似合わぬ僧の腕立て

三鹿ショート

似合わぬ僧の腕立て

 私は、悪事とは無縁だった。

 嫌悪すらしていたその行為に自分が及ぶなど、想像もしていなかった。

 その切っ掛けは、私の一撃である。


***


 身体が弱く、自己主張をしない私のような存在が他者から虐げられることは、珍しいことではない。

 その日もまた、私は特定の人々から暴力を振るわれていた。

 常のように、無言でその場をやり過ごせば良かったのだが、家族と喧嘩をしていたことが影響したのか、珍しく私は苛立っていた。

 気が付いたときには、私の手は赤く染まっていた。

 首を押さえて倒れている人間と、私が握っていた硝子の破片から、何が起こったのかは阿呆でも理解することができるに違いない。

 だが、これは私が望んだような光景ではなかった。

 初めての行為だったために、自分でも加減が分からなかったのだろう。

 自分を支配していた人間が、情けなく倒れている。

 その姿を見て、私が抱いていた感情は、恐れだけだった。

 ここまでの行為に及ぼうと考えたことは一度も無いのだが、言い訳をしたところで、過去を変えることはできない。

 私は、越えてはならない一線を越えてしまったのだ。

 然るべき機関に出頭しなければならないだろうと考えていたところで、私を虐げていた他の人間たちが、何時の間にか私に向かって土下座をしていた。

 いわく、これまでの行為を謝罪するとともに、これからは私に従うために、生命だけは奪わないでほしいということだった。

 高圧的な態度だった人間たちの情けない姿を見て、私は困惑するしかなかった。


***


 私を虐げていた人々は、私の手下として行動するようになった。

 どれほど肩を怒らせていたとしても、他者の生命を奪うほどの悪人と化すことはできなかったために、それを実行した私に対して恐れを抱いたのだろう。

 彼らは、私が何も告げていないにも関わらず、私のためと称して、様々な行為に及んだ。

 私に良い思いをさせるためにと、怯えた表情を見せる女性たちを差し出した。

 私が快適な生活を送ることができるようにと、宿泊施設の責任者に暴力を振るい、一室を私の所有物とさせた。

 周囲に目を向ければ、私が望んでいないものばかりが存在している。

 命令するだけで望みを叶えることができるこの生活は、誰もが憧れるだろう。

 しかし、私は一度も良い気分と化したことはなかった。

 それどころか、どのように行動すれば、この生活を失うことができるのだろうかと常に考えていたのである。

 何もする必要は無いと彼らに告げることでこの生活を失うことができるのならば、既に実行している。

 失うことができていないことには、理由が存在していた。

 彼らは、私の言葉における、存在していない真意を汲み取っているのだ。

 例えば、私が彼らに対して、この生活を続けるつもりはないと告げたとしよう。

 私としては、そのままの意味なのだが、彼らの場合は異なっている。

 私が現在の生活を気に入っていることは誰もが分かっていることであり、私の言葉通りに行動すれば、それは私の生活の質を落とすということになる。

 そればかりは、避けなければならない。

 私の命令は絶対だが、このように、時には従うべきではない命令も存在するのである。

 ゆえに、私に現在の生活を続けさせるのだ。

 彼らは、このように考えてしまっているのだろう。

 彼らの献身に頭が下がると同時に、私の罪悪感は募る一方だった。


***


 私が彼らの首領と化す以前から親しかった彼女に対して自身の思いを伝えると、彼女は笑みを浮かべながら、

「では、現在の状況に相応しい人間に変化すれば良いのではないでしょうか」

「それはつまり、私が悪人と化すということか」

 首肯を返した彼女を見て、私は困惑した。

 確かに、私が悪人と化せば、罪悪感を抱くことはなくなるのだろう。

 だが、悪人と化すことに抵抗が存在するために、悩む日々を過ごすことになっているのだ。

 彼女は簡単に言うが、私にとっては、四足歩行の獣と化すほどに、難しいことなのだ。

 私の言葉に、彼女は再び笑みを浮かべた。

「何を悩む必要があるというのですか。あなたは既に、一線を越えているではありませんか」

 そう告げられ、私は己の行為を思い出した。

 そういえば、私は既に、越えてはならない一線を越えてしまっていた。

 私が現在のような状況に至ることになった切っ掛けを、何故忘れていたのだろうか。

 それを思えば、私は既に悪人以外の何物でもなかった。

 その途端、私の肉体から重しが消えたかのように、身体が軽くなった気がした。

 私は彼らの一人を呼び出すと、自身の欲望を満たすための命令を告げた。

 相手は文句を言うこともなく頷くと、部屋を出て行った。

 其処で彼女は私に身体を密着させると、

「あなたに、頼みがあるのですが」

 以前の私ならば、彼女のその行動の理由を想像しただろうが、今の私は異なっていた。

 未来を考えることなく、目先の幸福のみを追求するだけの、愚かな人間である。

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似合わぬ僧の腕立て 三鹿ショート @mijikashort

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