第03話 サポロイド日本支社

―サポロイド日本支社―


 時刻は13時を過ぎたばかりということもあり、外出直帰するには早いと思われたが、伊崎教授にサポロイド日本支社往訪のお伺いを立てると、是非行ってこいと快諾。

 英彦は腹ごしらえをしそびれたことに若干の名残惜しさはあったが、直帰ならば、あと2、3時間の辛抱だろうと、支度をしてヒメノと共に研究室を出た。


 移動する電車の中で、ヒメノに明日からの予定を尋ねられた英彦。

「2週間くらいは、100人調査の結果を食わせることになると思います」

「私も一緒に見たいです」

「構いませんよ。地味な作業ですが」

「その後は? 貯め込んだデータを使って何を確認するのですか?」

「映画を見せたり、絵本を読み聞かせたり、ネットを徘徊させたり、という感じです」


「――カードゲームとかどうでしょうか?」

「ん?」

「ポーカーとかブラックジャックとか。ヒコボシ君にだけ見えるようにカードを立てて、何番目って選んでもらう感じです。カードの操作は私達がやればいいですし。相手の表情を見ながら、ヒコボシ君自身で選択して結果を評価出来ます」

「なるほど。それは面白いですね」

 英彦の頷きに微かに笑みを浮かべたヒメノは、窓の外に目を向けて表情を曇らせた。


「感情そのものはわからないにしても、局面に応じて適切に感情表現が出来て、その言葉も行動も人間と全く区別が付かないAIが出来たとしたら、人々はそれを人間と同じ存在として受け入れてくれるのでしょうか?」

 物憂げなヒメノの横顔に、英彦の表情には自然と温かな気持ちが滲み出る。

「犬とか猫とか、ペットを飼っている人は家族だと思って飼っているものですよね。それと同じようにAIも家族だと思って生活する人は出てくると思います。法律的、生物学的には家族になれないかもしれませんけど……」

「香春さんは優しいのですね」

 そう言って英彦に振り返ったヒメノの表情からは憂いが消えていなかったが、口元は微かに綻んでいた。



   *   *   *


  

 サポロイド日本支社は、京急日ノ出町駅から20分程歩いた馬車道の外れにあった。

 築30年程の3階建てのビルを丸ごと借りている。ヒメノの話では、1階はソフトロイドのショウルームと小さな商談スペースがあり、裏手はソフトロイドの事務所となっているらしい。2階が日本支社のオフィスやアンドロイド研究用のラボ、3階は従業員の居住スペースで、ヒメノもそこに住んでいるとのこと。


 入口を入ると、20代後半くらいのすらりとした綺麗な女性が現れた。ホテルの従業員のような制服を着込んでいる。


「お帰りなさい。ヒメノちゃん」

「イザナミさん、ただいまです」

 ヒメノは英彦に向き直り、イザナミを紹介する。

「こちらが香春英彦さんです。香春さん、支社長のスーパー秘書、イザナミさんです」

「どうも、香る春と書いてカワラです。お世話になります」

「イザナミです。こちらこそお世話になります。――それでは、まずショウルームからご案内しましょうか」

 と、先に立って歩き始める。


 ウッディな扉を開けると、そこには小さな喫茶店があった。

 いらっしゃいませ、とカウンターから声が掛かる。メイド服に身を包んだ女性が笑顔を向けてくる。

 さ、お掛け下さい、とイザナミが店内を見渡せる4人テーブルの席に英彦を案内する。

「ショウルームって言うから、てっきり、ずらっとハニーロイドが並んでいるのかと思いましたが、普通に喫茶店ですね」

「はい。普通に喫茶店です」

 微笑みを浮かべてイザナミが答える。ヒメノが英彦の隣に座るのを見て、イザナミは正面に腰を下ろす。


 先程のカウンターのメイドが、冷水のタンブラーとコースターを3つ持ってきて、温かいおしぼりと共に丁寧に英彦達の前に並べる。

 そして、英彦を見詰めて言った。

「紅茶とコーヒーのご用意がございますが、いかがなさいますか?」

「ではコーヒーで」

 と、英彦は普通に答える。

「畏まりました」

 メイドはカウンターへと戻って行く。


「彼女がいわゆるハニーロイドです」

 と、イザナミがメイドを手のひらで指して説明を始める。

「私共は、ボディに強化プラスチックを使ったアンドロイドをハードロイド、ボディに特殊樹脂を使ったアンドロイドをソフトロイドと呼んでおります。個人の方への販売も致しますが、大半は法人向けの貸し出しサービスです。ハニーロイドと言う呼び名はハニーロイドカフェの登録商標となっておりまして、一般には使えません」

 先のメイドは、コーヒーを英彦の前に置き、お辞儀をすると、イザナミの横に座った。


 メイドは、静かに軽い笑みを浮かべて英彦の方を見ている。時折、瞬きもするので、注意して見ないと人形と気付かないほどの精巧な作りである。

「彼女達は、顔認証でお客様を認識出来ます。彼女達が見た映像、彼女達が耳にした音声は、ベースサーバーと呼ばれる装置に記録されますので、誰が接客しても、そのお客様の認証情報から、過去の記録を読み出し、過去の会話を踏まえて会話を続けられるのです」

「それは、接客業においては誰もが夢見る究極のサービス水準ですね」

 英彦は感嘆の声を上げた。イザナミは、メイドを彼女と呼んだ。英彦には、それが好ましく思える。

「細かいことを言えば、口元はある程度動くのですが、実際の発声は、喉奥のスピーカーから人工音声で行っていて、口元の動きは演出に過ぎません。口パク感が否めないのが現状です。また、バストや女性の部分もきちんと作り込まれているので、殿方の愛玩的なご利用も多少は可能になっています。――もしご興味があるようでしたら、特別にご覧に入れましょうか?」


「!!」


 啜っていたコーヒーを吹き出しそうになる英彦。無理に我慢したため、鼻から少し漏れたコーヒーを慌ててハンカチで拭き取る。イザナミは平気な顔をして大胆な提案をしてくる。

「――つ、謹んで、辞退致します」

 英彦は手を付いて頭を下げる。さすがに、若い女性が2人も居る前で、暗黒面に落ちる姿を見せるわけにはいくまい。


「あの、もしベースサーバ―との接続が切れたら、彼女達はどう振舞うのですか?」

 暗黒面に誘惑されそうなこの流れをなんとか変えなければ、と英彦は質問攻勢に出る。

「そう言えば、香春さんはAIの自律性がご専門でいらっしゃったのでしたわね」

 少し驚いた表情を見せたイザナミは、居直ったかのように、英彦の目を見て言った。

「ベースサーバ―との接続が切れれば、彼女達の活動は停止します。スリープモードに移行すると言った方が正確でしょうか」

 イザナミはヒメノに目配せをしてショウルーム紹介を切り上げる。

「さ、そろそろ行かないと支社長が待ちくたびれてらっしゃいますわ」

 イザナミは立ち上がり、こちらへ、とエレベーターホールへと案内する。

 メイドも続いて立ち上がると、お辞儀をして英彦達を見送った。



 エレベーターを2階で降りると、ヒメノは、すたすたと支社長室らしき部屋に歩いていく。

 ヒメノです。とノックすると、入ってという女性の声がした。


 失礼します。と英彦がヒメノに続いて部屋に入ると、奥のデスクに座っていた女性が立ち上がった。白衣を羽織った、すらりとした年齢不詳の美女である。

「急にお呼び立てしてすみません、香春さん」

 名刺を取り出しながら、英彦を見据える美女。

「改めまして、支社長の白石奈美と申します」

 と、奈美は頭を下げて名刺を差し出す。

 英彦は、名刺を裸で受け取りながら、彼にしては深めに頭を下げた。

「香る春と書いてカワラです。名刺は持ち合わせが無くてすいません」

 名刺には医学博士とある。


 ――白衣が必要な支社長の仕事って?


 どうぞお掛けになって、と勧められるままに、英彦は軽く頭を下げると腰を下ろした。

 英彦の正面には奈美、ヒメノはその隣に座った。


「この度は、サポロイド社のAI研究にご協力頂き、ありがとうございます。ヒメノはお邪魔になってはおりませんでしょうか?」

「とんでもない。こちらこそです。白石さんには、邪魔どころか助けられています。お礼を言うのはこちらの方です。研究資金もご支援頂いていると聞いてますし」

 少し眩しそうな眼をしながら英彦を見る奈美。英彦は、はっと一瞬ヒメノを見て、奈美に視線を戻す。


 ――そう言えば、ふたりとも、

   名刺を出す時、フルネームで

   名乗っていたような。


「――あの、つかぬことをお伺いしますが、その、おふたりは……」

 と、2人を交互に見比べながら言葉を濁す英彦。

「はい。ヒメノは私の娘です。あまり似ておりませんけど」

 いやいや、どちらも美しい、とは口に出来ず、両手を振って否定する英彦。

 少しヒメノのことを意識し始めていた英彦は、ヒメノとの甘い未来を、何の覚悟もなく、ただぼんやりと期待していたことを思い知らされた。

 突然の母親登場、しかも上司とは。



 何を何から話すのか途方に暮れていると、部屋のドアがノックされた。

 お待たせしました、と言いながら入って来たのはイザナミである。

 2人分のティーカップと紅茶ポッド、コーヒーの入ったカップ、茶菓子を乗せたトレイを抱えて歩み寄ると、手際よくローテーブルにセットしていく。英彦の前には、コーヒーと茶菓子が置かれた。


「そう言えば、お昼未だだったのでしょう? 小腹の足しには物足りないかもしれませんけど、ご遠慮なくどうぞ」

 奈美は手を差し出すように英彦に勧める。

「はい。遠慮なく……」

 と言いつつ、いつバレたんだ? とコーヒーに口を付けるのが精いっぱいの英彦。

 給仕を終えて下がろうとするイザナミを、あなたも居て頂戴、と奈美は引き止める。

 イザナミはゆっくりと奈美の横に座って英彦を見る。英彦対美女3の構図である。


 すぅっ、と深く息を吸うような仕草で、英彦の注意を引いて奈美は切り出す。

「今回お呼び立てしたのは、サポロイド社に関して、と言うよりもアンドロイド技術が孕む危険性について、香春さんに知っておいていただきたかったからです」

 しかと聞け、とばかりに美女に見据えられ、その迫力にたじろぐ英彦。

 問答無用でアドレナリンを絞り出させるような眼力である。

 英彦は、思わず背筋を伸ばして頷いた。


「ソフトロイドはご覧になったでしょう? アンドロイドは、より人間らしい外見を持つことで、より人々の生活に溶け込むようになりました。そして、その活動範囲は、工場などでの単純作業や企業の一般事務に留まらず、飲食店、販売店、美容室や理髪店、介護施設、塾など、人と接することの多い現場へ広がっています」

「素晴らしいですね。人間に出来ることは、およそ代替出来るのではないですか?」

「農業や漁業、建築業や土木作業など、重労働が必要な現場向けには、頑丈なボディと高出力のモーターを搭載したアンドロイドを作れば運用可能になるでしょう。しかし、人命に危険が及ぶ可能性のある、運輸や医療などの分野については、ただ作るだけじゃ済まず、法律も改正する必要があるので簡単には進まないでしょう」

「危険な分野で使われないのであれば、アンドロイド技術は安全なのでは?」

 英彦の質問に、奈美は質問で返す。

「危険な分野で使われないのであれば、原子力技術は安全なのでは?」

 はっとして固まる英彦。


「アンドロイド技術そのものは直接人命を脅かすものではありません。ですが香春さん、あなたには技術者として、悪用された場合の影響にも思いを巡らせて欲しいのです。アンドロイドが人間に代わって武器を使う場合もあるでしょうし、AIが武器に搭載される場合もあるでしょう」

 それに、と奈美は続ける。

「こうした直接的な危険性以外にも、アンドロイドにはスパイや工作員のように利用される危険性があります。あらゆる分野で社会に浸透したアンドロイドは、人々から様々な情報を引き出すとともに、人々に特定の情報を与え、思考を誘導する力を持ち得るのです。その意味がわかりますか?」

 困惑を見せる英彦に、奈美はさらに畳み掛ける。

「あなたは、今は戦後が続く平和な時代だと思っているのではありませんか?」

「!」


 日常生活の次元を遥かに超えた質問が英彦を襲う。

「正しくは戦争中。少なくとも戦前の意識を持つべきです」

 英彦には何の備えも無い。この議論には自分は無防備過ぎる。反論の材料は欠片もない。

「――今、あなたが進めている研究が成功すれば、人間と見紛う感情表現が可能なAIが誕生することになります」

 確かに、自分はそれを目指している。この流れは、それを否定しようとしているのか?

 奈美を見る英彦の視線に疑念が滲む。


「あなたには、そのプラス面しか見えていない。――そこが問題なんです」

 どういうこと? という英彦の眼差しを、奈美は優しく受け止める。

「技術は使い方次第で良くも悪くもなる。何も武力衝突ばかりが戦争ではありません。武力を使わなくても、互いに欺きあう戦争も存在します。――諜報戦と呼ばれる戦争です」

 英彦の疑念が驚きに変わる。

「政府、官僚、財界、大学など、あらゆる分野に浸透し、自国に有利な情報操作を行う。今は、その意味ではもはや戦後ではなく戦争中なのです。あなたの研究は、その諜報戦において強力な武器になり得るものです。あなたには、そんな危険な研究に身を置いている自覚がありますか?」

「僕は、ただ……」

 英彦は、二の句が継げない。プラスの面だけを夢見て研究を進めてきたのは事実だ。

 ほんの少しマイナスの面に意識を向けただけで、これまで身の回りに当たり前に存在したものが、とんでもない危険に満ちていたのではないかという疑念が英彦を包む。


 ――何を信じればいい? 

   何が信じられる?


「サポロイド社は、いえ、私はあなたの研究を応援したいのです。あなたと同じように、そのプラス面が人類に与える恩恵に期待しているからです」

 奈美は立ち上がって英彦の隣に座り、両手で英彦の右手を強く握る。

「――ですが、香春さん。私はあなたの素晴らしい技術を、悪い使い方をする人達に利用されたくないんです。人を欺いて、お金や技術を盗むための道具に使われたくないんです。ましてや、この国の自由と平和を脅かす悪意には利用されたくないんです」


 英彦は、心と思考が麻痺したかのように混乱した感覚の中にいた。

 本当に日本と言う国の危機にまで自分の研究が影響を与え得るのか?

 諜報戦という言葉に、自分は何ら現実味を感じられない。

 焦点の定まらない目で、凝固している英彦。

 心なしか血の気が引いて青ざめている。


 ヒメノも立ち上がり、奈美とは反対側に座って英彦の左手を握る。

「香春さんは、今まさに多階層フィードバックの真っ最中なのですね。ゆっくり、じっくり、再評価して戻ってきて下さい」


 ――井の中の蛙。茹でガエル。


 奈美から示された世界観は、英彦の客観的意識の中に、愚かで、矮小で、短絡的で、醜悪な研究者像を投影する。何気なく見ていたネットニュースの記事や最近の身の回りの出来事が、英彦の頭の中を駆け巡る。


 米華貿易戦争

 デリスキング

 米国でスパイ拘束

 華連で外国人逮捕

 華連からの日本企業撤退

 華連公船の度重なる日本領海侵入

 北朝共和国のミサイル発射実験

 奪われた種苗

 ハニーロイドカフェの躍進

 反アンドロイド運動

 職を失うキャバクラ嬢

 美容師達の悲痛な訴え

 華連美女の訪問を受けた加藤のニヤけ顔

 ハニーロイドカフェで見掛けた麗人の姿

 電車の窓際で呟くヒメノの横顔


 『感情そのものはわからないにしても、局面に応じて適切に感情表現が出来て、その言 葉も行動も人間と全く区別が付かないAIが出来たとしたら、人々はそれを人間と同じ 存在として受け入れてくれるのでしょうか?』


「……僕の研究のプラス面……僕の研究のマイナス面……」

 徐々に瞳の焦点を取り戻す英彦。

「――ヒメノ……ちゃん?」

「あら、名前で呼んでいただけるのですか?」

「あ、ごめん、……白石さん?」

「ちょっと、こっちにも白石がいるんですけど?」

 と、英彦の右手を揺すって微笑む奈美。

「え?」

 2人の女性に両側から手を握られている状況に、漸く気付く英彦。


「すいません。すいません。すいません」

 わわわ、と手を解いて、米突きバッタのように奈美とヒメノに何度も頭を下げる。

「わかりました。――ヒメノちゃんと奈美さんで許して下さい」

 涙目で懇願する英彦。

 奈美の支社長という肩書は、英彦の頭の中からすっかり消えてしまったようである。



―桜木町の反アンドロイド運動―


 サポロイド社を辞した英彦は、素直に家路に着いた。

 馬車道からJR桜木町駅前まで歩いた所で、デモ隊らしき人々の訴える声が漏れ聞こえてきた。どうやら、アンドロイド反対デモらしい。

 30人程だろうか、20代から40代くらいの人が多い。駅前広場に集まり、アンドロイド反対を叫んでいる。


 プラカードの内容から察するに、彼らはカフェ店員、美容師、介護士、一般事務などで、アンドロイドに仕事を奪われたと言う訴えである。夜の蝶らしき女性もちらほら混じっていた。


 『アンドロイドの社会進出を許すな』

 『我々の仕事を返せ』


 デモのメッセージに触発され、英彦の中に様々な疑問が沸き起こる。

 この訴えは社会に対して法律での規制を求めるものなのか、それともただ単に人々に共感を求めているだけなのか。

 機械であるアンドロイドを、人間より格下の存在と見る差別的な心理も垣間見える。


 彼ら、彼女らが奪われた仕事は、アンドロイドに代替可能なものに過ぎなかった、と安易に見放せるものなのか。

 使う立場からすれば、アンドロイドは誠実で安定しており、信頼出来る存在だ。

 仕事はいい加減。その癖、権利ばかりを主張し文句ばかり言う。多少なりともそうした人間が混じるよりは、安くて、文句を言わず言うことを聞いてくれるアンドロイドばかりを雇う方が、使役する立場にとって、合理的なのではなかろうか。


 むしろ、アンドロイド擁護の立場からは、人間自身が努力して、より人間ならではの仕事を見付けるべき、との意見が出てもおかしくない。たとえそれが残酷な正論だとしても。


 ――人間とアンドロイドの役割の混沌。


 AIの研究に身を置く身としては、人間ならではの役割、アンドロイドならではの役割を互いに認め合った時、より良い社会が生まれる筈、と英彦は思う。

 海の中で働くタナバタのように、人間がおいそれとは行けない所で、人間には困難な情報収集と分析能力で、あるいは未だ気付かない役割で、アンドロイドと人間が共存する。

 英彦が思い描くのはそういう未来だ。


 などと想いを新たにしながら、英彦が集団を遠目に見つつ通り過ぎようとした時、プラカードを持って応援の声を出す1人の女性に目が留まった。


 日が傾きかけているとはいえ、まだ明るい時間である。後ろに纏めた背中に掛かる程の黒髪の紅い煌きが英彦の目を射る。

 掲げたプラカードには『アンドロイド反対』の文字。

 もしかして、と英彦は立ち止まって思い出す。昨日、ハニーロイドカフェで見掛けたスタッフらしき女性では? だがしかし、アンドロイドを使う立場の人間が、アンドロイド反対を叫ぶわけがない。

 それでも、どことなくヒメノに似たシルエットといい、紅く照り輝く髪といい、英彦には、どうしても同一人物のように思えてならなかった。


 ――なんでだろう?


 英彦は、この意味不明な矛盾がもたらす混沌を、疑問の言葉でしか表現出来なかった。

 どんよりと混沌とした思考に、紅く照り輝く髪の色が混じる。


 人間とアンドロイドが共存する時代が、いつかは来るのかもしれない。だが、そうした明るい未来は、今はまだ、その裏側に脅威を伴って混然一体としたままなのだ。

 サポロイド社で奈美から覚悟を問われた時、英彦の中に渦巻いた混沌は、AI技術が諜報戦に使われる脅威がもたらしたものだ。そしてそれは、今ここにあるにも関わらず昨日までは気付かなかったものである。


 得体の知れない脅威が、これまでも、そして今もなお、ずっと身近にあるのだと、漸く英彦は実感する。だからと言って、避けることも逃げることも出来ない。今自分に出来るのは、こうした脅威に意識を向けること。そして、いざとなった時、向き合う覚悟を持つことくらいなのだろうか。

 もやもやとした混沌を抱えつつも、英彦は、それ以上の深入りを止めて、改札に向かって歩き出した。



※この物語はフィクションです。登場する人物名、団体名は架空のものです。

 また、作品中に出てくるAIの構造や機能、ならびに幹細胞工学や海洋開発の技術

 は、物語の前提として考察したものであり、必ずしも科学的事実に基づくものでは

 ありません。

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