と呼ばれる人形が一緒に暮らしていました。

   『イビト』は知恵の泉の精霊が作った存在です。姿形は人間にそっくりです

   が、額に雫の入れ墨がありました。

   『イビト』達は様々な知恵と技術を持っていました。

   人々は『イビト』から、田畑を耕したり、魚介を採ったり、家を建てたりとい

   う技術を学んで生活を営んでいました。


 ピピッとビープ音とともにヒコボシが質問を投げてくる。

『この国は、世界の何処かに存在するのですか? 私の辞書には知恵の泉と暮らす国は存在しません』

「このお話はファンタジー、作り話です」

『了解しました』

 続けますね、と仕切り直すとヒメノはゆっくりと朗読を続けた。


   毎年、春になると国王が知恵の泉の神殿に供物を添えて祈りを捧げます。

   すると、神殿からたくさんの『イビト』が現れ、国中に散っていくのです。

   『イビト』達は、国の人々に様々な技術を伝え、冬の終わりには神殿に帰って

   いきます。


 ページを捲ると、籠に果物を抱えた少年と父親らしき男の姿があった。


   その国のとある農家に、ナギと言う名前の10歳の少年がいました。

   ナギは父親と2人暮らしです。父親はヤマミと言い、地主のアルジから土地を

   借りて、ひとりで田畑を耕し農業を営んでいました。


   アルジは、お金持ちでしたが、同時にものすごくお金に汚い男でした。

   人間を雇わず『イビト』を何人も雇っていました。『イビト』を雇う方が人間

   を雇うよりも安かったからです。『イビト』は人形なので生きるために食べる

   必要はありません。

   アルジは、『イビト』は奴隷では無い、人間ですら無い、ただの人形だ、と言

   って文句を言わない『イビト』を人間の何倍も働かせていました。

   『イビト』は冬の終わりに神殿に帰るのですが、アルジは毎年毎年雇い替えて

   いたのです。


   ヤマミがクビにならずに済んでいたのは、アルジが雇った『イビト』には作れ 

   ない、美味しい果物『知泉桃ちせんとう』が作れたからです。

   『イビト』はいろいろな知識や技術を持っていましたが、『知泉桃』は作れま

   せんでした。

   この国ではヤマミだけしか『知泉桃』を作る技術を持っていなかったのです。


 ヒコボシはじっと聞いていたが、ピピッと割り込んできた。

『お金を効率的に使うことは良いことなのではないですか?』

 ヒメノは、そうですね、と言いながらヒコボシに尋ね返す。

「『イビト』は何のために人間を助けているのでしょう?」

 ヒコボシが答える。

『人間に様々な技術を教えるためです』

 ヒメノは頷きながらさらに問い掛ける。

「では、アルジは技術を学んでいましたか?」

『学んでいませんでした』

「アルジが技術を学んでいたら、『イビト』を雇う必要はありましたか?」

『ありませんでした』

「それでは、毎年『イビト』を雇うのは効率的なお金の使い方ですか?」

『効率的なお金の使い方ではありません』

「学びもしないのに、『イビト』を雇うことをどう思いますか?」

『”イビト”を騙していると思います』

 よろしい、とヒメノはページを捲る。


   ある時、『イビト』が帰った後の農閑期に、アルジがヤマミに土木工事を命じ

  ます。アルジの田畑に水を引く水路を増やせというのです。

   ヤマミは、ひとりで毎日毎日、少しずつ、水路を掘っていきました。掘っては

  木材で仕切り、掘っては仕切りの繰り返しです。

   しかし、ある日、ヤマミは崩れた木材の下敷きになり亡くなってしまいます。

   立て掛けていた仕切り用の木材が、突風でなぎ倒されたのです。


   ナギは未だちょっとしか家の仕事を手伝ったことがありませんでした。冬から

  春にかけて実る『知泉桃』の収穫がヤマミを手伝った最後の仕事でした。

   働き手を失ったナギの家は貧しく、人も『イビト』も雇うことが出来ません。 

  殆どの儲けを地主のアルジに収めさせられていたからです。

   おそらく、アルジはナギを追い出してしまうことでしょう。


   その年の春、毎年親子で参拝していた知恵の泉の神殿には、ナギがひとりで行

  きました。知恵の泉の精霊に収穫を感謝するのです。

   今年の供え物は、こっそりとっておいた『知泉桃』が1個だけでした。

   その日、家に帰ったナギのところに、1人の『イビト』がやってきました。名

  をミナと言いました。

   この家には、『イビト』を雇うお金はありません。とナギはミナに言いまし

  た。


   ミナは言います。

   本来、私達が人間を助けるのにお金は要りません。人間達が自分の利益のため

  にお金を取っているに過ぎません。『知泉桃』を守るのはあなたの仕事です。

   これから1年間、あなたに『知泉桃』の作り方を教えます。

   アルジさんの『イビト』は『知泉桃』を作れなかったのに、なぜ、あなたには

  作れるのですか? ナギはミナに聞きました。

   ミナは答えます。私は特別なのです。

   翌年の春、仕事を教え終えたミナは神殿に帰っていきました。


 ピピッとヒコボシが反応する。

『なぜ、ヤマミだけが”知泉桃”を作れたのですか?』

 ヒメノは答える。

「いい質問です。とても大事なところに疑問を持ちましたね。最後まで聞けば答えがわかるかもしれませんよ。続きが聞きたくなりましたか?」

『はい。聞かせて下さい』

 では続けますね、と先に進めるヒメノ。


   それから10年が経ち、ナギは大人になりました。

   知恵の泉の神殿の帰り、ナギはヤマミのお墓に語り掛けます。

   10年間、なんとか『知泉桃』を作り続けてきたけれど、貧乏だから嫁が来ま

  せん。私の代で『知泉桃』は終わるのでしょうか。


   すると、ナギの前に再びミナが現れます。

   そこには10年前と変わらぬ姿がありました。

   もうあなたに教わることは無い筈です、とナギはミナに言います。

   すると、あなたには無いけれど、あなたの子供に教えることはある、とミナは

  答えます。

   家には嫁も来ないのに、どうして子供が出来るんですか、とナギが問うと、ミ

  ナは、私があなたの子供を産むからです、と答えました。


   翌年、男の子が生まれ、オミと名付けられました。

   オミが歩けるようになると、ミナは、『知泉桃』の作り方をオミに教え始めま

  す。

   そして、オミがひとりでも『知泉桃』を作れるようになった頃、ミナは神殿に

  帰っていきました。

   

   それから数年が経ったある日、ナギに国王ジルから徴兵の命令が下ります。

   ジルは、知恵の泉と『イビト』を我物にしようと、知恵の泉の神殿への侵略を

  企てたのでした。地主のアルジも徴兵されました。


   国王の軍は神殿を取り囲み、武器を持って神殿の奥に踏み込んでいきました。

   兵士達は『イビト』を見付けては捕まえています。

   ナギが神殿の中庭にある泉に辿り着いた時、そこには数人の『イビト』が居ま

  した。


   ナギは、その中にミナを見付けます。

   その時、見付けたぞ、とアルジが踏み込んできました。

   ナギは、止めて下さい、とミナ達を庇いますが、アルジは聞き入れません。

   ついに、アルジは『イビト』を庇ったナギを切り付けます。

   ナギは背中に大きな傷を負ってしまいました。


   手柄は俺のものだ、とアルジがさらに踏み込んだ時、ゴロゴロと音を立てて、

  黒雲が空を覆い始めます。

   何事かとアルジが空を仰ぐと、黒い雨が降ってきました。

   黒い雨粒から木の芽が芽吹き、あっという間にアルジを包んでいきます。アル

  ジは悶え苦しみますが、暫くすると静かになりました。

   そこには、1本の木が立っているだけでした。


   ミナは泉の綺麗な水を手の平に汲むと、切り裂かれたナギの背中に掛けていき

  ます。すると、傷がみるみる消えていきました。


   意識を取り戻したナギは、ミナに問い掛けます。なぜ私は木にならないのです

  か?

   それは、あなたが巫女の子だからです、とミナは言いました。

   私達は、知恵の泉を守る精霊イデの巫女です。あなたのお父様も、あなたと同

  じようにイデの巫女との間に子供を授かったのです。巫女の血を引くあなたは、

  イデの怒りを受けずに済んだのです。


   ナギが神殿から出ると、まわりは森に変わっていました。兵は木に、軍は森

  に。国王も軍もイデの怒りを浴びて木に変えられてしまったのです。


   その後、国には新たな王が立ちました。

   ナギは、亡くなったアルジの土地を引き継ぐことが許されたので、人を雇って

  田畑を任せました。しかし、『知泉桃』だけは、ナギの一族で育てることにしま

  した。

   ナギの一族は、それからも代々毎年欠かさず、神殿に『知泉桃』を供えたので

  した。

  

  ――おしまい。


 めでたし、めでたし、とヒメノは締め括った。


 ヒコボシは、ピピッと反応して、

『”知泉桃”が、巫女と、ヤマミ、ナギ親子を結び付ける何かであることはわかりますが、ヤマミだけが作れた理由がやっぱりわかりません』

 と、納得いかないといった反応を示す。


 ヒメノは、ちょっと考えて問い返す。

「では、どういう理由が想像出来ますか?」

『例えば、ヤマミが何らかの幸運に恵まれ、巫女と知り合い、技術を授かるとともにナギを授かった、とかでしょうか』

「それは、無理のない考察ですね。私もそう思います」

 ヒメノは頷いて同意を示す。


『その時の巫女もミナだったのでしょうか? もしそうなら、ナギは自分の母親と子供を作ったことになりませんか?』

 「ミナは、ナギがイデの怒りを受けなかった理由を、巫女の子だからと言っていて、私の子だからとは言っていません。それに、巫女は何人もいたわけですから、わざわざ罪作りな解釈をしなくてもいいのではないかと思います」

 ヒコボシは、物足りなさを抱えているのか、ヒメノに食い下がる。

『全ての疑問が完全には解消されていません。続きは無いのですか?』

 ヒメノは冷たく言い放つ。

「続きはありません。ファンタジーにはこういう余韻が大切なのです。全てがすっきりしたら記憶に残らないじゃないですか」

 ヒコボシはピピッと音を鳴らして返す。

『余韻の意味に新たな具体的事例が追加されました』


 さて、と手を叩いてヒメノはヒコボシに尋ねる。

「それでは、今日もポーカーやりますか?」

 ピピッと音が鳴る。

『やりましょう』

 どうやら、ヒコボシは喜びの表現としてビープ音を使うことを覚えたらしい。



※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。

 また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術

 は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは

 ありません。

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